スローガンだけでは、子供は変わらない |
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教育活動は、具体である。 |
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学校は、どうも、「スローガン」とか、「○○目標」とかが大変多く、また、一人歩きをしている。 |
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校訓からはじまって、学校教育目標、学校重点目標、学年目標、学級目標、学期目標、月目標、週目標、生徒会目標、・・・・あげていくと大変な数である。 |
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しかし、その目標をどのように達成していくのか、「場」「時・期間」「対象とする人」「実行する人」「方法」「費用」「達成度」など、具体的なことはほとんど提言されていない。つまり、悪い言い方をすれば、「言葉遊び」、「スローガン遊び」と言われてもしょうがない。 |
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例えば、言い方は違っていても、どこの学校でも、子供の「自主性を育てる」とか「自主性を引き出す」ということが、よくかかげられる。ところが、自主性をどのように育てるのかという具体的な方法論は提言されていないことが多い。まして、「子供一人一人の自主性」ということになれば、子供の数だけ方法論が提言されていなければならないはずである。 |
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したがって、「自主性をこう育てた」という、具体的な実践事例が報告・論議されたことはほとんどないのである。 |
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子供の「無限の可能性を引き出す」という場合も、同様である。 |
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教育界には、何かきれいな言葉、「目標」をかかげておれば、子供が大事にされ、立派な教育活動が行われているという錯覚があるのではないだろうか。 |
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「自主性を育てる」という言葉を盾に、子供を放任し、指導を放棄するという状況が見られる場合がある。自主性を育てるとは、どういうことなのか。自主性を育てるためには、どんな手だてをこうじなければならないのか、といった論議がないまま、自主性の育成を叫んでみても自主性は育たない。 |
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これは、目標にもなっていない。単なる「スローガン」でしかない。スローガンはかけ声に過ぎない。教育の目標は、もっと明確で、具体的でなければならない。そして、その目標を達成するための内容と方法が必要なのである。 |
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「無限の可能性を引き出す」などということは、ある意味では大変無責任な言葉である。 |
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一人一人の子供のもつ可能性に期待をかけ、その能力を最大限にのばしていくことは、我々教師の努めである。 |
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しかし、もともと子供に「無限の可能性」なんてあるはずがない。逆に考えれば、無限に悪くなる可能性だってあるのではないか。 |
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耳ざわりのいい言葉にだまされてはいけない。スローガンだけでは、子供は変わらないのである。 |