『切断』批評




切断される日々
藤原龍一郎について



先の二冊の歌集、とくに『19××』は、「時代の引用」のなかを猛スピードで疾走する歌集だったので、藤原龍一郎にとって短歌という詩形がそろそろオーヴァーヒートする頃か、と危惧していたところ、まさに矢継ぎ早に『切断』が上梓された。私たちはこのことをもちろん喜びながら、ひとりの男が、一年のうちに三冊の、しかもまったく傾向の違う歌集を発表するなどという前代未聞の快挙・暴挙に、このヤワな詩形が耐えうるか、という試練に付き合わされている。

藤原の場合、たしかに短詩形は、そのキャリアからして、私たちのそれに比べてかなり堅牢だった。「ボルボ」のようだった。しかし藤原のボルボもいよいよ解体寸前のところまで来た。この藤原の危機感を、まだ多くの「歌人」たちは気づいていない。この、ほんとうはひどくポンコツである詩形を、これほど全速力で使いまわしてみた経験は、寺山修司でさえないわけだから、藤原が「叙情を切断し、解体寸前にまで短歌を追いつめる」(歌集「切断」あとがき)試みの、その先を予想することは、私たちにはできない。しかし、藤原がここに至るまでの過程については、私には、すこし語る資格があろう。

それは『十弦』という小池光や藤原が作っていた同人誌以来の、藤原の作品に対する熱心な読者であるということにとどまらない。藤原はNHKの制作する短歌番組(「BS歌会」)の中心的なメンバーとして、出演している。あるとき藤原たちは東北地方へ番組のために出かけた。そこから戻った彼は、私に次のような電子メールを送ってきた。

「××の駅前の本屋に寄ったところ、伊東守男訳『うたかたの日々』があったので嬉しくなって買ってしまいました。青年時代に買っていつのまにか無くしてしまっていたものですから、、、」
この、ボリス・ヴィアンの小説こそ、藤原と私との、ある意味で秘密結社的なキーワードだったし、今でもそうだ。『19××』には「傷歌’70」として「日々の泡」の章がある。『うたかたの日々』(『日々の泡』)は、私たちの日々は、ただ擦り減っていくだけだ、ということを、小説としての文体をぎりぎりのところまで解体しながら描いた、今世紀最高の小説だと、私(たち)は思う。今読む藤原の『切断』は、私(たち)の思い描く『日々の泡』にもっとも近づいてきている。

「私たちの日々はただ擦り減っていくだけだ」ということを書き表すためには、短歌の文体そのものが解体されなければならない、と彼はいよいよ考え始めたようだ。

いわゆる短歌的叙情が解体され、夥しい句跨りや、たたみかけるような口調によって、短歌的韻律も解体されようとしている。


短歌的叙情のなかで「よきもの」とされた物の名もこのように解体され、「もの」そのものが記号的なとげとげしい存在として私たちの前を通過して行くだけ、と言ってもいい。



さて、『切断』が、時代の風景を擦過するだけの作品として、「短歌」という詩形を消費するのみに止まるのか、短歌をかぎりなく解体することで、この殺伐とした時代の証言者たり得ているのか。それはむしろ、藤原の後に続く私たち手に委ねられているような気もする。


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