各写真はクリックすると大きくなります。すべて手持ちで取っているので、特に館内の写真の画質は良くありません。退色もひどく、簡単に補正しましたが見やすくする程度のものですので、色については信用しないでください。
コンパクトカメラで撮ったパンテオン、新宿プラザは手振れがひど過ぎてだめでした。
丸の内ピカデリー館内、日劇を追加しました。
※ご質問、ご要望への回答はこちらをどうぞ
昭和30年に開館し昭和56年に閉館しました。館内側面上方に巨大なスピーカがあるのが見えますが多分Altec-A7(X)です。音響も(そして音量も)抜群の映画館でした。「地獄の黙示録」上映時には録音担当ディレクターが来日鑑賞し、「ベストサウンド」と絶賛して帰って行ったと朝日新聞が伝えています。
日比谷映画街の入口にあり、東宝の劇場の看板的存在でした。阪急電鉄の創業者小林一三が東京進出を目論んで東京宝塚劇場を造り、余ったお金でこの日比谷映画劇場と隣に演劇劇場有楽座を建てたのが現在の東宝の始まりです。昭和9年開館、昭和59年閉館になりました。
当初は演劇の劇場でしたが、昭和26年から映画専門劇場となりました。比較的スクリーンの小さい日比谷映画に対し、70mmの大画面映画等に対応し、座席数も東宝の常設映画館の中では最大だったと思います。日比谷映画と同時に閉館しました。
東宝本社ビルの1階にあった東宝邦画封切のメイン劇場。このビルには地下にみゆき座もありました。元祖日比谷映画が閉館になった後、しばらくの間、日比谷映画と名を変えて洋画ロードショー館になりました。
日劇は、いわゆる映画館ではなかったので掲載するかどうか迷ったのですが閉館時短期間ですが映画館としての役割をしていたことで載せることにしました。
昭和9年に開場したときは映画館でした。独立した会社が運営し東洋最大の集容力を持つ4千人劇場でした。日比谷映画劇場が50銭均一料金だったのに対し最高5円という高額な料金設定だったそうです。結局経営が成り立たなくなり、日活直営、東宝・松竹共同経営を経て一年少々で東宝傘下になります。このころの動きは有閑階級を対象とした旧来興行勢力松竹に対する大衆のための興行を目指す新興勢力東宝の攻撃という図式で大変興味深いものがあります(田中純一郎「日本映画発達史」II)。
戦前は映画館であったようですが(最後までそうだったかは確認できていません)、戦後はレビューや歌謡ショウに映画を併映する形の興行だったようです。具体的にいつからいつまでどういう興行だったのか今のところ詳しい資料が見つかっていません。昭和52年にレビューは終了します。
昭和53年の「スターウォーズ」(第一作、エピソード4)の日本公開時にはメイン劇場となります。劇場規模に対し、画面の大きさも、音響も共に物足りなく、テアトル東京での上映と比較し著しく見劣りした記憶があります。これで上映設備を入れたからでしょうか。東宝の資料ではその後昭和56年2月の閉館までに9本の映画が上映されたようです。私は「ジミ・ヘンドリックス フィルムコンサート」「サウンドオブミュージック(70mm版)」を見ました。座席の写真はそのどちらかの時の物です。
地下には映画館”丸の内東宝”と”日劇文化”がありました。
新宿文化と共にATG専門館でした。
前身の邦楽座は大正14年の開館。昭和2年には、パラマウント支社の直営館となり、屋根にあの山のマークがのったこともあったそうです。写真のビルは昭和32年に建てかえられたもので新宿ピカデリーとチェーンを組む松竹直営の洋画ロードショー館でした。昭和59年に閉館。マリオンに移りました。
この写真のみ大阪です。東のテアトル東京に対し西のシネラマ劇場でした。昭和29年3台式のシネラマ劇場として開館。昭和35年9月5日の「地中海の休日」からスーパーシネラマ方式となります。平成3年閉館。スーパーシネラマ方式劇場としてはテアトル東京より早く生まれ長寿だったことになります。
初稿 | 2013/3/8 |
追加 | 2014/3/26 |
追加 | 2014/3/27 |
追加 | 2014/5/1 |
説明追加 | 2014/7/1 |