授業の極意は、「行間を学ぶ(行間を教える)」こと
1982年、4月 
◆ 授業の極意は、子供たちが「行間を学ぶ」ことである。
  言い換えれば、教師がいかに「行間の指導」「行間を教える」かである。・・・
◆「行間」とは 
  ○「行間」とは、本に書かれる文章(行)と文章の間のことである。
    しかし、文章が書かれる紙の地ではない。
  ○紙の地ではなく、あえて言うなら、文章を支えている見えない空間である。 
  ○空間であるから、何も見えない。見えないが、その空間がなければ、文字もなく、文章もない。
   文章がなければ、学ぶことの説明がない。文章は、学ぶことを説明している。
   だが、文章を読んだだけで、その説明を理解できるのであろうか。否である。
  ○文章を支えている空間、つまり「行間」を掘り下げないと、確かな理解は得られない。
 ときには、それを、例えば「時代背景」「背景」などという。少し違う。
  ○ここでいう「行間」とは、そんなものを指すが、実はもっと複雑で多様な空間である。
  ○授業は、書かれた文章・事実を理解するのが目的であるが、見えない「行間」を追求しないと、
 納得の理解が得られない。
  ○「行間」は、見えない。見ようとしないと見えない。
○子供は、見えないものが見えてこないと、興味もわかず、納得の理解はない。
  ○行間」が見えてくると、文章は、一段と耀きを増し、追求する興味がわく。
  ○「学ぶ者にとって、名作、名文が見えてくる。」
  ○教師は、見えない「行間」を、子供が見ようとするときの支援者である。
◆ では、どうしたら「行間を見る」ことができるのか。 
 まず、行間が見えない、読み取れない教師とは、
  ×教師の願いが見えない‥‥手作りの教材・教具が見えない。
 ×教材研究不足‥‥専門知識の不足‥‥子供の学びを構想・誘発できない。
 ×学習心理の勉強不足‥‥理論なき実践は、暗闇の中を進むのみ。

 ×指導技術の未熟‥‥「教授スキル」の勉強不足
 ×授業改善指導者の不足‥‥先輩・管理職ととことん授業を語っていない。
 ×すぐマニュアルを求める。‥‥まず自分で考えてつくってみることが少ない。
   「誰かが、それもえらい人が言っているから」のことが多すぎる。

 ×学習環境整備に汗を流していない。
 ×「学校は、様々な人のバランス」で成り立っていることの認識がない。
教師が「行間を読み取る」ことができるように、管理職・指導者は・・・。
 ○一人一人の教員の授業をしっかり見て、
   一人一人の「授業改善の課題」を明確にする。
   本人とマンツーマンで話し合う。‥‥その教員の課題をしっかり確認する。
 ×「みんなで渡れば怖くない」式の研修だけでは、
   授業改善は、すでに限界が見えているはず。
  ▽でもその一方で、全員での徹底した授業研究・論争は必要である。
 ×「学習方法」「学習形態」が、いつのまにか目的になっている。
   学習内容の定着(学力)こそ、目的であるはず。
 ×「研究授業」「提案授業」のための、授業研究になっていないか。

 ○管理職として、授業改善を指導できる見識を深める。
 ○「よき授業者」としての教員を、しっかりほめる。
 ○学習環境・教材・教具にもっともっと金をかけねば‥‥経営手腕、4Mをしっかり
 ×教師の意識改革だけでは、授業改善はできない。
 ×「個性教育」「総合的な学習」は、金が大変かかる。
 ○ 教材研究・準備の時間を確保する。‥‥管理職にしてもらう受け身より、
                  大人である教師が各自工夫して時間を確保する。
 ×出張・提出物が多すぎる。‥‥休日の動員も平気になっている。