平成161021
鉄道を斬る No21

JR越美北線の橋梁被災現場を見る(その2
−荒廃した山林から流失した多量の流木による橋梁ダム化の危険性−

永瀬 和彦

1. はじめに
先の本欄「鉄道を斬る」No.21で、平成16718日早朝に福井県地方で発生した豪雨によるJR越美北線被災の状況についてお話しをした。しかし、数多くの橋脚が倒壊した原因については紙数の関係もあり、言及しなかった。そこで、ここでは現地調査の結果を踏まえて、橋脚倒壊の原因を「非専門家の立場」からお話させていただく。従って、内容は前報と同じように不十分で、多くの誤りが含まれている可能性もあることをお含み置き下されば幸いである。

2. 橋脚はなぜ破断したか
2.1 橋梁の強度は十分に確保されていたか
今回の被災状況を見聞した方々は破断して倒壊した橋脚を見て、強度が十分に確保されていなかったのではとの疑念を持たれたことであろう。なぜなら、倒壊した橋脚の多くは丸でガラス細工が壊れるよう破断し、しかも、破断面を見る限りは図1に示すように殆ど鉄筋が入っていなかったからである。さらに、橋脚が基礎部分から言わば「根こそぎ」倒壊した第3橋梁には基礎杭が打たれていた様にも見えなかったからである。最近、各地に建設されている橋梁や高架橋の橋脚には、鉄筋が挿入され又は基礎杭が打たれた例が多いことを考えると、今回の災害は人災ではないかとの疑念を持たれるのは無理もないことである。そこで、以下には橋梁の強度はどのような考え方で確保されているかを先ずお話しよう。


図1 橋脚の基礎部分付近から破断した第5橋梁の第3橋脚(橋脚に巻かれた鋼板は耐震補強材と推定)

.2 橋脚が確保すべき強度
橋梁を設計するに際しては、いろいろな力が橋梁に作用することを想定し、これに十分耐える強度を確保する配慮がなされている。詳細を述べるのは差し控えるが、例えば車両が橋梁に及ぼす力については、車両の移動に伴う荷重の掛かり方の変化 (活荷重) を考慮することは当然として、それ以外にも、車輪フラット等による衝撃荷重、超過遠心力、左右動による横力及び加減速による前後方向の力までをも考慮することになっている。
車両の以外に考慮すべき横力としては、洪水時の激流による力(流水圧)はもちろんのこと、地震、風荷重(車両が受けるものも含む)、さらには、自動車が橋梁に衝突したときの荷重までをも考慮すべきとされている。今回の災害で橋脚が激流で倒壊した当時に、地震が起きたり、大風が吹いたり、重量列車が通過したり、まして、自動車が橋梁に衝突したなどという話は全く聞いていない。だから、橋脚倒壊時に橋脚に作用した外力のほとんど全ては流水圧によるものと判断して差し支えないであろう。つまり、橋脚に作用するとされる多様な力の中で、今回の橋脚の破断や倒壊は水流圧だけによって引き起こされたと見て間違いない。
ところで、実際に橋脚を設計する際に、橋脚の倒壊を防ぐために考慮すべき外力(横力)で最も大きなものは一般的には地震荷重である。そして、鉄道構造物の耐震性に関する基準では、本橋梁が建設された昭和33年以降に起きた幾つかの震災の経験を踏まえて見直しが行われ、多くの構造物が改定された基準に沿って手直しされていると推定される。写真1に示す橋脚に巻かれた鋼板は、橋梁が建設された昭和33年当時からあったとは考えられず、恐らくはその後に起きた震災によって橋脚の耐震基準が改められた際に行われた補強工事で付けられたものであろう。
そして、その補強工事は当然ながら改定された技術基準に沿って適正に行われているであろうから、越美北線の足羽川に架けられている現在の橋梁にとって天敵とも言える地震に襲われても十分に耐え得るだけの強度を保持していることになる。ところが現実には、今回の豪雨による激流で多くの橋脚がいとも簡単に倒壊してしまったのである。ということは、倒壊した足羽川橋梁群に作用した水流圧による荷重は、橋梁の天敵である地震による荷重を遥かに超えた値であったことになる。


2.3 激流が橋脚を押し倒す力
洪水時に激流によって橋脚が押される力の算出方法は国土交通省が定めた技術基準に規定され、押し倒す力に最も大きな影響を与える因子は激流の表面流速である。洪水時の水流速さがどの程度であるかを私は全く知らないし、まして、足羽川に掛かる橋梁が損壊したのは早朝であろうから、当時の水流の速度は調べようもない。しかし、今回の諸データを見る限り、流速はあまり早くはないようである。
主要河川には要所に水位計が設置されているが、足羽川水系では越美北線一乗谷駅の約1キロ下流の天神橋と、足羽川が日野川と合流する地点よりやや下流の深谷に置かれている。そこでの当日の観測データを図1に示す。



図2 福井豪雨当日の足羽川川沿の降雨量と水位変化
(国土交通省及び気象庁観測データによる)

両観測所間の距離は約12キロで、河川の平均勾配は1パーミル程度である。両者間の最高水位の遅れをどの程度と見るかは難しいのだが、約1時間程度と見做せば、この間の平均的な流速は時速12キロ程度となる。
天神橋の上流に水位観測所はないが、美山駅付近に気象庁の雨量観測所がある。図1にここで得た記録を併せて示す。図示の通り、記録的な豪雨があった5時〜6時までの間と、天神橋の水位が上昇を始めた時刻との間には約1時間程度の遅れがある。従って、美山駅付近から天神橋までの距離11キロ、水路の平均勾配5パーミルを美山駅付近に降った豪雨は1時間よりやや短い時間を掛けて流れ下ったと推定される。美山のデータは降雨量であって、豪雨によって美山付近の足羽川水位が上昇するには若干の時間を要するからである。とすれば、この間の河川の平均流速は時速11キロをやや上回る程度の速さであったと推定される。この間には急峻な渓流があって河川の勾配も大きいのに、天神橋より下流の平野部とほぼ同じ流速値である。この値は大変遅いとの感じがしないでもない。いずれにしてもこの間にある橋梁を倒壊させた激流の速度は橋脚の表面付近の水面であっても毎時15キロを上回ることはないと想定される。
話を元に戻して、この程度の激流が橋脚の最上部まで届いたとしても、橋脚を倒壊させようとする力はせいぜい数トン程度で、しかも、激流により橋脚を倒壊させる力が作用する中心点は水面下なのである。この力は地震が橋梁を倒壊させる力に遥かに及ばない。では、なぜ多くの橋脚か倒壊したのであろうか。


.4 橋梁のダム化により橋脚を倒壊させる力
図3は足羽川に架橋された越美北線橋梁のうち、落橋を免れた第6橋梁の第4〜6橋脚の状態を示す。同橋梁は川幅の広い場所に橋架されているため、幸いにも激流に洗い流されなかったと推定される。写真に示す通り橋桁の上部にも残る流木から、多量の流木を含む激流が橋梁上まで押し寄せた状況が見て取れる。そして、水が引いた後にも、第4橋脚には大量の流木とその根が引っ掛かった状態のまま残された。


図3 倒壊を免れた第6橋梁に堆積した多量の流木
(右が福井方、川は左が上流)

多量の流木が残されていたのは第6橋梁だけである。しかし、倒壊を免れた他の橋桁の全てに多くの流木の破片が付着し、加えて、無数の打ち傷により厚い塗装が剥離している橋桁も多い。このことは、橋梁が激流に洗われた最中には、激流は橋桁を完全に乗り越えた状態にあったと見て良い。つまり、橋梁は底が抜けたダムのような状態にあったと判断される。倒壊した橋梁が倒壊寸前にどのような状態に晒された他のかは不明だが、倒壊を免れた残された一部の橋桁及び軌道には大量の木材などが付着していたから、倒壊した橋梁もほぼ同じ状況であったと考えて差し支えない。
このように橋梁がダム化した時、橋脚を倒壊させる力としてどの程度の大きさの力が作用するのであろうか。この問題を解明するには、橋梁がダム化したときの「有効落差」、すなわち、ダムによって造られた「川の階段高さ」がどの程度であったかと言う問題になる。しかし、この問題は当時の状況を写した写真でも見ない限り全くわからないし、越美北線の足羽川にかかる橋梁の高さは多様である。いま、平常時に水面から橋桁下部までの高さを5m、桁下からレール踏面までの高さを2m、つまり、平常時の水面からレール面までの平均的な高さを7m(倒壊を免れた第6橋梁とほぼ同じ値)と仮定しよう。足羽川に掛かるJRの全橋梁はご承知のように「上路ばん桁」、つまり、約1.7mの橋桁の上に枕木とレールが載った形の橋梁である。従って、激流が桁下まで達した時点で川の流れの表層部は橋桁によりせき止められて、レール及び枕木を含めた橋桁は高さ約2mの堰堤と化して、橋桁のほぼ中心部(平常時の水面から6mの高さの点)にレール長手方向1mについて2トンの力が作用することになる。越美北線に架かる橋桁の平均長さは約13mであるから、水位が橋桁の下面に達した時点で、一つの橋脚に対し橋桁の中心部で見て26トン程度の橋脚を倒壊させる力が作用することになる。これは流速を無視した値であり、実際は流速の影響で倒壊させる力が幅に増大する。流速を時速約10キロと仮定すると、その影響により橋桁1m当たりに作用する力は10トン程度に増加すると推定される。つまり、1橋桁あたり、実に130トンもの横力が中央部に作用することになる。この値は流速をやや控え目にとったときの値であって、実際の横力は恐らくはこれをかなり上回っていたであろう。


2. 5 橋桁はどの程度の水流に耐えられるのか
激流が橋桁を乗り越えた状態になったとき、橋脚はどの程度まで耐えられるのであろうか。足羽川に掛かる橋梁は、先に述べたように「KS14」相当の活荷重に耐える構造、具体的には運転整備重量約95トンの旧国鉄9600形蒸気機関車を少し重くして炭水車の軸配置を変えた車両(9600形炭水車の標準形は3軸、一部には2軸炭水車もあった)、すなわち、運整重量約100トン、軸配置 [1D 4軸炭水車] の仮想機関車が重連で通過しても十分な強度がある構造になっている。機関車が重連で通過した状態では1橋脚に最大約100トン程度の車両荷重が掛かかるが、それでも大丈夫であることを意味する。だから、足羽川の橋梁は現行の140トンにも満たない軽量のDCが通るにはもったいないほど頑丈に作られており、豪雪時に越美北線に出動するであろうDE15形ラッセルでも余裕がある構造なのである。
橋の垂直方向の荷重に対する負担力については、旧国鉄の建設規定で、このように具体的に規定している。しかし、橋梁を倒壊させる横方向の力については、さきに述べたように洪水時の流水圧、地震、風荷重(車両が受けるものも含む)、車両の超過遠心力及び左右動による横力、更には自動車の橋梁に衝突したときの荷重をも考慮すべきとしているだけで、具体的な規制値は盛り込まれていない。しかし、100トンの車両活荷重、さらに、橋桁及び軌道の重量約9トンを含めれば約110トンの垂直荷重の負担に耐えるローカル線には勿体ないような頑丈な橋脚であったとしても、その1.2倍の130トン又はそれ以上もの横荷重に耐え得るような強度を保持している訳がない。つまり、足羽川に掛かる「上路ばん桁構造」のような鉄道橋は、橋桁を乗り越える激流にさらされたならば、水流圧によって倒壊するのが当たり前であって、倒壊しなかった第2及び第6橋梁は全くラッキーであったと考えた方が良さそうである。
洪水時に足羽川の鉄道橋が如何に過酷な状況に晒されたかを物語る写真を図4に示す。図4には倒壊を免れた第4橋梁の第1橋脚に引っ掛かった杉の流木を示す。写真にみるように、流木には生育中に下枝を切り取った(「枝打ち」した)跡が残されている。おそらくは杉が育成して行く過程で、先ずは下枝が「枝打ち」され、さらに、その後、「間伐(カンバツ)」と呼ばれる立木の間引き作業により伐採され、林中に放置されていたものが激流に乗って流失したのであろう。この状況から類推すると、洪水の最中には山林に放置された多数の間伐材等が激流に乗って足羽川を流れ下り、鉄道橋に引っ掛かって流れを堰止め、橋梁がダムの堰堤と化した姿が浮かび上がって来る。このような状態の下では、激流が橋桁にあたって生ずる水流圧だけではなく、ダムと全く同じ荷重、つまり、先の推算で得た130トンを遥かに超えた想像を絶する水流圧に橋梁は晒されたことになる。


図4 第4橋梁に橋脚に引っ掛かった杉の流木、背景の山はいわゆる「黒山」が主体である。
(先方は福井方)

3.橋梁が倒壊した根本原因
3.1
 豪雨は橋梁倒壊の真因か
越美北線で起きた多数の落橋の直接の原因は今述べたように、激流が橋桁を乗り越えたため、又は、橋梁がダム化したためであろう。そして、その原因は沿線に1時間に88mmもの集中豪雨が降ったためであろう。しかし、今回の豪雨の日雨量283mmは過去の記録的な豪雨と言われた諫早豪雨(時間降雨量144mm、日雨量1109mm)には遠く及ばず、同じようにJR大糸線が長期不通になった平成7年の姫川地方の豪雨(最大時間降雨量47mm、日雨量389mm)に比べると、一時間あたりの降雨量は大きいものの、日雨量は低い。そして、今年の109日に東京地方を襲って市ヶ谷付近で土砂崩壊により中央線快速電車を立ち往生させ、浸水により地下鉄の一部を不通にさせた豪雨も似たような規模(最大時間降雨量69mm、日雨量223mm)であったが、この雨も「記録的な豪雨」とは報じられてはいない。だから、率直に言って今回の福井豪雨程度の降り方は、よくある部類の豪雨であって決して珍しいものではなく、「記録的な豪雨によって橋梁が破壊された」などの言に筆者は同意出来ない。
なぜ、このような大災害が起きたのであろうか。その原因の一つは豪雨によって山から多量の流木が流れ出て図3に示すように橋梁に引っ掛かって流れを堰止めたためであり、その原因をさらに逆上れば、真因は山林の荒廃にあると私は思っている。さきに述べたように、落橋しなかった橋梁をも含めてほとんどの橋桁には多数の流木が引っ掛かり、または、流木の打痕跡が残されている。つまり、橋梁が落ちる前後には集中豪雨によって足羽川の水位は橋桁に迫るほどにえるほどに高まったのであろうが、それだけではなく、多量の流木が押し寄せて、橋梁付近に滞留して水位を押し上げ、更には橋梁をダム化させたのであろう。豪雨から数日後に能登の海岸に大量の流木が漂着したとの報道は、豪雨の際に膨大な流木が流れ下ったことを物語っている。


3.2
山林の荒廃とその原因
では、なぜ山林からこのように大量の流木が流れ出たのであろうか。私は母が東京から遠くない山村の出であった関係で昔の山村の暮しをある程度は承知している。豪雨があったときの河川の状態もある程度は記憶があるが、今回のように多量の流木が洪水の時に川を流れ下るのを見たことはない。当時の貧しい山村の住民にとって、洪水は流木を集める良い機会であて、激流の中にときどき現れては流れ下る流木を鳶口(トビクチ)で引っかけて集める住民の姿を記憶している。ということは、恐らくは当時は今のように大量の流木が流れ下るような状況ではなかったのであろう。つまり、山林の変化によって、それまでになかったような大量の流木が発生したと考えた方が自然である。
 当時と今との山林の大きな変化といえば、当時はあまり多くはなかった「黒山(クロヤマ)」と呼ばれる杉や檜などが植林のされた針葉樹の人工林が激増したことである。それは越美北線沿線も例外ではなく、その状況は図4を見ても明らかである。これら黒山は、それまでの日本の山の主体を占めた「雑木山(ゾウキヤマ)」と呼ばれる薪炭用の山林に代えて、戦後の国家的事業によって植林されたものである。しかるに、これらの黒山の多くは、その後に日本の社会的・経済的構造が大きく変わったために、当初の存在目的を失って放置されてしまった。
 黒山の杉や檜を用材として使える樹木に育て上げるには少なくとも50
、つまり半世紀というような現代の常識から見れば信じられないような長い歳月を要する。そして、これらの樹木は植えて置きさえすれは勝手に育つという訳ではない。杉や檜は植林した直後には、年に2回程度の「合い刈り」とよぶ雑草を刈り取る作業を夏の炎天下に行わなければならない。木がある程度育成すると、「間伐」によって樹木の大幅な間引きを行い、さらに下枝を取り払うための「枝打ち」作業をしなければならない。これらの作業はその殆どを人手に頼らなければならないのである。このように大変に手間隙の掛かる労力を気の遠くなるような息の長い年月を掛け、ようやくあまり手入れを必要としない山に育つまでに実に30年近い年月を要する。間伐により間引きされた細い用材は、以前には建築足場用材として使われたが、いまは全く用途がない。だから間伐材は山中に放置する以外に方法がないのである。図4に示す木材は、このような経緯を経て足羽川に流れ出し第4橋梁に引っ掛かったのであろう。
 黒山では「間伐」や「枝打ち」などの手入れを怠れば、密植された樹木は十分な日の光を浴びることが出来ず、やせ細ってしまう。手入れをしていない黒山に分け入ると、そこには枯れ果てた下枝を付けたままの痩せ細った樹木が並び、真昼も暗黒に近い世界が支配して下草すらも生えない荒れた地面が広がっている。このようにやせ細った根無し草ならぬ「根無し木」が群生した山に豪雨が一雨あれば、どのよう事態が起きるかの説明は不要であろう。
大変心配なことは、今や日本の山林の多くがこのような状態にあり、もし、福井豪雨と同じ規模の雨が降れば、越美北線と同じような状態が再び起きる可能性が高いと推定されることである。日本の山林が実に憂慮すべき状態にあることは林政を司る当局も充分認識しており、遅ればせながら荒れるに任せた黒山の活性化をはかり、雑木山を広げるための施策を採りはじめてはいる。しかし、越美北線の惨状の原因が今述べたようなことに起因している可能性が高いことを、そして、これからも福井と同じような豪雨があれば、山岳線区の鉄道橋は越美北線と同じような危険に晒される可能性があることまでを認識しているのであろうか。これらの対策は到底鉄道事業者の手に負えるものでなく、鉄道や河川の行政を司る国土交通省だけで対応できる問題でもない。
鉄道橋はローカル線の鉄道橋と雖も、道路では考えられないような大きな荷重を負担するため、その構造は道路橋のそれとは大きく異なっており、道路橋に比べ橋桁のスパンは短く、橋脚は太く、それに加えて、最大水位を越えるとたちまち大きな流水抵抗を受ける「ばんげた」構造の橋梁が多い。つまり、鉄道橋は本質的に道路橋より洪水に弱い構造になっているのである。このため、山岳地帯に多く存在する鉄道橋は多量の流木を含んだ激流に晒されれば、たちまち越美北線と同じような災害を受ける可能性が高い。
今回の事態は輸送量が極めて少ないローカル線で起きた災害であったため、大きな社会問題とはなっていない。しかし、同じような構造の橋梁は何もローカル線だけに存在する訳ではない。第2、第3の越美北線の災害を防ぐために、関係機関は荒廃した山林を整備する対策に早急に取り組んでほしい。


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