研究することは「先生」の資格
大村はま先生
 
 先ほど、「作文の研究じゃいけないんですか!」と怒ったという話をしましたが、私はまた、「研究」をしない先生は、「先生」ではないと思います。まあ、今ではいくらか寛大になりまして、毎日でなくてもいいかもしれないとも思ったりしますが……。 
  とにかく、「研究」というのことから離れてしまった人というのは、私は、お年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思うんです。つまり、前進しようという気持ちがないわけですから。それに、研究ということは苦しいことなんです。ちょっびり喜びがあって、あとは全部苦しみなんです。その喜びは、かけがえのない貴重なものですが。研究ということは、「伸びたい」という気持ちがたくさんあって、それに燃えないとできないことなんです。少しでも忙しければ、すぐおるすになってしまいます。
 なぜ、研究をしない先生は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは、「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。いくつであっても、伸びたくて伸びたくて……、学力もなくて、頭も悪くてという人も伸びたいという精神においてはみな同じだと思うんです。一歩でも前進したくてたまらないんです。そして、力をつけたいかたまりて、希望に燃えている、その塊が子どもなんです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなんです。
 研究している先生は、その子どもたちと同じ世界にいるのです。研究をせず、子どもと同じ世界にいない先生は、まず「先生」としては失格だと思います。子どもと同じ世界にいたければ、精神修養なんかじゃとてもだめで、自分が研究しつづけていなければなりません。研究の苦しみと喜びを身をもって知り、味わっている人は、いくつになっても青年であり、子どもの友であると思います。それを失ってしまったらもうだめです。
 いくら年が若くて、子どもをかわいいという目つきで見たり、かわいいということばをかけてやったり、いっしょに遊んでやったりしたとしても、そんなことは、たわいもないことだと思うんです。いっしょに遊んでやれば、子どもと同じ世界におられるなんて考えるのは、あまりに安易にすぎませんか。そうじゃないんです。もっともっと大事なことは、研究をしていて、勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。私は、これこそ教師の資格だと思うんです。
 私は長い間教師をしてきましたけれども、「研究」から離れませんでした。今でも、話ししやすい先生として、子どもといっしょにいられるということは、それによると思うんです。そして今、ことに、年をとった今は、子どもと離れないようにと、いっそう研究に努力しております。