コスチューム・プレイとしての短歌           
『短歌人』2000年5月号



 去年、本誌に『君のいる場所』という文章を書いた時には、「プルサーマル計画」のことを導入部として書いた。今、この計画はMOX燃料の検査データ改竄問題で、完全に頓挫している。三月二日の地元(福井県)の新聞記事を引用してみる。

 高浜原発3、4号機のプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料検査データをBNFL(英国核燃料会社)がねつ造した問題で、関西電力は一日、調査の中間報告書を県や高浜町、通産省などに提出した。BNFLの報告で既に明らかになっている新たな八ロットの不正をあらためて報告したものの、目新しい内容は含まれず、県庁で記者会見した山崎吉秀関電専務は「調査内容が低いといわれても仕方ない部分はある」と、同社の調査に限界があることを示した。

 中間報告は、新たな八ロットについて▽不正に関与したとされる人数が去年より増えている▽コンピュータのデータ管理が甘く不正の入り込む余地があるーことなどから「不正と見なさざるを得ない」と結論付け、ねつ造は計三十一ロットとした。

 関西電力では、弁明の言葉として「コンピュータのデータ管理が甘く不正の入り込む余地がある」と述べたのであった。これを逆に読めば「コンピュータのデータ管理上の不正は、ほとんど見逃されてしまう」ということになる。今や、コンピュータは、それにデータを入力する(しばしば悪意に満ちた)一部の者と、それを物神崇拝的に使う者との間の遮蔽装置のように見える。

 BNFLの報告書によれば、「作業員が過酷な労働環境と、単調な手作業に倦んでいたため、混合燃料の中に、故意にボルトを投げ込んでいた」という事実も報告されている。 現場の作業員の「手作業」といえば、一九九九年九月三十日茨城県東海村で起きた、いわゆる「臨海事故」のことを思い出す。ジェー・シー・オー(旧日本核燃料コンバージョン)の転換試験棟で、作業員3人は、原料のウラン酸化物を、硝酸ウラニルにして沈殿槽で精製する作業の際に、ステンレス製のバケツを使って「手作業」で大量のウラン溶液を入れたために、沈殿槽内のウラン濃度が高まり、臨界状態を引き起こしたのであった。

 現場で行われている「事実」はアンタッチャブルなものとして、隠蔽される。「報告」は、なにかを隠蔽するためにのみなされる。 今、もっとも大きく扱われているニュースの場合には、「事実」と「うその報告」との激しい落差のなかで、キャリア組の警察官僚がふたり辞職した。一九九〇年十一月十三日に新潟三条市で小学四年生の女子児童を誘拐し、九年二ヶ月の間、新潟柏崎市の自宅で監禁した容疑で、佐藤宣行(37)という容疑者が逮捕された事件。この事件について最初に警察の発表した広報文は「柏崎市内の病院で佐藤親子と一緒にいたA子さんを無事保護した」というものだった。そこで、報道関係者の多くは「A子さんが佐藤容疑者に付き添って、容疑者の母親とともに病院を訪れた」というふうに勘違いをした。十九歳になっている少女が発見された、という第一報はこのような誤報として私たちに伝えられたのであった。ところが、二月十八日の新聞記事には次のように書いてある。

 本部長が改ざん決済
 新潟の女性(一九)監禁事件で、女性が佐藤宣行容疑者の自宅で柏崎保健所職員らが身元確認したにもかかわらず、新潟県警が「病院で保護され、柏崎署員が身元を確認した」と記者発表していた問題で、百田春夫刑事部長は一七日、記者会見し、発表内容の一部を小林幸二本部長の決裁で意図的に改ざんしたことを認めた。

 じつは、この事件でも、コンピュータが隠蔽物=弁明の小道具として登場していたのであった。この容疑者は犯行当時、同種の事件で執行猶予期間中であったのもかかわらず、柏崎暑が、同種犯罪者リストの中に「コンピュータ入力」し忘れた「小さな」ミスが、少女の発見・保護を遅らせたというのが警察の弁明であった。



 さて、三月号の「短歌人」誌は、あたかも「二〇〇〇年問題」特集号であるかの様相を呈した。多くの作者が「Y2K」のことを書いた。任意に引用してみる。

 ONのままひたすら零時を待ちいしが何も 起こらず二千年初頭
              町野修三
 二〇〇〇年明けたれど世は事もなしペット ボトルに水立つ厨
              西勝洋一
 Y2Kミサイル飛来もあらざらむロシアか らなら明朝八時
              椎木英輔
 Y2Kなにごとも無く過ぎたるとS・Eの 吾娘が戻る元旦
              谷口龍人
 誤答もあるらしい二〇〇〇年問題 別世界 のこととして
              出口 治
 二〇〇〇年仕事始めは図書館のパソコンの 起動確かめることより
              工藤妙子

 コンピュータ二〇〇〇年問題をおさらいしておく。一九八〇年代以前には、容量の少なかったメモリを効率的に使うために、西暦を二桁で表現していた。一九九〇年代に入り、西暦が二桁では二〇〇〇年を越せないということに気づいた。西暦二桁表現の大抵のプログラムにとって、二〇〇〇年というのは00という値で表現されるが、ある場合はそれを一九〇〇年として動作したり、ある場合の動作は定義されていなかったり、また00に「終了」など特別な意味を持たせたりしていたためにプログラムから見ると想定していなかった事態に出くわすことになり、誤動作が起こる可能性がある。これが2000年問題(Y2K)であった。

 ここに抄出した短歌のように、私もまた面白半分にペットボトルの水を買い込んだり、日本時間のその時刻を、オンラインでEメールを打ちながら待っていたくちだ。しかし、ミサイル発射装置から主要交通機関にいたるまで、私たちの生命に関わるさまざまなものを、これほど未完成な状態のコンピュータに委ねて暮らしている事態を、さらには、一九九九年には膨大な人数の人々が膨大な時間をこのために消費したという、冷静に考えればきわめて滑稽な事態を、私たちはかすかな憤りも感じずに、唯々諾々と受け入れていたのである。

 IDを唯一ニシテ絶対ノ情報トシテ我在ル ユエニ
 プリンタがプリントしたる極彩の色の企画 書その虚無の量(かさ)
 千年に一度なれども2000年問題対策委 員と呼ばれ
 ペーパー・レスオフィスというは無可有郷 プリントアウトの屑の花咲く
             藤原龍一郎

 これらの作品には、企業のなかで「コンピュータに使われている」者の苦々しさと悲哀とが、比較的切実に表現されている。便利な道具と思われていたコンピュータが、私たちの貴重な時間を、どんどん蝕んでいる。
 すでに十年以上も前に、インターネットで暗躍していたハイテクスパイ団(いわゆるハッカー)をネットワーク上で追いつめて捕らえたことで一躍有名になった天文学者クリフォード・ストールは一九九五年に書いた『インターネットはからっぽの洞窟』の中で、次のように述べている。

 もしかするとインターネットのようなコンピュータネットワークは、自由への扉なんかじゃないのかもしれない。僕らの目を現実からそむかせ、僕らの意識を社会的な問題からそらすための、ていのいい隠れ蓑なのかもしれない。そういったものごとについて、積極的な取り組みを避け、受動的な態度を僕らにとらせるための、科学技術の悪用なんじゃないかな。

 日本でも、学校教育の中に限ってはホームページ上の作品をコピーしてもよい、という法律が、近々通過する。おそらく、中身もよく読まずにカットアンドペーストする習慣が氾濫することだろう。個人レベルのインターネットユーザーである私自身の感想として書けば、インターネットを通して私に身に付いたもっとも大きな悪癖は、カットアンドペーストである。(この文章でもすでにコピーの箇所がある)。さらに「受動的な態度」の要因としては、自分の伝えようとする情報内容が、あくまでも相手方のシステム=ブラウザやメーラーに依存することも考えられる。

 日本語の場合、現在のコンピュータで表記できる漢字の制限やばらつきは、不備が多すぎる。たとえば、私のパソコンは「かもめ(區に鳥)」という字が打てない。歌集『不惑の(區に鳥)』は『不惑の鴎』となる。広辞苑第五版のCDをパソコン上で使うと、森おう(區に鳥)外の項は、【森鴎外】と表示される。広辞苑で内田百けん(門に月)の項を引くと【内田百閨zと正しく表示される。しかし、この部分をカットアンドコピーで他の文章に貼り付けると【内田百 】となる。私のパソコンは「閨vという字が表示できるので、ある時、短歌系のメーリングリストで、「内田百閧ヘ、こんなに歯が痛いときに歯医者になどは行けない、と言って酒を飲むような人だったらしい」と書いて送った。半数ちかくのメンバーのパソコンではこの文字「閨vからあとの文章が、いわゆる「文字化け」をして読めなかった。また他日、別のメーリングリストでは、あるメンバーの男性が「子供が産まれました。名前はe一という名前にしょうと考えています」というメールを書いた。このeという字も、かなりのメンバーのコンピュータでは表示できなかった。たまたま読むことのできた私は、「eくん、誕生おめでとう」と書くついでに「王(たまへん)に秀だよ」などと、付け足した(笑)。(のちに、eくんの名前は役所で受け付けてもらえなかったそうだが)。

 「新JIS漢字」、いわゆる第三水準及び第四水準が、今年の一月二十日に日本工業規格として制定されたたらしいので、しばらくすれば、コンピュータ上の漢字表示は少しは改善されることだろう。しかし、この第三水準及び第四水準の積み増しは、現在のコンピュータでは、充分な日本語を書き、それをネットワークで交換することができないということの証明でもある。
 こうした、ある意味での、日本におけるコンピュータの「いい加減さ」は、私たちに、ひそかな無力感をあたえ、受動的な態度を強いる。さらに言えば、気に入らない文章ならば、デリート・キイをひとつ叩くだけで完全に抹殺でき、とても大事にしていたデータでさえ、プログラムの不具合であっけなく消えてしまうというはかなさは、たかが、かもめ(區に鳥)くらいどうでもいい、という「いい加減さ」によって、いよいよ私たちに浸透しているのではないだろうか。

 私自身、十年以上前、つまり、第二水準の漢字はフロッピーデスクを差し替えて入力する時代からワープロを使い、文章はもとより短歌作品もキーボードで叩き出してきたのであったが、そのようなひとりだけの筆記用具の時代とは違い、インターネット時代になってから、むしろ日本語表記の不充分さを強く意識するようになった。

 先に引用した『インターネットは空っぽの洞窟』は、「筆記具が作品におよぼす影響を検証するために」三種類の筆記具を三日おきに使用した、という。その結果は「ワープロソフトは、とにかく文字数をかせげる。タイプライターに向かった日は、ワープロの時よりも、コンパクトで抑制のきいた文体になる。手書きの日は、人との関わりや自分の生い立ちについて書くことが多い」という結果になったそうだ。アルファベットでさえ、このような違いが感じられるとすれば、ローマ字を打ってひらがなや漢字を呼び出す日本語入力は、すでに私たちの日本語を大きく変化させているのかもしれない。書家・石川九楊は『二重言語国家・日本』のなかで、「筆触を欠いたワープロから文体が生まれるかどうかは疑わしいが、肉筆とは異なり、筆尖と紙が接する紙とが接する際の決断と、自己と対象との格闘と会話の摩擦と、また諦念の終筆を欠くために、良く言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生まれてくる」と書いた。また、現在も「手書き」で原稿を書いている島田雅彦は『電脳文化と漢字のゆくえ』の対談のなかで「例えば(手書きで)『憂鬱』と書くと、書いているうちに憂鬱になるんですね(笑)。でもキーを叩けば別に憂鬱じゃないんです。それくらいのちがいはあるんですよ」と述べた。 ワープロソフトは、とにかく、私たちを饒舌にする。お喋りを書き続けているうちに、本当に伝えたい意味内容などは、どうでもいいように思えてくる、と言えば言い過ぎか。少なくともそれぞれの言葉の持っている(たとえば、憂鬱という字を手で書くときのような)肌触りは、キーを叩く時には均一に、のっぺらぼうに感じられる。

 さらに、ローマ字で入力して漢字を呼び出すわけだから、夥しい同音異義語が、ほんとうに書きたいことを、忘れさせるようなことさえある。
 
 恋人よ アルミニウムの瀑布あり

 私が、あるメーリングリストに提出した句である。bakufuと打つと、「幕府」が出る。いっそ「幕府」でもいいか、と思って提出したところ、いみじくも「瀑布」は「幕府」に通じる、という評あり。

 さて、このいい加減さは、短歌(和歌)に代表される日本の文芸に、もともと内包されていた「いい加減さ」ではなかったか、ということに気づく。縁語、掛詞、語呂、地口、洒落、あるいは枕詞に至るまで、ほとんどが同音異義語の重なりとずれを楽しむだけで、ほんとうに言いたいことは、わざと隠蔽するというのが日本の、和歌を中心にした文芸のおおきな特徴ではなかったか。

 「粋」とかさ、あわれむやみに明るくて意 気の多くを俺は疑う     依田仁美

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