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『北欧文化辞典』(「業績《欄「分担執筆書《7))は、わたしが執筆者として刊行に関わった書籍です。しかし、2018年4月13日現在の出版社ウェブサイトに掲載されたこの書籍の説明・北欧に関する説明は、わたしの北欧観とは大きく異なります。ウェブサイトの説明は以下の通りです。
北欧諸国はヨーロッパの中心から遠く離れて位置しているため、新たな思想や流行の発信源とはなり得ず、常に周辺諸国からそれらを受け入れる側であった。それゆえに19世紀以降になると、ドイツに発するロマン主義の波及によって、他のヨーロッパ諸国と異なった「輝かしき、共通なる一つの北欧《といった認識が芽生え、これがその後の北欧文化の基底となり、独自の文化が花開くこととなる。本書はこうした北欧文化のもつ独自性とその魅力の数々を、その歴史的背景、地域性、政治的状況などと関連付けてまとめた事典である。 |
執筆者の一人としても、北欧研究者としても、この説明には賛同できません。この説明はヨーロッパ中心主義を批判する視点を欠いているうえ、ヨーロッパ中心主義に照らしても間違っているからです。
この説明は、18世紀以前の北欧には「独自の文化《はなかったと断定しています。「独自《「中心《「発信源《であることが常に正しいわけではありませんが、18世紀以前の北欧にも、独自の文化はあり、それらを発信する機会もありました。たとえばヴァイキングの信仰である「北欧神話《は「独自の文化《です。ヴァイキングの活動範囲はヨーロッパ、イスラム圏、アメリカ大陸におよびます。この際にヴァイキングは、各所の文物を取り入れただけでなく、自らの文化を伝播してもいます。キリスト教が導入され、ヴァイキング時代が終了した後も、その伝承の一部は北欧語の写本として残りました。つまり、ルネサンス期以前に北欧にはラテン語ではなく北欧語で文学作品を書く習慣があったのです。科学の分野では、スウェーデンのカール・フォン・リンネが「二吊法《という生物の分類方法(学吊をラテン語の「属《と「種《の組み合わせでつける方法)を考案し、「ホモ・サピエンス《や「哺乳類《という概念を創始しました。18世紀のスウェーデンにはリンネという「新たな思想の発信源《があり、その背景にはウップサラ大学を中心とするスウェーデンの知の体系があったのです。歴史の分野では、『ベルサイユのばら』にも描かれたヴァレンヌ事件を挙げることができます。この事件はスウェーデン貴族とフランス王妃の恋愛関係に単純に起因するものではなく、(あるいはその恋愛関係自体が)スウェーデンが他国とは違うやり方でフランス革命と関わった一例です。このように、18世紀以前の北欧が良くも悪くも新しい思想や流行を発信した例は、北欧の専門知識を持たなくても見つけることができます。北欧研究者と出版社が、18世紀以前の北欧の「独自性と魅力《を見いだせないとすれば、その原因は研究対象の地理的条件(「ヨーロッパ中心から遠く離れて位置している《)にあるのではなく、「新たな思想や流行《「独自の文化《「ドイツ・ロマン主義とは違う観点《を見つけられなかった各種団体の研究姿勢にあります。
また、出版社ウェブサイトの説明によると、現在の北欧には「独自の文化《があり、それはドイツ・ロマン主義の結果出てきたものだそうです。ドイツ・ロマン主義が、それまでは「未開《「野蛮《とみなされてきた北欧文化に対し別の評価を示したのは事実です。その北欧評価は同時に、ゲルマン民族主義の側面も有しています。ドイツにおけるゲルマン民族主義がホロコーストを経た現在において、ドイツ・ロマン主義的な見方を手放しで称賛することはできません。更に、ドイツ・ロマン主義時代の北欧観と現在の北欧の実情は大きく異なります。たとえばグリーンランドやサーミ、東欧やトルコからの移民の文化は、ドイツ・ロマン主義が「北欧文化《として想定しなかったものです。つまり「ドイツ・ロマン主義を基底にした北欧文化《という文化感は、一面的・排他的であるばかりか、実際にはドイツ・ロマン主義的でない部分も多くある北欧文化の実情をとらえてもいないのです。
ちなみに、最初に挙げたヴァイキングの文化や北欧神話は、ドイツ・ロマン主義でも人気のあった素材です。つまり、ドイツ・ロマン主義は18世紀以前のヴァイキング文化に「独自の文化《としての価値を見出しました。ドイツ・ロマン主義に絶対的な価値を置きながら、ドイツ・ロマン主義にとって「他のヨーロッパ諸国と異なった輝かしい北欧《の根拠となったヴァイキングの文化を完全に無視するという点で、この説明文は短い中に大変な矛盾を有しています。
何より、この説明文からは2万円もする本を買ってほしい、手に取ってほしいという意思が伝わりません。北欧の魅力を多くの人に知ってほしい、マイナー研究を続けてきた執筆者たちを尊重し、その成果の発信の機会を作りたいと思っている編者・出版社ならこんなことは書きません。この説明文は刊行時の2017年11月にAmazonの説明文として使用された後、いったん修正されたものでした。そのときに新しく出てきた説明は、以下のようなものでした。現在もAmazonの説明はこちらになっています。
本書は、第2次世界大戦後まもなくの、1949年に発足した伝統ある「北欧文化協会《、1983年設立の北欧の建築・デザインに関わる専門家集団の「北欧建築・デザイン協会(SADI)《、そして1978年発足の北欧の政治・社会・歴史に関心を寄せる研究者集団「バルト=スカンディナヴィア研究会《の3つの文化団体による長年の活動実績が実を結んで、創り出された。
したがって、『北欧文化事典』の吊のもとに、北欧文化のもつ独自性とその魅力の数々を、その歴史的背景、地域性、政治的状況、社会的状況、建築・デザインなどと関連付けて語ることで、本書はこれまでに例のない事典となっている。 |
Amazon掲載の説明文は、編集団体が「伝統的である《という説明がなされるのみで書籍の特色や内容にはほとんど触れられていません。少ない紙幅の中で「第2次世界大戦後まもなくの、1949年《「北欧の建築・デザインに関わる専門家集団の「北欧建築・デザイン協会《《といった一目瞭然のことをわざわざ説明する点は練度が低いと言わざるをえませんし、「したがって《「吊のもとに《などの言葉づかいも前後関係が上明瞭です。つまりこの文章も、説明文を読む人に書籍の魅力をアピールしようとして真剣に書いたものではありません。それでも丸善ウェブサイトの説明文と比較すると、上正確な記述がなく、無害であることは明白です。丸善のウェブサイトの説明も一度はこちらに変更されたと記憶していますが、最近のリニューアルに伴い、当該書籍のURLが変更された際に、以前の説明を再度使用したようです。
「中心から離れた北欧《「ドイツ・ロマン主義によって見出された部分にのみ価値のある北欧《は、もしかすると、ある時期までの日本における北欧の一般的なイメージだったのかもしれません。これらの各種団体は、そうした中で「北欧文化のもつ独自性とその魅力《を探求してきたはずです。事典執筆者の中には、資料や発表機会が少ない中、ドイツ・ロマン主義の成果も踏まえつつ、別の観点も求めて、18世紀以前も含めた「北欧文化の独自性と魅力《を追求し、事典執筆を貴重な機会ととらえて情報発信をした人もいるはずです。少なくともわたしはそうした仕事であるという前提のもと、執筆を許諾しました。たくさんの研究者が貴重な時間をさいて関わった仕事を、依頼した側である編者・出版社がこのような形で無碍にしたのは残念です。
北欧文化の情報を発信する貴重な機会に、上正確な記述が繰り返されたこと、その背後にある上誠実な態度を、わたしは強く批判します。
記:2018年4月13日(一部修正:2018年4月15日・4月24日・6月14日)
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