深読みの浅瀬わたり

                   「短歌人」1988/9掲載


 中沢新一は『雪片曲線論』の中で、気象のしめす複雑で微妙な変化や運動を感じ取っていられるためには、農民や漁師や遊牧民のようにつねに耳をすまし、目をこらし皮膚を鋭敏にして、環境の変化がしめす徴しを読み取っていく観察の努力が必要であり、それにはある程度「無知」であることも重要だ、と書く。知識人が気象を呼吸するのがむつかしいのは、知識人は概念や問題やらに頭を占領されているためだからだという。気象を感知するためには、夕暮れの砂浜にしゃがみこんで呆けたように夕日と雲に見入っている漁師の老人のような観察者にならなくてほいけない、と彼は書く。

さて、私たちはここに書かれている漁師のようにして、私たちの短歌を読むことが出来るだろうか。一首の短歌作品がしめす「複雑で微妙な変化や運動を感じとる」こと、一首の作品を新しい遭遇として読むこと、作品のしめす乱流や渦をしなやかに読み取ることほけっしてたやすいことではない。中沢新一は同書のなかで、激流の川を泳ぎ渡る老人が、それを見ていた孔子に対して「下降していく渦といっしょに潜り込み、上昇していく渦といっしよに浮かびあがるやり方を私は知っている」と答えた『荘子』の物語にも触れている。孔子はあくまで外側から秩序をあてはめようとする人。けれど、奔流のなかに複雑なカ線を読み取れる老人にほ、この流れは少しも恐しいものでほない。『荘子』は、この老人の話を通して、岸辺に立って抽象的にものごとを考えようとする人たちのニヒリズムを笑いとはそうとしている。この『荘子』の「川」を一首の歌にたとえてみるとき、私たちははたして川に踏込み、その流れや渦をよみとっているだろうか。じつは、私たちの多くは、読者である自分たらがあらかじめ抱えている荷物=「問題」の重さ(あるいは重いという錯覚)のために、作品の流れに身を投ずるよりも、なるべく浅瀬を足速に渡りきったり、作品の流れを自分の「問題」にあわせて改変したりしようとしている。このようにしてそれぞれの「問題」が作品の向う岸に下ろされた時、私たちは肩の荷を下ろしたような安堵を覚えることだろう。そしてこの安堵感に浸っている時、そのようにしてなされた「批評」がニヒリズムに犯されていることを、私たちは知らない。
 



歌の流れは、「批評」の都合に合せてしばしば変えられることがある、という、もっとも端的な例として、岩田正氏が小池光の作品を引用した際に行なった解釈と、その解釈に対する作者小池の異議申立てを取上げてみよう。岩田氏の文章(「音」十一月号、「深さ、重さについての一考察」)の小池作品に閑する部分は次のとおり。

ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭   小池 光
踊るより踊らぬ阿呆親しけれさらさらと風のわたる桟敷に 坂井 修一

 塚本・武川より遥かに下の世代の歌である。今私は私自身の主張の線に治って歌をあげているから、この二人にとっては不本意の選歌かも知れぬ。しかし格別の歌でないにしろ、両首ともよい歌だ。 現代化の波を現象的に、あるいは現象的にしか受けとれ得ぬ母がせ
っかくのよき農村的な、というか牧歌的な庭をゴテゴテと飾りたてたことに対する小池の異和感を歌にしているのである。(以下坂井氏の部分省略) 



小池はこれに対して、本誌二月号で「『ふるさとに母を叱りてゐたりけり』と『極彩あはれ故郷の庭』との間には区切れがあって作者としては決して岩田氏のいうようなつもりの歌ではなかった」という反論を述べている。その文章をすこし詳しく引用してみる。

小池は「当時母は郷里の家にひとりで生活しており、こちらは、夏休みになると帰省することになるがいろいろ気の滅入る事情がある。
いわゆる家庭の事情というやつで、いさかいのあげく、つまるところ「母を叱る」ようなことにもなる。激高して母を叱った後の眼には原色の夏の花花はいかにもあわれである、という歌である」という自分自身の解釈を述べたうえで、次のように書いている。「上と下の問で句は切れる。切れを強調するために『ゐたりけり』とことさらな終止にした。しかし岩田氏にはこの切れが切れとして伝わらない。これは右作品の構造的欠陥によるものか、あるいは読む側のミステイクに帰着するものか。多くの人に判断してもらいたくてこれを書いているのだが、いろいろ眺め直してみたが、歌の有り様としてはこんなところではあるまいか。どう読み直してみても岩田氏の読みの方が特異としか思えない。歌をあまりに理屈合わせ風に読んでいるし、しかも先入観をもって内容をみているような気がする」と。
 
私は、小池のこの作品を本誌初出の時以来つよく記憶していたし、歌集『廃駅』で再読した際にも、小池の説明とほぼ同じような読み方をしていたので、小池の文章を通して岩田氏の解釈を読んだ時には、小池が「いささか驚いた」と書くように、私もまた驚いたのであった。あるいはひょつとして、小池自身の解釈や私の読み方ほうが特異な、強引な読み方であって、岩田氏の解釈のほうがごく普通であるかもしれないと考える柔軟な謙虚さを私は失いたくないが、あらためて小池の歌を読み直してみても、このままの歌のかたちや歌のながれから岩田氏のような読み方が生れるのは不自然だと思われる。歌の下句が「故郷の庭極彩のゆゑ」などと書かれているのなら岩田氏風の解釈も可能であろうし、

 ふるさとの母を叱りてゐたりしは故郷の庭極彩なればなり

などという歌であったならば、ほぼ岩田氏の読み方どおりになるだろう。ということは、岩田氏にとって小池の作品がここに改ざんしたような作品であったとしてもいっこうにかまわないということになるであろう。小池も述べているとおり岩田氏は肯定的な文脈のなかで小池の作品を引用しているのだが、その読み方は気象を感じとる漁師や激流の渦を読取る老人たちとは遠く隔たっている。「母を叱った後の限には夏の花花がいかにもあわれである」という関係が「庭がゴテゴテしているから母を叱った」という関係に反転して理解されたのは「極彩」という語句のせいばかりではない。むしろ、岩田氏が自分の抱えている「問題」に頭を占領されていたためである。岩田氏は小池の歌を引用する前の部分で武川忠一氏の歌の「口寵るような歌いぶり」を「戦争によって阻まれた青春にかかわる叙情」であると肯定的に評価したうえで「ロ寵りは拙劣さにもつらなるが、同時に重さ深さともなりうるものと思う。軽々と現象を撫で飛翔していけるということは、言いかえれば、現実に対してそれ程の責任をも負わぬことを意味しよぅ」と書き、「現今このすべりのよい状況の中で、無批判的に軽々とすべってゆき、新しいもの新しいものへと急速に変貌してゆくことを、私はあまりよいことだと思っていない」と書いている。
 
これで岩田氏の「頭を占領していた問題」は明らかであろう。時代の風潮の軽薄さに対して重い主題を、現象的な様相に対して本質的な探求を、と主張する岩田氏の考えはそれはそれで結構だ。しかしそうした自分の主張のために、一首の作品が全く裏返しに読まれたとしたら、どうであろうか。
 

ところで、岡井隆氏も『短歌研究』に連載中の「前衛短歌の問題(百十三)、茂吉と現代(十二)」でこのことに触れている。岡井氏
ほ『異本論』の「われわれはどれほど対象のあるがままを正しく理解しようとしても、なお、個人的儲差、色づけを免れることほできない。“誤解”のない理解はない」という表現を引用したりすることで、読みの多様化も当然というか、とりあえず半ば岩田氏を弁護するような書き方をしながら、結論として「とはいえ、上の句と下の句のあいだに因果関係をつけて解くというのは、わたしにも、賛成しがたい解釈でした。卒然とこの一首をよんだ段階では、上の句と下の句は、前後関係とか、人間と自然との対立とか、いうふうに理解できました」と述べている。しかし、ここで岡井氏がもっとも注意を払っているのは「極彩」という語句に対してである。岡井氏は、彼自身にも

 たへがたく鬱たへがたく極彩の積木崩れてゐたりけるかも

という作品があるので大きなことはいえないが、と断わりながら、「極彩の庭」という表現に無理な語法を感じる、と述べ、「極彩」す
なわち「極彩色」ととるならば、辞書的な意味では岩田氏の「ゴテゴテと飾りたてたこと」という解釈の方が小池の「あざやかな、激しい色彩」という解釈よりも一般的であるとも述べている。
 
私は小池の作品の流れのなかで、「極彩」をごく自然に、夏の花花の色と感じていたので、岡井氏が何冊かの辞書を繰りのべるまでこれ
がそれほど新奇な語句であるとは思わなかった。なるほどいくぶん強引な用法であるかもしれない。しかし、この強引な語句でしか表現できなかった感情の起伏こそ、この歌のすべてではなかったか。 

私は小池光の作品「ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭」は、岡井氏の「たへがたく鬱たへがたく極彩の積木崩れてゐたりけるかも」という作品の、直接的な影響を受けていると思う。小池の歌が本誌に初出した時には

 読みさしておく『人生の視える場所』秋立つははや母老ゆは早

という歌が並んでいたし、同時に発表された「昨の夜の『聖三稜玻璃』一巻のなごり曳きつつ朝礼にゐる」
は、当時『短歌』に連載されていた「人生の視える場所」の中の「胆管に刃のおよぶころ想ひ出づ『うひ山ふみ』の昨夜の一節」と構造的な類似を示している。ちなみに歌集『人生の視える場所』巻末の「たへがたく----」の初出は小池が編集に参加していた『アルカディア』の八月発行号で、歌集『廃駅』三首日の「ふるさとに……」の初出はその年の十月号である。
 
岡井氏の「極彩」は「極彩色」の辞書的意味に添いながら、音数のゆとりと、心理的な陰影の深さをもちえた用語であった。おそらく小池の念頭にはそのことがあっただろう。しかし、彼が、まさに新しい遭遇のように、この語で眼前の情景を感じとった時、岡井氏の用法とは異なっていた。故郷の庭は岩田氏のいう「現代風」などころか、彼が「母に叱られていた」頃と、なにも変わっていない。ただ、久し振りに帰郷したのに、つまらぬことで「母を叱る」ということがあった後の、普段とは違った目で眺めるまではほとんどみえていなかっただけだ。つまり小池光にとって、故郷の庭は岩田氏の言うようにあらかじめ二元論的な「問題」の場としてあったのではなく、思いもかけず不意撃ちするように彼を訪れた情景であった。それは意味の固定した名辞句ではとらえきれない、いわば息をのむような、言葉を失うような「遭遇」であった。小池はそれを「極彩あはれ」という言葉で辛うじて描いたのであったが、この表現を支えているのは、言うまでもなく作品全体の流れである。私たちには「極彩」という語句から出発するのではなく、歌の流れを通して「極彩」に至る読み方が求められている。



評論のindexへ戻る