新幹線名古屋駅における「こだま」号
オーバーランの意味するところ

 


 先日、新幹線名古屋駅で二本の上り「こだま」の車輪がレールに塗られた油によりスリップした事故は幸いにして大きな事故にはならなかった。しかし、鉄道が「レールと車輪との接触」という現象の上に成り立っていることを考えると、この問題は新幹線以外を含めて鉄道の根幹を揺るがしかねない大きな問題を含んでいる。そこで、これについて、若干の愚見を開陳したい。

1. 事故の概要

 報道によれば、85日の午後、新幹線名古屋駅で上りこだま414号と418号とが、いずれも停止一目標を大幅に行き過ぎ停止したとされる。原因はレールに過剰に塗られた油による車輪のスリップとされた。だが、報じられたように単に多少のオーバーランで列車が少し遅れた程度なら良くある話で、安全面から見た場合にはほとんど問題ない。むしろ、この事故の問題の本質は

1) 車輪が異常にスリップして大幅なオーバーランを起こした。

2) その結果、列車の進入が禁止された区間の直前で辛くも停止した。

と推定されることにある。
 飛行機が滑走路をオーバーランしてはならないのと同様に、線路には列車が絶対にオーバーランしてはならない場所がある。例えば赤信号などはその典型である。なぜなら、その先に列車が停止している可能性があり、万一、行き過ぎると大事故となり得るからである。このように信号の指示に違反して絶対に入ってはならない場所に列車が踏み込むことを鉄道では「信号冒進」といい、関係者が最も恐れる事態の一つである。
 今回の事故でのオーバーランの程度はこだま414号で80メートとされている。この値が停止位置目標からの距離であるならば、こだま414号は絶対にはいってはいけない区間直前で辛くも停止し、「信号冒進」が起きる寸前だったことになる。一方、こだま418号の場合には 50メートルとされるので、「よくある話」の範囲である。従って,こだま414号は飛行機が滑走路を飛び出す寸前に停止したと同様の事件であり、関係者は大きな衝撃を受けて事態を深刻に受け止めているに違いない。
新幹線では列車の速度はATCにより自動的に規制されるので、このような事態は起こりにくい。しかし、それでも新幹線では過去に何回かの「信号冒進」が発生している。その代表的な例に、昭和48年に大阪の車両基地鳥飼を出た回送列車がオーバーランして本線に突っ込み、下り本線を走ってきたこだま号と「あわや」のニアミス事件があった。詳細は「鉄道を斬る」(No.5,平成10年6月15日)をご参照頂きたい。さらに逆上っての大きな事故に、昭和4211月の朝一番の下りこだまが岐阜羽島に停車できず素通りして、約1キロもも行き過ぎた事故がある。

2. 新幹線列車の駅停車方法

 今回の事故の本質を理解するには、先ず、新幹線がどのような手順で駅に停車するかを理解しておく必要がある。高速で走る東海道新幹線は駅に停車する操作が在来線とは全く異なっているからである。その方法を以下に示す。

1) 停車駅に近づくと、それまで最高270キロで走っていた列車は、ATCの指令速度が次第に低下してゆくのに応じ、自動的にブレーキがかかって速度を下げ、所定速度に下がると自動的にブレーキを緩めてゆく。この手順を何回か繰り返す。

2) いよいよ駅の間近になると70キロの速度指令が出る。この指令が出ると列車に再度ATCブレーキがかかる。そして、駅により若干の相違はあるがホームの少し手前でおおむね指示速度まで減速してATCブレーキが緩み、在来線とほぼ同じ速度で駅に進入する。

3) さらにホームの端付近まで進むと一層低い30キロの走行指示が出て、再びATCブレーキがかかる。このブレーキは速度が30キロ以下に下がっても運転士が確認ボタンを押さなければ緩まない。だから、運転士がぼんやりしていると列車はホームの途中で止まってしまう。所定の取り扱いをすればブレーキはゆるみ、運転士が停止位置目標に合わせ止まりやすいような低い速度でホームをゆるやかに進む。

4) 停止位置目標に近づくと、運転士は手動で目標に合わせて停止させる。

5) 運転士がブレーキをかけるタイミングを失し、オーバーランして「信号冒進」しそうになると、列車は進入が禁止された区域の約50メートル手前で緊急停止信号を受け非常停止する。

以上のことからも判るように、新幹線では駅停車のとき運転士が判断して行う主な作業は「停止位置合わせ」程度である。そして、この操作を怠った場合でも、列車が暴走して信号冒進する事態は起こり得ない仕組みになっている。

3. 事故の直接原因

 新幹線では今回のような事態は起きないはずなのに、当日の名古屋駅で一体なにが起きたのだろうか。考えられる原因を述べて見よう。

1) ATC又はブレーキ装置のトラブル
 このような事故が起こるとメディアはATCやブレーキ装置のトラブルに焦点を当てる。しかし、これらは安全を確保する装置の要であり、万が一にも故障が起きた場合には、装置は安全側に動作する仕組みとなっている、今回も、これらのトラブルで事件が起きた可能性はなかったと見て差し支えない。

2)運転士の操作ミス
 新幹線でもホームでの停止位置合せは運転士が行う。だから、ATCにより一旦30キロに速度が落ちた後に運転士がぼんやりしていれば、程度の差こそあれ、オーバーランが起きる。しかし、列車がホームに入ってきたとき運転士は所定の確認操作を行ったことは間違いない。これを怠れば、列車はホーム中程で止まってしまうからである。だから、ホームに入ってから運転士は正常な操作を行っていたと推定され、運転士に重大なミスがあった可能性は少ない。

3)車輪の大幅なスリップ
 運転士は駅に停止するとき、ブレーキの効き具合に絶えず気を配り、効きが悪いときはに直ぐに「追加ブレーキの手配」を行う習慣が身についている。だから、今回のようにオーバーランしそうになれば、運転士は事態を認識した時点で最大ブレーキの手配をしたと考えるのが常識である。
 運転士が事態を認識するのが最も遅れた場合、つまり、停止位置目標を行き過ぎた時点で「ヤバイ」と思って最大ブレーキをとったと仮定し(実際にはこのような鈍感な運転士はいないと思うが)、その結果、80メートルも行き過ぎたのであれば、当時のこだま414号のブレーキは通常の半分またはそれ以下の程度しか効かなかったことになる。しかし、今回の事件で運転士は、まさかこのような非常識な操作をしていないと思う。
 新幹線ではホームに止まるとき、普通は遅くとも停止位置目標の約50メートル手前付近までにはブレーキを作動させて停止手配をとる。運転士が普通の操作を行い、その結果、ブレーキの効きが極端に悪いことを認識して早めに最大ブレーキの手配を行い、それでも80メートルも目標をオーバーしたのなら(その可能性が高いのだが)、ブレーキの効きはもっと悪く、通常の3割程度しか効かなかったのではと推定される。
 先にのべたように、ブレーキ装置自体のトラブルでブレーキの効きが大きく低下することは考えられない。事件は報道されているようにレールに塗られた油によって、車輪が大幅にスリップしたことが一因であると判断される。しかし、東海道新幹線の列車は16400メートルにも及ぶ長い編成である。筆者の経験からみて、いくら多量の油がレールに塗られていても、このような長い編成全ての車輪が一斉にスリップしてブレーキ力が大幅にダウンしたとは考えにくい。ということは、特定の車輪はレールから実質的には宙に浮いた状態、つまり、ブレーキ力がほとんどゼロに低下していた可能性がある。

4)速度検出用車輪の大幅スリップ
 ATCの本質は指示速度を上回る速さで走っている列車に対しブレーキかけて、指示速度まで自動減速させることにある。だから、列車の速度についての情報(速度情報)を絶えずATCに入力している。速度情報は車軸の回転数から得ており、回転数を計る車軸を「速度検知軸」という。検知軸がスリップして列車の速度より低く回転すると、速度情報もこれに応じて低い値となるため、ATCは速度を実際より低く「誤認」してしまう。今回は車輪のスリップだけでなく、このようなシステム的なトラブルも同時に起きて、これがオーバーランを一層大きくした可能性がある。そのメカニズムを論じて見よう。

() ATCの速度誤認 このような「速度誤認」を防ぐため、在来線も含めATC の速度検知軸は、他の車軸の6割程度のブレーキしかかからないようにしてある。それでも、雨の降り始めなどレールが滑りやすいときはスリッップして、速度誤認が起きる。ATCが速度を低めに誤認すれば、本来は作動させなければならないブレーキが作用しなかったり、作用しているブレーキも緩めてしまうという大変にやっかいな事態が起きる。しかし、ATCが速度を誤認してブレーキをゆるめると、スリップしていた車輪は再び回り出して速度誤認が解消され、再びブレーキが作用するようになる。だから、速度誤認が原因で大きな事故が起きた例はあまり聞かない。その中で例外的に発生したと考えられているのが、最初に述べた「鳥飼事故」や「岐阜羽島のオーバーラン」である。

(b) 速度誤認は起きたか 今回の事件では、以下のようなメカニズムで速度誤認が起きた可能性がある。列車が70キロ信号を受けて駅に進入中に30キロの速度指令が出てATCブレーキが動作すると、運転士は速度が30キロに低下した時点で確認ボタンを押しATCブレーキをゆるめる。しかし、実際には、運転士は確認ボタンを30キロに低下するより相当前から早めに押し続けている場合が多い。そのような操作をすれば、速度が30キロに低下した瞬間にブレーキがゆるむメリットがあるからである。

 今回、30キロの速度指示を受けて列車が減速中に、検知軸がスリップして ATCは速度が30キロ以下になったと誤認し、しかも、運転士が確認ボタンを早め押していれば、ATCブレーキは緩み速度が下がらなくなった現象が起きた可能性はある。運転士が確認ボタンを押すタイミングが早ければ早いほど、高い速度域でブレーキがゆるみ、そのような事態がより顕著に発生する。このような現象が起きたのならば、列車は所定の30キロより相当高い速度で停止位置目標に接近した可能性もあり得る。
 しかし、「速度誤認」によりブレーキが緩むと「速度検知軸」も列車と同じ速度で再び回り始めるので、速度誤認もが解消され、ATCブレーキが再び作用することになるはずである。だが、過去の鳥飼や岐阜羽島の事故ではこのような事態が発生した可能性が指摘されている。あり得ないはずの事態はどのような場合に起きるのであろうか ? また、今回、名古屋駅でこのような事態が実際に起きたのだろうか ?

4. 車輪とレールの接触状態はどうだったか

 岐阜羽島で大幅なオーバーランが起きたとき、停止位置付近でも列車の速度は 70キロを超えていたと推定されている。当日、こだまは始発駅名古屋発車直後から激しいスリップ(空転)に見舞われ、列車は加速するのもままならない状態にあった。だから、200キロ以上の高い速度域からブレーキをかけたときに検知軸で起きたスリップがブレーキをゆるめた後も持続する異常な事態が起き、これが事故につながったのであろう。もちろん、このような状態が起きれば速度検知軸以外の車輪もスリップしてブレーキ力も大幅に低下した可能性が高く、この現象も併せて起きたためにオーバーランが一層大きくなったと推定される。
 しかし、このような事態はレールがよほど滑りやすい状態、具体的には「レール・車輪間の摩擦力がほとんど期待出来ない状態」にならなければ発生しない。つまり、自動車がアイスバーンの上で全くブレーキが効かない状態と同じような状態にならなければ起きない。
 摩擦力の強さを示す値を鉄道では「粘着係数」と呼ぶ。粘着係数は列車を安全に走らせる上で支配的な重みを持っている。しかし、これが上記のような異常に低い値になったために事故が起きることは極めてまれである。新幹線でも、これが原因と推定された事故は、筆者が知る限り今述べた2件にすぎない。在来線でも、非常ブレーキをかけたのに急勾配の途中にある駅を完全に素通りしてしまった例が、筆者の知る限りやはり山間の支線で2例ほど発生している。しかし、粘着係数がこのような異常となるのは、それ相当の理由がなければならない。だから、このような事態はめったやたらにに起きるものではない。そのような状態とは具体的には、

1) レール頂面上への過剰な塗油
2)
車輪踏面(レールと接する面)の異常な汚れ
3)
車輪踏面の鏡面化(極端にツルツルとなる状態)
4)
雨か降り始めた直後の汚れたレール
5)
豪雨
6)
レール上への大量の針葉樹の落葉
7)
レール面の異常な発錆

などである。そして、多くの場合はこれらが3つ以上の競合した場合に発生し、 1)又は6)を除いては単独の原因だけで起きる可能性はないと考えてよい。

5. 事件の背景

 ところで、具体的にどの程度レールに油を塗ったとき、粘着係数がどのようなレベルまで低下するのかということは残念ながらあまりわかっていない。しかし、筆者が過去に山の手線で行った実験では、レールへの過剰な塗油は短い区間ではあるが粘着係数を限りなく0に近づけることを確認している。(注記.1 2)。それ以外の因子については、それらが「どの程度の度合で互いに競合したら危ないのか」などは、五里霧中といってよい程わかっていない。今回の事件は、使用が好ましくないとされてきたレール塗油器(レールに自動的に油を塗る機械)を設置し、しかも、その調整も適正でなかったことが原因とされる。だから、本件の直接の原因は、本来は設置が好ましくない装置を設置し、しかも、その管理に適切さを欠いた保線部門の不手際である。その不手着を責めるのはいとも簡単である。
 ところで、鉄道の保線現場はスピードアップや列車運転回数の増加により線路の損傷が進み、対応に苦慮しているところが多い。加えて、近年は環境対策にも追われている。そして、現場は典型的な3K職場である。
 現場が当面している問題の例を挙げて見よう。近隣住民から「耐えがたい騒音公害」と厳しく指弾されている「レール軋り音」(急曲線を列車が通過する際にキーキーと鳴く甲高い騒音)の対策は大変に難しい。これを根絶するため、大幅なスリップが起きる可能性があるので本来は禁じ手とされているレール頂面への塗油ですらも、真に止むを得ない理由で実施している箇所も少なくない。列車運転回数の多い幹線の曲線部分は塗油をしても、直ぐに磨耗するのでわずか3ケ月毎にレール交換を必要とする。塗油を欠かしたり、その調整が不適であれば、レールや車輪はあっという間に磨耗して列車の運転にたちまち支障が出る。そして、レール交換作業は、終電から初電までの短いわずかな深夜帯に、作業騒音に対する近隣住民からの苦情に気づかいながら実施しなければならないのである。
 今回の事故の原因となったレール塗油の設置も、恐らくはこのような背景が一部にはあったのではないか。だから、このような事故の再発を防ぐためには、単で表に現れた現象だけを捉えて、その不手際を咎めるだけでは根本的な解決にはならないと思う。鉄道の多くの現場がこのような対策が極めて難しい共通の悩みをかかえているのなら、現場の対症療法に任せるだけではなく、組織的に対策を建てるのが本来の姿である。このような問題は保線部門だけではなく、車両や運転などの部門も交えて対策を講じなければ、本質的な解決を期待出来ないからである。しかし、このような問題について、鉄道の社内て横断的なプロジェクトを作って対策に取り組んでいるという話は、ごく一部の鉄道を除ていは聞いたことがない。
 今回の事件では、幸いにして重大事故は免れた。しかし、本件は「レールと車輪の接触」という鉄道の根幹にかかわる固有の現象についての基本的なトラブルであって、単に東海道新幹線に限った問題ではない。しかし、このような基本的な問題の中の「更に基本的問題」である粘着係数についてすらも、体系的な研究をしているところは研究所を含めてJRには存在しない。もちろん、鉄道関係のメーカーでこの問題を研究しているところは全くない。このような事象は研究しても直接の収益には結びつかないからである。
 このような技術は鉄道では「基盤技術」又は「基礎技術」と呼ばれ、その重要性は従来からいろいろと指摘されてきた。先のドイツ鉄道新幹線ICE事故も、この基盤技術を等閑視したことに遠因があると筆者は思っている。ドイツ以外の海外鉄道技術者の中にも、同じ意見をもつものも多い。
 民営化以降、等閑視され、あまり体系的な研究が行われなくなっている大変に地味ではあるが、なおざりに出来ないこのような鉄道の基本的問題点について、今回の事件をきっかけに見直してほしいと思う。なお、このような鉄道の基礎技術にかかわる問題点については、筆者は先に幾つかの愚見を述べさせて頂いている(注記.3)。詳しくはこれらをご覧頂きたい。

注記.(著者はいずれも筆者)
1)
「本線上におけるレール・車輪間の粘着の実態」、日本機械学会論文集C,Vol.54, N0.504,(昭和63-8).
2)
「車輪はいつ、どのような所で滑走するか」, JREA,Vol.45, No.6,(昭和62- 2).
3)
「ドイツ鉄道ICE脱線転覆事故の問題点をさぐる」,鉄道ジャーナル,No.382,(1998-8).

 

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