鉄道を斬るNo.27
平成21年7月19日

列車運転操縦の望ましい姿とは
― 運転操縦理論の学問的体系化と巧みな運転を行う運転士の輪を広げるために ―

永瀬 和彦

1.現在の列車操縦技量涵養の方法

  日本の鉄道には「運転理論」と通称される技術分野があって、昔からこれに関しての少なからぬ参考書などが刊行されている。運転理論は「速度及び定数」に関わる分野、つまり、列車の運行に必要とされる技術、具体的には機関車の牽引定数及び運転時分の査定、運転設備の基本設計並びにダイヤ作成などに関わる技術や知見を体系化したものである。一方、同じ運転に関わる分野であって、しかも、同じように重要な業務である「運転操縦」については、線区、沿線環境、天候、車種、列車種別、連結両数及び乗車効率などに応じて内容が多様に異なるため、その中身については「教導と見習い」のような徒弟制度の中で伝承されるべきものとされてきた。このためであろうか、列車の運転操縦についての在るべき姿を体系的に記した書籍は、蒸気機関車の投炭法に関わるものが昔に若干存在したことがあったが、近代車両についてはほとんど見当たらない。このため、現在でも運転操縦の技術と技量の習得の多くは以心伝心的に継承されているのが実情で、学問的体系に基づいた教育は行われていない。しかし、大勢の乗客を乗せて走る列車の運転操縦という極めて重要な業務を担う運転士の教育・訓練の全てをこのような状況の下に置くのは決して好ましいことではない。

2.運転操縦理論の体系的な研修の試み

筆者は長年にわたり列車の運転操縦に深く関与する粘着(車輪の空転・滑走)、ATS, ATC及び動力車などの設計、調査、研究及び開発業務に関わって来た。さらに大学に転じた後、JR西日本との共同研究を行う過程で、筆者が主宰する研究室のPCを営業列車に搭載して得た本線上の運転操縦データの多くを熱心な研究生諸君の協力の下に解析してきた。その結果、運転操縦に関わる問題の少なからぬ点については、ある程度、学問的な体系に纏められ得ると考えるようになった。加えて、運転台添乗の際、更には、客室から垣間見た運転室内で、適切とは思われない操縦指導が行われている場面を数多く目の当たりにしてきた。
このような問題を解決するための一つの手段として、運転操縦理論を体系的にまとめた教材や書籍を作成し、これに沿って体系的な教育、訓練及び指導を行う方法がないではない。しかし、それには運転操縦に関わる知見やノウハウを集約して体系的にまとめるための膨大な作業を必要とする。しかし、短期にこれを実施するのは至難である。
このような状況を憂慮した筆者は、JR西日本金沢支社乗務員指導及び車両検修の責任者の御協力の下に、同支社管内の乗務員指導者向に概要を下記に示すような簡単な講習会を試行した。講習会は準備不足や時間的な制約などもあって、とても十分とは言い難い中身であったために反省すべき内容が多々あったと考えていた。ところが、講習会終了後に私的に実施したアンケート結果等から、関係者の方々に予想以上に好意的に受け入れられていることがわかった。さらに、講習会終了後の懇談会の席上では「運転理論の話は聞いたことがあるが、運転操縦に関する理論は初めて聞いて良かった」、「今までの経験に基づいて行って来た運転指導の内容に数的裏付を示してもらって、自信が付いた」などの過分とも思える謝辞も承った。
 最終講習会直前には、講習で得た知識を取り入れての運転操縦を試みて見たいとの受講者の強い要望を受けて北陸本線に試運転列車が運転され、若手及びベテランの受講者が互いに操縦技量を競い合った。ここで得たデータは金沢総合車両所と支社関係者の尽力で図表化され、最終講習会で披露されて関係者が講評を行うなどの究極の実践的研修も実施された。その概要は既にホーム・ページ上で紹介済みである。


− JR西日本金沢支社指導者向・運転操縦理論講習会の目次 −

. 講習会を始めるにあたって
1.   列車運転操縦の望ましい姿とは
2.    運転操縦に必要な主な運転理論(加速・ブレーキ性能、粘着性能) 
3.      運転時分査定の方法(運転時分はどのように決められているのか)
4. 適正な加速方法 (運転時間、省エネ、のり心地などの観点から見て)
5. 列車減速時の適正な操縦方法(遅延防止、滑走及び衝撃防止の方法)
6. 所定のブレーキ力が確保できない事態−粘着の低下―
7. 所定のブレーキ効果が期待できない事態−制輪子摩擦力の低下―
8. 事故時の処置

3.本格的な運転操縦理論に関する研修会の計画

 以上の出来事は、筆者が従前から痛感していた思いを一ボランティアとして一地域で実践した出来事を述べたものであるところが、筆者と全く同じような考えを持つJR首脳がおられたのである。その人とは、JR西日本の山崎正夫氏である。氏は、本来は高度な技量や深い専門知識を必要とされながら現在はほとんど現場に一任されている運転操縦指導について、これに関わる理論や知見を体系化した「運転操縦理論」なる新しい学問体系を確立し、この体系の下で教育を行って運転士の仕事にたいする意欲を向上させたいとの熱い思いを持っておられ、その思いを筆者は最近、何度か承った。そこで、非常に差し出がましい申し出ではあることを十分承知のうえで、JR西全社を対象として金沢と同じような方法で講習を行わせて頂きたい旨を申し出た。筆者の要望は、同社から快く受け入れられることとなり、同社は以下の予定で組織を挙げてこれに取り組むこととなった。

実施の時期・回数、場所、対象者

1研修会の名称  「運転操縦理論セミナー」
2実施時期と期間 今年7月から12回程度を約1年間かけて
3場所 大阪、ただし、必要に応じ運転操縦上の課題を持つ現地を選び、本線上での運転操縦研修も実施する。
4主な対象者 各支社運転操縦指導担当者及び区所の指導員

 セミナーは金沢における内容をベースに、これに補足することが望ましいと思われる以下の内容を追加する予定である。
高密度線区における続行列車の遅延拡大防止法(適正な追い込み運転法)
落葉時期における空転・滑走抑止のための操縦法
自動ブレーキ使用列車における込め不足対処法
急勾配途上における重量機関車列車の起動法
速度照査設備への対応方法とATS-SW, ATS-P設置の考え方
耐雪ブレーキスイッチの扱い方(冬季豪雪線区での実地扱いを含む)
連結時の操縦法
事故の処置(セクション停車時、救援時の併結運転法、火災時の延焼防止対策などを主体に)

4.鉄道界初の運転操縦理論研修の開催
 
「運転操縦理論セミナー」と銘打った研修会は715日の午後、大阪市内で開講式が行われ、JR西日本の首脳及び運輸・車両などの直接の関係部課はもちろんとこと、人事、広報、安全推進、技術、保安システムなど多くの関係部所の幹部が参列された。席上、社長が本セミナーに寄せる熱い思いを述べられた。セミナー会場の様子を以下に示す。

セミナー会場の様子(中央がJR西日本山崎社長、左が筆者)

次いで、筆者から、この学問が日本の鉄道界に根付くために及ばずながら微力を尽くしたい旨の挨拶を述べさせて頂いた。筆者の挨拶要旨を以下に添付させていただく。

セミナーでの筆者挨拶の要旨

平成21年7月15日
「運転操縦理論セミナー開催に際して」挨拶要旨
永瀬 和彦
 列車の運転は「レールと車輪との接触」という他の世界には全く存在しない事象に依存しています。170年の長い歴史を持つ鉄道ですが、レール・車輪間の接触の場には「乗り上がり脱線」、「粘着」、「軌道回路の短絡不良」など、今でも十分解明されていない事象が数多く存在します。運転操縦に密接に関連する分野でも、車輪が極端に滑りやすい或いはブレーキ力が低下する現象が豪雨や豪雪のときに発生します。しかし、これが起きるメカニズムは未だ十分に解明されてはいません。つまり、運転操縦に関わる分野には、鉄道の安全性を向上するための極めて重要な学問的課題が未だに残されているということであると思います。かような現象の起きる場に最も近いところにおられるのが今日、この場におられる皆様方であります。皆様と、そして、こちらにおられるご来賓の方々とが互いに協力して研究を進めなければ、これらの問題の解決は難しいでしょう。関係の方々はこのことを是非、念頭におかれ、「運転操縦理論」という全く新しい学問体系を日本の鉄道界に定着させるようご支援をお願いいたします。
 次に、運転操縦又は操縦指導の任に直接に当たられる方に対してのお願いです。私は、運転と指導の任に当たる方々の腕前などを格付けすると、4段階になるのではと思っています。初級の格付「B」 に属するのは日常の運転操作を無難にこなす方。その上は車両の構造、運転規則、線路及び信号現示系統などを良く知っている方で、格付は「A」。そして、さらにその上のクラスは、そのようなことを唯、知っているだけではなく、臨機の運転操縦が出来、車両故障や異常時運転取扱も難なく対処出来る方で、格付で言えば「A A」。そして、最上級の格付である「トリプルA」に入る方は車両の性能やメカ、そして、運心の条文が何故そうなったか、さらには、過去の事故を踏まえた現行異常時運転取扱方法の生い立ちなどもある程度は知っている人であると思っています。私の知る限り、A AやトリプルAの格付に相当する腕前を持つ方々は、皆、巧な運転をされる方ばかりです。当然のことですが上位に位する方々を、現場第一線でハンドルを握る運転士諸君は尊敬の眼で見ていることは間違いないでしょう。今日、出席された方々は、皆、そのような方であると思っていますが、これからは、そのような方を現場で大勢育てていただきたいと思います。
 このセミナーは私からの一方的な話だけではありません。「巧みな運転とは何か」を模索する研究会的な性格を併せ持っており、いろいろな試験や試運転列車も計画しています。今日、ここにご列席くださった本社の皆様方はこのセミナーが成功裏に終わるようにご援助を賜りたく存じます。
 私は社長にお会いする毎に、このようなセミナーを是非に開きたいとの熱い思いをお聞きして参りました。日本で始めてこのような場を設けられることを提唱された社長のご期待に沿うよう、微力を尽くす所存であります。

5.巧みな運転操縦を心がける運転士の輪を広げるために

稚拙な運転操縦が車両故障、石炭消費量の増加又は蒸気不騰発(前途運転休止)につながりかねなかった蒸気機関車全盛時代には、多くの乗務員が操縦技量を磨くことに意を用いた。これを後押ししたのが幹線の主要機関区で採用されていた交番制度である。これらの機関区では同じ庫の機関士であっても操縦技量に応じ、甲(特急)組、乙(急行)組、丙(各停)組、丁(入替)組のような実質ランク付がされた交番に組み込まれていた。このため、乗務員は上のランクの仕業を目指して技量の向上に励んだものである。
 翻って現代の車両を見ると、操縦技量が多少稚拙であっても車両故障を起こすことはなく、込め不足に起因するブレーキ力の低下もない。とは言っても、乗務員に本来的に求められる運転操縦技量の水準や質が昔に比べ低くなったと私は思っていない。問題は稚拙な操縦をしても、昔の蒸気機関車とは違って事故や大幅な遅延に結びかないため、表面に出る機会がほとんどないだけなのである。停止直前のブレーキ扱いを見れば、「心を込めた丁寧な運転」をしている者と、「止まれば良い」程度の気持でハンドルを握っている運転士との相違は直ぐに分かる。心を込めた運転を心がける運転士の輪を広げ、高い技量を持った運転士が尊敬される雰囲気を醸成することが乗務員の仕事への意欲を向上させ、長期的に見れば鉄道の安全を向上させることに繋がることを、鉄道を経営する幹部の方々は肝に銘じて頂きたいと思う。
 最後に筆者が金沢で実施した講習会で、私的に行ったアンケートに対して心ある指導担当者が現状を憂えて問題の一部を的確に指摘した文言の一部を紹介させていただく。
 「運転操縦は何が100%なのか明確でないから良い仕事をしても評価がない。これでは、限られた人しか技能向上に取り組まない。事故さえ起さなければ下手でも良いと思う人に意欲を持たせるためには基準が必要である・・・。運転士は100点の仕事は出来ない。毎回、反省し、同じ失敗をしないようにして100点に近づける努力をする運転士作りが必要である。・・・教える側の人も育てなければならない。」

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