写真:昭和天皇と連合国指令長官ダグラス・マッカーサー。毎日新聞社提供
昭和天皇と連合国指令長官ダグラス・マッカーサー 毎日新聞社提供

続・歴史のスポットを歩く

大森久光

 

昨年4月の本紙に、私は日米大戦を阻止しようと努力した外交官・寺崎英成とアメリカ人妻のグエン寺崎、それに一人娘マリコ・テラサキの戦中における苦労話などを書いた。今回はその続編として終戦後、昭和天皇の御用掛として誠心誠意お傍に仕えた寺崎英成の別な功績と挫折について書いてみたい。

1941年の開戦の後、交換船で日本に送還されてからの寺崎は不遇だった。戦前に大戦を避けようと命がけの外交努力を試みたが、それは真珠湾奇襲攻撃という強引な開戦で打ち砕かれ戦闘に突入、その結果としてアメリカから強制的に帰国させられた。とりあえず兄・太郎が用意した御茶ノ水のアパートに住み、やがて目黒の日本家屋に移っている。

その後も四ツ谷、小田原、真鶴と転々とし、最後には蓼科で疎開というつらい耐乏の生活を味わっている。

これらが終戦に伴った最初の挫折であった。帰国後も大使館に籍はあったものの、「待命」の状態がだらだら続いていた。持病の心臓病を抱え、アメリカ人の奥さんと外国生まれの娘を連れて英成はどんな思いで戦中戦後の日本を生き、暮らしていたのだろうか。

1946年2月になって、戦後処理を行う情報連絡官となり、その後待望の宮内省御用掛に任命される。帰国以来、寺崎に初めて花道らしい職歴が与えられたのである。

当時、最大の関心事は、新しく制定される憲法のもとでの昭和天皇の位置付けと戦争責任だった。昭和天皇が戦争を望んでいたわけではないことは、いろいろな記録で語られている。例えば寺崎英成が書き残し、2015年の文芸春秋10月号に掲載された『昭和天皇独白録』には、その一端と読みとれる肉声が筆記されている。

写真:1930年代と思われる寺崎一家の写真。YAHOOより
1930年代と思われる寺崎一家の写真。YAHOOより

昭和天皇を救った人々

だが連合軍の中でイギリス、オランダ、ロシヤ、中国、オーストラリアなどは、執拗に天皇の戦争責任を追及し、裁判にかけることを求めていた。

1945年に、連合国総司令長官ダグラス・マッカーサーが厚木の空軍基地に到着した。そのマッカーサーの副官として日本に赴任したのがボナー・フェラーズ准将だった。彼はマッカーサー長官より「昭和天皇の戦争責任の有無」について、十日間で調査し、「裁判にかけるか否かを決めるための証拠」を探すよう、特命が下っていた。

そんな状況のなか寺崎英成が宮内庁御用掛に任命され、軍事秘書であるフェラーズを通じてマッカーサー元帥と天皇の最初の会見をはじめ、数回に及ぶ重要な通訳を担当した。天皇陛下を誰よりも尊敬していた寺崎にとって、何としても天皇の出廷だけは避けねばならない。このことは自分の最大の責任だと寺崎は感じていた。

ボナー・フェラーズ准将は、アーラム大学時代、一人の日本人女子留学生・一色ゆり〈旧姓:渡辺ゆり〉と出会っていた。フェラーズは、その後日本を訪れた折に、昔の学友・ゆりと再会した。その時ゆりは、自分の尊敬する恩師・恵泉女学院(現:恵泉女学院大学)の創立者でもある河井道をフェラーズに紹介している。彼はその後も、河井道を通じて小泉八雲などの存在を知り、いろいろな日本の知識を身につけていったようだ。

戦後になって親日家フェラーズがマッカーサー元帥の部下として再来日すると、先ず彼の胸をよぎったのは、河井道のことだった。天皇を不起訴にする有力な情報や助言を探るには、敬虔な教育家であり平和を愛するクリスチャンの彼女以外頭に浮かばなかった。かくて河井道がGHQに招かれ再会を果たしたわけだが、この折も大方の日本人が考えていたように、「天皇を裁判にかけず天皇制を続行するのがよい」との意向であった。日本人がいかに天皇に深い思いを抱いているか、天皇なしでは社会に混乱が生じ、占領政策がまともに出来なくなる可能性が出てこよう。後々『終戦のエンペラー』という小説や映画の中で、「天皇をお救いなさいまし」という道の哀願が飛び出したのもこの折だったようだ。

加えて、寺崎が軍事秘書の肩書を持つボナー・フェラーズに初めて挨拶したとき、話を交わすうちに、偶然彼はテネシー州出身で妻のグエンの遠縁に当たることがわかった。威圧的だった態度は、たちまち親密なものとなった。それ以来、英成はグエンとともにフェラーズ夫妻と家族ぐるみの交際をするようになったと、小説『マリコ』は伝えている。アメリカ人との婚姻が日本の歴史、昭和天皇と英成に意外な幸運をもたらしたのである。

こうしてフェラーズは、戦後、天皇の処遇を決めるマッカーサーに意見書を提出して、天皇訴追の回避に成功した。フェラーズがマッカーサーに提出した『司令官あて覚書』は高く評価され、その多くは河井道の進言や英成・マリコとの友好な関係から生まれた助言を下敷きにしたものだったことは言うまでもない。

写真:終戦直後、マッカーサー元帥の部下として来日したボナー・フェラーズ。YAHOOより
終戦直後、マッカーサー元帥の部下として来日した
ボナー・フェラーズ。YAHOOより


束の間の平和と別れ

終戦の翌年、寺崎英成は前述のように宮内省御用掛に任命され、ようやく陽の当たる道を歩き始めた。その頃のことをグエンはマリコさんにこんな話をしていた。
「あの頃のパパは、本当に輝いていたわ。もちろん、お体具合は相変わらずだったけど、ようやくご自分の活躍の場を得て、ものすごく張り切っていらしたわ。パパは私にこうおっしゃったものよ。『グエン、水を得た魚のようだという日本のたとえの意味が分かるかい。今の私がそれさ。日照が長かったが、ようやく雨が降って水かさが増したのだ。さあ、私は存分に泳ぐぞ』ってね」。
マリコが16歳になって、きちっとした教育を受けさせるために、この頃グエンとマリコをアメリカに戻す話が交わされた。自分から提案した話だが、いざその日が来ると、やはり別れは辛い。病んでいる英成にとって二人をアメリカに返すのは言わば生き別れであり、結婚解消も同然だった。平静を装いつつもこうなった運命に深い悲しみを味わうことになった。戦後、二度目のつらい挫折だったといってよいであろう。


決定的な挫折

最近になって又しても新資料・「御用掛・寺崎英成一九四九年日記」が英成の兄・太郎宅で見つかっている。この記事は昨年の中央公論九月号に発表されたのだが、記事の冒頭には「『昭和天皇の独白録』を作成した側近はなぜ更迭されたか」という副題までついている。執筆者は文学博士で立教大学兼任講師・茶谷誠一氏。著作のなかで氏は、寺崎英成更迭の経緯をほぼ以下のように纏めている。

当時巷間では、マッカーサ元帥と時の総理大臣・吉田茂の不仲の噂が流れてていた。宮内省御用掛を拝命した寺崎英成は、既に国政の権能を持たぬ象徴天皇となった戦後の昭和天皇と急速に親密な関係になった。そして外交や安保政策の意見までが寺崎を通してGHQに流れる可能性が出てきた。戦後の日本の天皇制護持にやっと漕ぎつけた吉田茂にしてみれば、皇室との意見の相違が少しでもあってはならない。吉田は「象徴天皇による度が過ぎた国政関与を控えさせるべく、天皇の情報源である寺崎の首を切って腹心を通訳にすえることで、天皇周辺の情報を管理しようとした」と、茶谷誠一氏は見ている。依然として国政に強い関心をもつ天皇の意向と忠臣な寺崎の行動は、政権に返り咲いたばかりの吉田茂の目の上のたん瘤であり、その結果、寺崎が更迭されたというのが実情のようである。

前にもふれたように、英成にはしばし平穏が訪れたかに見えた。が、しかし又しても最愛の妻と娘との別れが待っていた。それに、かつて自分を任命した吉田茂によって今度は首を切られるという皮肉な結末となり、どん底に突き落とされた。そのためでもあろう、家族なき英成の持病は急速に進行した。世田谷にあった兄太郎宅へ引き取られて療養を続けるも、快復せず、1951年に50歳の若さで波乱の生涯を終えたのである。

一方、国民を思い国民のために行動してきた戦後の昭和天皇は、国民天皇として親しまれ長い激動の時代を生きたが、ついに1989年、88歳の高齢で崩御された。英成没後38年のことであった。日本はその後も平和な時代が続いている。

 

写真:
1)昭和天皇と連合国指令長官ダグラス・マッカーサー。この最初の会見時、タバコに火をつけて差し上げたとき、「陛下の手が震えていた」と、マッカーサーはその回想記に記している。毎日新聞社提供。
2)1930年代と思われる寺崎一家の写真。YAHOO検索画像より。
3)終戦直後、マッカーサー元帥の部下として来日したボナー・フェラーズ。YAHOOより借用。

 

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