タイトル | 交響曲第9番ニ短調[終楽章付き] |
作曲家 | アントン・ブルックナー |
演奏 | クルト・アイヒホルン指揮 |
リンツ・ブルックナー管弦楽団 | |
CD | CAMERATA CMCD-15002〜03 |
ジョン.A.フィリップス等により復元された第4楽章の付いた演奏であるが、私は第3楽章までで止める事も多い。第3楽章までと第4楽章は1年近くの間を空けて録音されているので、このような聴き方をしても演奏の意図に反しないと勝手に解釈している。終楽章は復元マーラー第10番(クック編)のような音楽的な違和感はないが、内容がこれまでのブルックナーのイメージを壊すような恐ろしさのある音楽で、私の中では消化しきれないでいる。従って、以降の記述は第3楽章までを対象としている。
ブルックナーの交響曲は第8番までは私にとって理想的というか、不満を感じずに聴くことのできる演奏がある。しかしながら9番はこの演奏を聴くまでそうではなかった。一番回数を聴いているシューリヒト、ウイーンフィルの1961年録音は文句無いといえば無いのだが、あっさりし過ぎていてシューリヒトだからこその特殊な演奏のようにも思えてしまう。もっとじっくり構えた演奏が聴きたくなる。
まあまあ悪くないというのは幾つかある。マタチッチ/ウィーン交響楽団(チェコフィル盤よりこちらが良い)、ヴァント/ベルリンフィル、ヨッフム/ベルリンフィル(ドレスデンシュターツカッペレ盤、ミュンヘンフィルの1983年ライブ盤はあまり好きではない)、レーグナー/ベルリン放送交響楽団等。朝比奈隆だと東京交響楽団(1991)、東京都交響楽団(1993)が良いが何か物足りない。
朝比奈隆の1978年9月、NHK交響楽団の定期における演奏は私のコンサート体験の中でも最高のものの一つで、至高の音楽を聴いていると感激しながら聴いた記憶がある。しかし、まだブルックナーの実演をあまり多く聴いていなかった当時、実演ゆえの感動だったかも分からない。FONTECから発売になっている同じN響との2000年の演奏は朝比奈隆としてもベストではないように感じる。
第9番というのは未完ということを除いてもブルックナーの他の交響曲とは少し違うのではないかとある時から感じ出した。朝比奈やヴァントに代表されるような曲の構造を効果的に構成してみせる演奏では零れ落ちてしまうところがあるように思うのだ。弦楽器でしみじみと奏でられる節、突然の静寂での管楽器の独奏、というのは他の交響曲でもあるが、9番ではそれらの表情が他とは比べられないほど重要で、それが音楽の流れに埋没しまっている演奏が多いのではないだろうか。
そう考えると気になるのは朝比奈隆の最後の録音(EXTON、2001年大フィル)だ。朝比奈は2000年から2001年にかけて行った最後の録音でそれぞれの曲の演奏の頂点に達したと思っている。4番、5番、7番、8番はそう思う。しかし9番だけは体調が既に悪すぎた。最初聴いたときは、やっと棒を振っている指揮者、それに必死についていこうとしているオケが目に見えるようで、あまりにもつらく、なんでこのような録音を発売するのかとEXTONに非難めいた気持ちさえ湧いた。それで一年以上、2度目を聴かずにおいた。しかし9番について上のような考えを持つと共に、特に第一楽章の全体の構成よりも一歩一歩回りを見回すことを重視して進んでいるような印象は必ずしも体調が悪かったためばかりではなく、何か新しいことをやろうとしていたのではないかという気がしている。もう確認することはできない。
アイヒホルンの録音を初めて聴いたのは、あるCD屋さんでカメラータ・フェアとかで結構値引きをしているのに遭遇し、この人の演奏きいたことないな位の理由で、棚にあった5番、7番を買った時である。7番はあまり気に入らなかったが、5番は素晴らしいと思った。特に終楽章で第3主題までの提示の後にコラール主題が提示されるところなどでちょっとした表情に「やっぱり本場は違う」と感じさせるところがあった。それで第9番を取り寄せたが、聴いてこれだと思った。
曲の解釈が素晴らしくなければ話にならないのだが、それに加えて一節一節の表情が生きていてそれによる空気感が他の名演に物足りないところを埋めているように思う。
CAMERATAは現在単品では売っていないようだ。ブルックナー:交響曲選集(CMCD10008-16+特典盤)という10枚組みのボックスしかない。 第2番(1872年版、1873年版の2種類、他に72年版が気に入らず「俺はアントンの失敗を紹介するために棒を振っているのではない」というアイヒホルンにより変更された終楽章)、5番、6番、7番、8番、9番を含む。2番も8番も名演だ。
初稿 | 2013/5/23 |