茨城県 土浦駐屯地  FILE No,38



 「海軍飛行予科練習生」略して予科練。志願した若者たちが、戦闘機乗りを目指す為に訓練に励んだ。土浦海軍航空隊。
 大東亜戦争の初期は、練習飛行時間も規定通りに行われていた。神風特別攻撃隊編成後、攻撃の主流は特攻になりつつあった。後期になると海軍は戦地に一日も早く飛行兵を駆り出す為に、訓練の飛行時間も規定以下の時間に短縮させた。よって、未熟な少年飛行兵が多く輩出される。
 離陸が出来ればそれでいい。数時間後は敵艦に突っ込むのだから・・・。形をなくした体は魂となり、英霊として靖国神社へ帰って来れる。
 
 戦争末期、いよいよ本土決戦で海軍は「一撃講和」に持ち込もうとする。しかし、特攻により多くの戦闘機を失ってしまっている海軍には、戦うべき戦力がない。このままでは、終戦を模索している内閣や陛下を納得させる事はできない。そこで海軍は、零戦だけでは数字上の飛行機数が足りない為、ついに戦闘には役に立たない練習機までもが強引に本土決戦の特攻機として名を連ねさせた・・・。そんな歴史が70年前にあった。

 命を呈して日本を守った少年飛行兵は、きっと今も霞ヶ浦の上空を飛んでいるのかもしれない。









































旧日本軍地上展示





















昭和15年建築 (医務科 海軍航空隊)



















陸上自衛隊地上展示































































米軍地上展示



































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