自衛隊、災害派遣の模様はこちらからご覧頂けます。

この度、東日本大震災にて被災またはご遺族、ご友人をなくされた方々に心よりお見舞い申し上げます。
                                                           


平成23年3月11日未曾有の大災害が太平洋沖にて発生しました。
マグニチュード9・0 最大震度7(宮城県栗原市)



私は、東京都あきる野市の個人経営の建設会社に勤めています。日頃から住宅耐震構造の木造住宅をお客様に提供しています。地震の影響が家屋に、どの程度影響を及ぼすのか日頃から考えていました。
震度6強の被害を出した茨城県日立市及び、近郊の北茨城市、津波で被害に遭われた福島県相馬市に赴き現地の状況を目視にて確認する為に向かいました。
尚、このレポートは地震等の専門家ではない2級建築士の私が現場にて目視し体験した現状をありのままお伝えする内容でまとめています。ですので地震等の専門家の見解と異なる場合がありますがご了承下さい。また、言われなき被害を被っている福島県民の風評被害に対して少しでも偏見をなくして頂けますよう、現地の今の生活も記載いたしました。


〜現地到着まで〜
朝6時つくばJCT通過、常磐自動車道をいわき方面に向かいます。常磐自動車道は福島原発の放射線の影響を受けていわき四倉〜常磐富岡が通行止めです。常磐道を走る車は対向車とも荷物を積んだトラックと地元のわずかな乗用車だけです。もちろん福島原発の近くに向かうので放射線量は気になります。当日の放射線は、東京0・069マイクロシーベルト、水戸市0・114マイクロシーベルト、いわき市0・26マイクロシーベルトです。ここまでは、すべてマイクロシーベルトの単位です。わかりやすく言うと、肺のレントゲンが1ミリシーベルトです。肺のレントゲンではミリシーベルトに単位が変わります。つまり、ミリシーベルトの1000分の1がマイクロシーベルトになります。福島県の避難範囲以外はレントゲンより安全な場所なのです。現地に向かうとなれば家族が不安に思うので、自分なりに放射線量の知識をつけ、現地に向かう為に放射線の安全性を家族に説明をしました。一番怖いのは漠然と放射能が怖い、と思う事です。私は、現場の確認をする上で、福島県民の方と触れ合う事が多くなりました。そこには、テレビが報道しない、いつもの我々と変わらない日々の生活を皆さんは送っていました。
 


〜茨城県日立市の被害状況〜
高速道路から日立市の街を見ると多くの家の屋根にブルーシートがかかっています。日立北インターで高速をおります。料金所の係員さんに日立市に来た理由を話し被害状況を聞きました。係りの方は高萩市の方なので日立市については詳しく知らないが、高萩市も被害があったから高萩に行ってみればと教えてくれました。後に高萩市も廻る事にしました。
最大震度7の内、震度6強を記録し、被害に見舞われた日立市を廻ります。街を会社の車で走り、確認範囲は料金所周辺4キロ位を見ました。ここは古い家が多数見られます。多くの日本家屋は和瓦が落ちています。特に日本瓦の棟の部分にブルーシートをかけている家を多く見かけました。しかし、かなり古い家屋でも半壊、全壊はしていません。全壊して更地になったであろう敷地もなく、唯一敷地内で物置らしき建物が壊れた後の基礎が残る1件だけでした。洋瓦、コロニアル屋根の落下、その他不具合と外壁、基礎の亀裂も目視の範囲では確認できませんでした。道路も亀裂、凹凸もありませんでしたが、一部玉石が崩れていました。他、ブロックの崩れはありませんでした。新築住宅は瓦共、被害はありませんでした。この区域は地盤が良好で軟弱では無いので地震による余計な振動がなかったのではないでしょうか。また、専門誌によると今回のこの地域の揺れは大きいものの、揺れの周波が小さいので、被害が少なかった要因かもしれないと書いてありました。



〜茨城県高萩市の被害状況〜
料金所の係りの方が住んでいる地域です。日立市の隣になります。こちらの被害は日立市より目立ちました。屋根の瓦は日立市と同じ状況でしたが、大谷石の塀も多く崩れていました。これは鉄筋が入ってなく崩れたものと思われます(手抜きでは無く、施工当時は無筋でよかったのでしょう)。外壁が壊れ、柱が露出している建物も数件確認しました。他には外壁が1階部分の一面すべて剥がれて下地の板が見えていたり、ベニヤで仮の壁を張っている家もありました。取り壊し中の家や、家が傾いて取り壊しをまっている家がありました。傾いた家を見ると1階部分が店舗になっていてシャッターで大きな開口がある家でした。駅周辺には数件最近更地になったであろう敷地が見られました。お屋敷の蔵は漆喰壁がすべて崩落し土壁が露出しています。地元の方に聞いた所、全壊、半壊した家はほとんどが取り壊されてしまったとの事でした。商店街の道路は一部陥没していました。更地をみて全半壊したと思われる確認できた木造住宅の数は8件でした。
30年以上前の木造住宅や店舗は被害が大
20年以上前の木造住宅や店舗は外壁に大小のひび割れ、タイルの剥がれが確認できた。マンションでもタイルの剥がれが確認できた。
近年の木造住宅や新築の被害は見られませんでした。
被害は大きかったですが、我々と同じ様に通勤時間には通勤渋滞がおきていました。大人は仕事や家事、街の子供達は、お友達と集まり元気に集団登校をしていました。震災前と同じであったであろう生活のサイクルを取り戻しているように見えました。



〜北茨城市、大津漁港〜
高萩市のガソリンスタンドの方がここから10K位先の大津に行くと壊れた家が今も多く残ってるよと教えてくれました。「こっちはまったくテレビに映らないけど、あっちはテレビによく映ってるんだよね」とも話てくれました。少し前に天皇陛下もご訪問された地域です。北茨城市の被害は地震に加え津波が起き被害が拡大しました。
北茨城市に入ってすぐ、お屋敷の石積みとその上建つ木製の塀が地震により上下にゆがんでいました。国道沿いに30年以上前の木造住宅も2件、地震により全壊していました。
北茨城市の観光地として有名な野口雨情生家の周辺は津波の被害を受けていました。周辺には、ごみがまとめてありました。窓や玄関扉、建物の仕切り扉も無く家の内部は丸見えです。とりあえず泥を取り除いたのでしょう、外から見てもわかります。薄汚れた階段が印象的に残りました。
大津漁港には沢山の漁船が打ちあげられていました。アスファルト、コンクリートは割れていたり、至る所で陥没しています。漁協組合の事務所の建物は木造では無かった為、崩壊を免れましたが、内壁は剥がれて、内部は机が散乱していました。他にも2階建て鉄骨の骨組みが残っていましたが、一部独立基礎が割れ、ボルトが剥き出しになっていました。津波の力を感じました。周辺の木造住宅は全壊、半壊がほとんどでした。古い家が多かったのもありますが、家の出入り口の開口部が特に大きく、一面壁が無く引き戸サッシだけの古い木造住宅のほとんどが、その被害を受けました。20年位前の家は比較的出入り口の開口が小さく被害が少なかったです。しかし、その隣にある新築2階建て木造住宅や、アパートは外見はまったく被害がみられませんでした。実際、中で生活しておられました。特に近年の木造住宅は窓が少ない傾向があるので津波の被害を免れたのかも知れません。漁港には人が少なく漁に出れない船が、沢山停泊していました。



〜福島県相馬市〜
いわき市から再び常磐自動車道〜東北自動車道を通り原発を避けて、迂回して福島西インターチェンジで降りました。新聞で福島、いわきナンバーの車は帰れと車に落書きされたり、子供も福島県出身と言う事でいじめられると記事を読みました。、放射線は人から人へ感染しません。健康を害する被ばくも簡単にはしませんので、正確な情報を知って頂ければと思います。
震災後の私がイメージする福島県民の生活は、今でも食料、ガソリンも無く、ただひたすら耐え忍んでいる、と思っていました。私もその点は無知でした。水と食料、ガスコンロを持参しました(注;持参が必要な地域もあります)。皆さん元気に働いています。ガソリンスタンドも通常営業していて、コンビニにはたっぷりの食料品と飲料水、本がありました。まったく我々と同じ生活をしています。(注;福島西インターチェンジ〜相馬市の津波被害地域以外までの道路区間の店舗状況です。)県内に入れば福島ナンバーの車に囲まれます。皆さん忙しく日々の生活を送っています。そして、相馬市内にはいりました。中学生もお友達とお話しながら楽しそうに歩いています。もちろん、便利なコンビニもあります。しばらく走りました。我々の街とまったく変わりません。違うのは頻繁にすれ違う自衛隊の車両があることです。
道路を境界にして風景が変わります。被災地はテレビで知る状況以上でした。その境界になってしまう道路から数十メートルで、コンビニエンスとその周辺が被害に遭っていました。少し窪んだ田んぼか、畑か、そこにはまだ津波の海水が残っていて車が流されていました。その近くに大きな漁船が大通りの歩道に押し上げられてそこを迂回するように歩行者が歩いていました。そして、車は歩行者に気遣いながら走行しています。海岸から1.5キロ位の状況です。さらに、海岸に進みます。相馬漁協の湾が見えます。流された家が海に沈んでいました。屋根だけが見えています。マイクロバスも横転したまま浸水しています。誰もここでは亡くなっていないことを祈りながら、津波により破壊された街をさらに走行します。わずかに全壊を免れた店舗を店主が掃除をしています。建物の周辺や隣地は茶色い土砂に色を変えています。ここまで来ると漁船が打ち揚げられている風景が不思議と当たり前に見えてきます。さらに、奥に進みL型の道を道なりに進むと、観光地だったと思われる相馬大橋に続くアプローチの道が寸断されています。周辺の建物は何もありません。茶色い瓦礫と、100mおきに立ち車両を誘導している自衛隊員と、重機とダンプそして、かろうじて立っている鉄筋コンクリート、鉄骨の残骸のみです。悲惨な状況は続きます。破滅した漁村から少し高台にある住宅は一部無事な建物がありました。壊滅した街にも助かった家があったとホッとして、その高台を車で登りました。登り終えその先見えた光景は、テレビをはるかに超える悲惨な光景でした。坂を下った先にあるはずの街が全てなくなっていました。無残な津波の爪あとでした。住宅の基礎が沢山残っています。ここが駐車場だったろうと思える跡もあります。ここには塀があってここが家の玄関で、お風呂場でと予想ができます。そんな、状況下でも軽量鉄骨の住宅がポツンと建っていました。引き潮の影響が大きかったのでしょう、基礎の底が浮き上がっていました。様々な悲惨な状況か

ら、建築屋だから出来てしまう災害前の平和な住宅街の想像が私を押しつぶしていきます。街を少し出ると津波で水没した車が無数広場に集められていました。もちろん、住宅等の廃材も近くにダンプで運ばれていました。ごみ集場所はかなり山積みに思えました。あの瓦礫を撤去して、元に戻るの日がいつになるのか、この事態に正面から向き合っている被災者の方の精神力に頭が下がります。



〜最後に〜
最初に申し上げました通り、自分の見たままを記載したつもりです。上手に表現できず誤解を招いてしまった部分や、読みにくい部分もあったと思います。この場をかりてお詫び申し上げます。最後までお付き合い頂きましてありがとう御座いました。被災された方の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
                                 
                                                  
H,23/4/28 管理人

被災地訪問日、平成23年4月28日 (震災より48日目)

東日本大震災Report