「きちょう」34号評論    1998/11/29
 
  短歌におけるシェストフ的不安を考える
     ―不安と絶望―
 



 与えられた表題におけるシェストフ的不安というところが、読者にわかりにくい部分があるかもしれないので補足してみよう。
 
 シェストフはロシア生れの哲学者で、フランス語の著書では、レオ・シェストフと署名したが、本名はシュバルツマン。初期の著作に『トルストイとニーチェの教義における善』(1900)『ドストエフスキーとニーチェ,悲劇の哲学』(1901)などがある。「人は常に世界を自ら贋造することなしには生きられない」というニーチェ直系の認識に立ち、世界の虚像である理想主義が崩壊し、その背後に虚無が立ち現れる瞬間を、作家たちの生涯と著作の内に探った哲学者とされている。
 
以上の百科辞典的引用は、まさに平凡社版世界大百科事典の、青山太郎の執筆部分を借りたもの。私がこれから書こうとする「不安・絶望・虚無」という視点からの短歌に対する小論のおおまかな方向は、すでに想像されるだろう。
 
  冥らかに思想の鞍部見さけつつけふをいのちと旅果ててゆけ
                     村上一郎『撃攘』

  この頃、しきりに村上一郎のことが思い出される。私は彼の作品の良い読者ではなかったし、あの壮絶な自死から何年経ったのかさえ今では朦であるほど彼についてのディティールに乏しい者であるが、村上一郎が常に抱えていた絶望の感覚は、現在の私たちの前にある索漠とした不安に繋がっているような気がしてならない。
 
     昭和十六年極月、対米開戦の前夜に。
  憂ふるは何のこころぞ秋の涯はからまつも焚け白樺も焚け
  ひとひらの雲ながるる夜さらされし屍をおもむろにめぐり去るもの
     
    昭和二十年八月二十一日夜半、一切に挫折。
  たまきはる曠野のいのち夏草をおほいて遠く果てきいくさは
  遅れなく立たむと記すたまづさに涙か汗かしとど滲みゐし
  
    「六十年安保」殿戦の歌。
  いっさいのことば死に果て夜は白み己れを責めることしげきかな
  野のはてにわが葬棺を曳かしめて或る日は越えむかげろふの丘
 
 初版一九七一年六月二五日の『撃攘』には、(私たちの知らないところの)さまざまな日本の節目における、いかにも「国風」の短歌が収められている。虚妄としての「党」や虚飾としてのイデオロギーをすべて剥ぎ取られたところから書かれているこれらの作品をあらためて読みなおしてみれば、私たちの歌壇から失われた短歌の極北の姿を示していると言ってもいい。
 村上一郎は、戦争と「党派」と安保という、まさにその背後に虚無の立ち現れる時代を生き、それらがすべて失われた、いかにも平穏な時代に死んだ。そして、私たちは、それらがあらかじめ失われてしまった時代を生きている。
 かなり個人的な書き方になるが、『撃攘』の出版された七一年は、私にとって理想主義的な幻影がすっかり消え去った年だった。それ以後の私は、単なる「おたく」として生きて来たにすぎない。「おたく」というのは「短歌フリーク」としてのそればかりではなく、すべてにおいて。私たちは七一年まで理想主義的な運動のなかで、「おたくは、、、?」と議論を持ちかけた。そのように語りかける「おたく」がフリークとしての呼び名になったとき、私たちもまた現実との(村上一郎が行ったような)肉体的な接触をさけて、今ある言葉の表す「おたく」になった。
 
 村上一郎の死後、私たちを統べるものとして何があっただろう。ニュー・アカと呼ばれた論調はナンパの小道具にすぎなかったし、私たちの思想そのものを揺るがせると宣伝されたインターネットは、巨大な伝言ダイヤルを家庭に持ち込んだものに過ぎない。私たちの世代の多くは、(村上一郎のようにではなく)いつも死にたい死にたいと呟きながら、できれば心中がいいな、などとイヤらしいことを妄想する。
 
 「おたく」が極端に変形し、エイリアンのようなものになったとき「オウム真理教」が生れた。この「犯罪者集団」についての、私たちの心理的決着はまだ着いていない。誤解を恐れずに書けば、そこには、愛憎なかばするものがある。
 J・G・バラードは「核の時代のほんとうの恐怖は、核そのものではなく、それによって人々にデカダンスが生れたことだ」と述べた。つまり、私たちのデカダンスの正体は、かならず訪れるであろう「ハルマゲドン」を待ち侘びる心情のなかにある。私たちの多くは「オウム真理教」の教祖が声高に述べたハルマゲドンの到来を、心の深い部分では、待ち望んでいるのだ。居心地の悪い「平和」に耐えかねて。
 
 「ぼくたちは死にそこなってわらいころげる」と、加藤治郎は、「トリッピング」という詩の末尾に書いた。この詩の後には、

  生きたいのいや死にたいのあけがたの雪にするどく墜ちる蜜蜂

 という短歌が添えられている。これが、歌集『昏睡のパラダイス』の、「春のパラサイト」という章の三頁前に登場することに、私は注目する。「春のパラサイト」は、角川「短歌」に発表されたときから話題を集めた、オウム真理教を題材にする作品だ。
    
     一九九五・三・二二、教団施設を強制捜査
  押収のドラム缶にはあるらーん至福の砂糖こそあるらーめ
     旧ソ連型サリン工場だった。
  宙吊りの鯨の腸があるめーり最もにがき管なるめーり
 
 これらの作品について岡井隆は「なほ、この二首は、オウム真理教に取材した歌。揶揄した歌である。誰を?両方をぢゃないかな」と、今年(九八年)の角川「短歌」に書いている。たしかに岡井隆の書くように、この短歌は、オウム真理教と自分自身とを揶揄しているのだろう。しかし、揶揄の度合いは、自分自身に対してのほうが強いのではなかったか。
 
 『昏睡のパラダイス』の、ちいさな批評会があり、私はそこで、この「らーん」「らーめ」「めーり」は、まさに麻原という教祖の口調そのままだ、と述べて、参会者たちに怪訝な顔をされた。しかし、今でもそう思う。
 つまり、加藤治郎の「春のパラサイト」は、オウム真理教を外側から批判的に描こうとした作品ではなく、むしろ、私たちの内部にあるオウム真理教を描こうとしたもののように私には見える。
 もう一度書くが、「トリッピング」は「春のパラサイト」のちょうど一年前の作品だ。
 
 「ぼくたちは死にそこなってわらいころげる」という表現と、オウム真理教に取材した作品が置き並べられる構成の意図を考えながら、
    
     戦争はなぜ犯罪ではないのか。(N・Jベネット)
  ニクメニクメ日本ヨイクニツヨイクニぼーんちゃいなにさすうすあかり
 
 という「春のパラサイト」の作品を読むとき、この絶望の質感は、どこかで村上一郎の抱えていた絶望に繋がっているのではないかと、私は、ひそかに思っている。
 さらに言えば、私たちが、こうした絶望に耐えることは、つまりは、かならず訪れるはずのハルマゲドンが、なかなか訪れない退屈に耐えることでもある。加藤治郎の歌集『昏睡のパラダイス』は、私たちが索漠とした日常の退屈に耐えるための処方箋を、短歌を通して指し示した、ひとつの例だと、思われる。


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