詠むということ、謡うということ----------------都々逸

                          2000「開放区」



 恋に死すてふ とほき檜のはつ霜にわれらがくちびるの火ぞ冷ゆる   塚本邦雄

これは塚本邦雄の第六歌集『感幻樂』、「隆達節によせる初七調組唄風カンタータ」と副題の施された「花曜」の一首目の作品である。これ以前の塚本邦雄の歌集にも初句七音の作品は散見するが、明瞭な方法意識でもって、初七調の歌謡を短歌に採り入れたのは、この「花曜」から始まると言っていいだろう。『感幻樂』のあとがきには、
 
 梁塵秘抄、閑吟集、隆達小唄、わけても田植草紙、その中・近世歌謡群の緑野を彷徨した、ながい一時期の習作「花謡」------------

と書かれている。

 『感幻樂』からおよそ三十年。この間の短歌を概観すれば、音数律の意識においては、塚本邦雄の試みからずいぶんと後退してきたように見える。現在の短歌は「語りかける」(あるいは「喋る」)ばかりで、「謡う」ことを忘れた。そもそも定型詩でありながら、声に出して読む際の一定の規範を失った短歌は、作者=主人公=語り手=私、というひとりよがりな構造と、氾濫する会話体のなかで、どんどん散文化してゆく。

 むろん、古歌が声の上でどのように読まれ、謡われたかは、私たちにはすでに不明だ。しかし、塚本邦雄の「花曜」の初七音が、短歌形式の初五音に比べて、それとなく、私たちの耳や唇に「歌謡」を意識させるのは何故だろう。そのことを考えていた私は、いわゆる「都々逸」から、民謡を通して歌謡曲に至る、日本のもうひとつの定型詩ともいうべき「七七七五」調に気づいた。

 隆達小歌に、もっとも多い音数律は「七五七五」、次いで、「七七七七」の形。「五七五七七」の短歌形式もあり、

  夢になりとも 情はよいが 人のつらさを きくもいや

という「七七七五」のかたちは、じつは、それほど多くない。それが寛永年間の弄斎節のころに七七七五(34・43・34・5)の、いわゆる近世小唄として定着し、神戸節・潮来節・よしこの節などの曲調のなかから、都々逸坊扇歌という希有なエンタティナーの登場によって、七七七五の音数律を、「都々逸」と僭称して現在に至る、と、簡略化して書いていいだろう。
 この都々逸ふう音数律(近世小唄調)は、謡う分野ではその後の日本の定型詩を席巻した。

  咲いた桜に なぜ駒繋ぐ 駒が勇めば 花が散る

これは明和年間に制作された「山家鳥虫歌」に収められている民謡だが、「山家鳥虫歌」のおよそ九割近くは七七七五の音数律であるし、
  星の流れに 身を占って どこをねぐらの 今日の宿
  すさむ心で いるのじゃないが 泣けて涙も 枯れはてた

昭和二十二年、清水みのる作詞の「星の流れに」という歌謡曲は「こんな女に 誰がした」というリフレインの部分を除けば、正確に都々逸ふうの音数律を守っている。

  二度と行くまい 丹後の宮津 縞の財布が 空になる
                     (宮津節)
  坂は照る照る 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る
                     (鈴鹿馬子唄)
都々逸→「山家鳥虫歌」→民謡→歌謡曲→(今や瀕死状態の)演歌という系譜については、これ以上に引用するまでもないだろう。

 ところで、私たちが「都々逸」と呼ぶことになる七七七五の定型詩には、それが円寂しようとしている現在から振り返ってみれば、二重の不幸があった。ひとつは都々逸という呼び名と遊芸としての音曲があまりにもポピュラリティを得すぎたこと。たとえば吉川英治『松のや露八』には、次のような一節がある。

 唄といえば、高杉晋作が作ったとかいう
  三千世界の 鴉を殺し 主と朝寝が してみたい
 あたりが、せいぜいの酒間芸術なのであった。

つまり、プロフェッショナルな幇間である露八にしてみれば、都々逸なんぞは、素人芸にすぎない。

 遊芸として「都々逸」だけではプロとしての高座がもたない、ということは、私たちに都々逸という音曲のイメージをもっとも強く与えながら、昭和四十三年に死んだ柳家三喜松の録音CDを聴いても、三喜松の都々逸を唯一継承しているといわれる柳家小三喜松の高座を、名古屋「大須演芸場」へ聴きに行った私自身の印象からしても、言えよう。三喜松は、新内や端唄ばかりでなく映画俳優の立ち回りの真似さえも「アンコ」に挟んで都々逸を演じていたのだった。あまりにもポピュラーになりすぎた都々逸は、誰にでもひねることのできる素人芸としての定型詩になっていた。

 もうひとつの不幸というのは、このように、酒間芸術として謡われる音曲を、「書く」文芸として表現するところに生じた。今年、五月二十二日の朝日新聞に、明治時代の自由民権運動が絶頂を迎えたころ、時の権力者を痛烈に皮肉った都々逸が庶民のあいだでひそかに歌われていたという資料の発見記事が載った。日本芸能史家の倉田善弘が、国会図書館に所蔵されている『自由の魁かけ 南海謡集』に収められていた都々逸を発見したという記事である。

  君が演説 する度毎に 浅き思案が 説けて出る

というような都々逸。これは松方正義を揶揄したものらしい。

 明治三十六年から大正三年まで、黒岩涙香は『萬朝報』で、正調俚謡の選者をつとめた。書かれる「どどいつ」の黄金時代であった。この時期を、時系列的に、当時の「短歌」と比べてみると、現在に至る短歌と「どどいつ」との裂け目が見えてくる。

 「どどいつ」については、小泉八雲の解釈と紹介も省くことができない。明治三十一年、大量の都々逸を翻訳(前出の「三千世界」は長州の木戸の作と書く)しながら、彼は次のように書くのであった。

  しかし自我(エゴ)そのものが定めなき複合体で、エゴ自我は実相ではないという東洋流の教えがこれら俗謡に謡われることはほとんどない。庶民にとっては自己(セルフ)は仮象とは思われぬ。

さて、短歌を書く私たちもまた、自我(エゴ)そのものが定めなき複合体であるということを、遠く忘れている。現代短歌には「都々逸」にあった「34・43・34・5」という音数律上の規範さえもない。謡われる場合の節回しも、作者=自己(セルフ)の任意に任されている。唇から発せられる短歌は、『感幻樂』から五年のちの映画「赤ちょうちん」で、得体の知れぬ中年男役、長門裕之が謡ってみせた、あの醜い節回しから、なにほども変わってはいない。

遠からぬうちに文芸としての「どどいつ」は滅びる。そして、どどいつが滅びることによって、謡われる定型詩が、短歌のようなひとりよがりの文芸を、どのようにして外側から補正してゆくか、という契機も、また同時に失われるように、私には思われる。

まさに「われらがくちびるの火ぞ冷ゆる」であろうか。

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