夏の予選を直前に控えると、レギュラー陣は調整段階に入った。
疲れがたまらないように、みんなより早く練習からあがり、寮で体を休めるのだ。
そして、残されたメンバー外組には、毎年の恒例行事「OB戦」が待っていた。
この6月下旬から7月初旬にかけての時季は、大学野球の春季リーグ戦が終了するあたりで、大抵1週間程の休みがある。OBの方は、これを利用して母校へ激励に訪れるわけだ。
1、2年生主体のチーム対OB。負けたら「点差×グラウンド10周」の、ペナルティがあった。
どんなに点差が開いても、20周以上走らされることはなかったが、昔は本当にやっていたらしい。
OBといっても、各大学で主力として活躍している現役バリバリの選手だ。簡単には勝たせてくれない。
普段木製のバットで打っている人が金属バットを使うのは、どう考えても反則である。
しんどいのは、それだけではなかった。OBが練習で着たユニフォームは、1年生が洗濯しなければならなかったのだ。
洗濯のルールは、原則その付き人の系列がすることだった。清水さんがコーチをしていたこともあり、僕の系列のOBは、実によくいらっしゃった。多いときで6着の洗濯をしたこともある。
「どうにでもなれぃ」
やけくそになっていたが、もはやこの程度の辛さには慣れている自分がいた。
北海道南西沖地震で、奥尻島が津波や火災で大被害にあったという報道がお茶の間を席捲する中、いよいよ僕にとって初めて経験する甲子園大会「夏の予選」が始まった。
開会式の直前に16歳の誕生日を迎えたが、そんなことはどうでもよかった。
暑い中、メンバーのために声がかれるまで応援した。
次々に難敵を倒していったことも手伝って、寮内の雰囲気もよくなってきていた。
メンバー外は、別のバスで試合のある球場に向かうわけだが、丸々3ヵ月以上、PLの敷地から一歩も出られず、同じ風景しか見られなかった僕らにとってみれば、久しぶりに味わう「外の空気」に、勝手にテンションも上がっていった。
外の景色に触れることのできたちょうどこの時期、衆議院議員の解散総選挙があり、どの候補者も声がかれるまで遊説していたのが印象的だった。
「うちらと一緒や。声からしとる!」
このときは、そんなくらいにしか思わなかった。
この選挙が、細川護熙首相による連立政権を誕生させ、自民党の55年体制を崩壊させた歴史的できごとになったと知るのは、夏の予選が終わって気持ちがだいぶ落ち着いてからのことだった。
基本的に1年生は、3年生に対して「はい」と「いいえ」しか使ってはいけないことになっているのだが、夏の予選のときばかりはそんなことを言っている場合ではない。
「がんばってください」
「ナイスバッティングです」
そのように、僕も付き人の阿知波さんに向かって声をかけた。
普段なら事件になるところだが、阿知波さんは快く返答してくれた。
「ありがとう。がんばるわ」
付き人としての絆ができたようで、ものすごく嬉しかった。
同級生の福留も、ホームランを打つなど、5番バッターとして活躍していた。
そしてPLは、遂に決勝まで勝ち進んだ。
決勝の相手は近大付属。僕が最後の最後まで迷っていた高校だ。
この時代は、「春の上高、夏の近付」と言われていた。近大付属は夏に強かった。事実この年も、準決勝でセンバツ優勝の上宮を退け、決勝にコマを進めていた。
PLのピッチャーは松井さん(現アストロズ)、近大付属は金城さん(現横浜)、藤井さん(近大→近鉄→現楽天)の2年生バッテリー。
息のつまるようなシーソーゲーム。試合を制したのは、近大付属だった。
3年生の夏が終わった。それは、すなわち高校野球からの引退を意味する。
甲子園にあと一歩のところで涙を飲んだ先輩方……。
寮に戻って、全員が広間に集められた。
3年生が果たせなかった夢を、残された1、2年生に託す。そのひと言ひと言が、胸に深く刻まれていった。
涙ながらに訴える3年生の姿を見て胸がいっぱいになり、自然に涙があふれてきた。
「このメンバーでも勝てないなんて……」
熱を帯びた目を袖口でこすりながら、大阪を勝ち抜くことの難しさを痛感していた。
翌日から、3年生は夏休みに入る。
最後の仕事となった洗濯物を届けたら、部屋に阿知波さんがいた。
「今までありがとう。絶対甲子園行けよっ」
表情は穏やかだった。
僕の視界がにわかに滲みだした。一瞬で、僕の顔は涙でクシャクシャになっていた。
「は……い……」
そう答えるのが精一杯だった。
「今までお疲れさまでした。そして、ありがとうございました」
本当はそう伝えたかった。しかし、胸が詰まってしまい、言葉にならなかった。
とうとう3年生が引退した。
それは同時に、「PL3大名物」のひとつといわれる、新チーム練習の幕開けだった。
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