1990年〜 1.出会いと別れ

沢登氏のバックを勤めていた可知氏は別のバンド「HIPGELLO」でも活動していた。
そこで、可知氏に誘われて観にいった。
全然違うバンド。(激しかったなぁ)
でもね、歌詞に魅力があった。そして爆音だったけれど、源泉にはカントリー・ロックの血が宿っていた。
ここら辺が可知氏にとって共通項だったのかなぁ。
HIPGELLOの玉川氏の歌詞は今でも魅力的だな。
(その後、COMMON BILLでの玉川氏をみることになるのだが...)

しばらくすると沢登氏の身辺も変化が出てくる。
今まで活動を共にしていたベースの可知氏の代わりに大川氏がサポート。
大川氏も別のバンド「はげろん」で演奏していた。
アルバム発表前後で観にいったらこちらはどちらかと言うとビジュアル系だった。
こちらのほうが輝いてたね、大川氏。

その後、ギターの中西氏が離れていく。その後、大川氏も離れていく。


しばらくすると、沢登秀信&東京フラワーズとしてバンドを従えるようになる。
何度かゲストとしてアコーディオンを弾いていた田ノ岡三郎、ベースの村上聖氏(前述のPapu_luのベーシスト、この頃にはスタジオ・ミュージシャンだったのかな)、ギターの榊原長紀氏、ドラムに鷹家剛志氏(共にスタジオ・ミュージシャン)といった顔ぶれ。
そして、CD制作、1997年にデビュー・アルバム発表となる。 
デビューアルバム直後には、このメンバーでライブを敢行(吉祥寺 MANDARA-2だったかな)。
しかし、フルメンバーでライブハウスで活動できない状況もあり、新たなメンバーに変更しながら東京フラワーズは続いていく。
その際、東京フラワーズのメンバーとして長きに渡ってライブハウスでも演奏してくれていたのがギターの榊原氏。
ギター、プリアンプ、フェンダーアンプで出てくる音に、その土地土地のライブハウスのマスターが度肝を抜かれた逸材。
そして、メンバーがコーラスをしていた。
これはね、一見普通に見えるのだが非常に難しいことなんです。
オリジナルの曲にメンバーがコーラスをしてくれるのは、曲に愛情もって接していないとできないんですよ。

しかしながら、1998年頃に東京フラワーズは解散の運びとなる。
ただ、今でも沢登氏のライブにゲスト出演するメンバーは多い。
長きに渡り見続けていると、これも楽しみである。


このようにバンドは2〜3年で解散ということは良くあるのですが、その後のゲスト出演では数日のサポートミュージシャンとは一線を画した演奏を披露してくれる。
何故なら、共に曲に想いを詰め込んで演奏していた時期があるからなんですね。
そして新たなベクトルを魅せてくれる。
これがまた乙なものです。

そして、 一度出会ったメンバーの新たな一面をその後の活動で観れるというのが、なかなかよさげなのです。
自分も新たな音楽に触れる良い機会でもありましたよ。

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