タイトル | 交響曲「大地の歌」 |
作曲家 | グスタフ・マーラー |
演奏 | ブルーノ・ワルター指揮 |
ニューヨーク・フィルハーモニック | |
ミルドレッド・ミラー(メゾソプラノ) | |
エルンスト・ヘフリガー(テノール) | |
CD | SONY SRCR2336 |
ワルターの「大地の歌」というと1952年のウィーンフィル盤(コントラルト:キャスリーン・フェリア、テノール:ユリウス・パツァーク)が有名で、そちらを推薦するのが当たり前のようになっているようだ。でも私はこの1960年のニューヨーク・フィル版のほうが絶対好きだ。私の場合、モノラルかステレオかというのも結構重要なのだが、それを別にしてもこちらが良い。理由は第一にミルドレッド・ミラーが素晴らしい。次に全体の半分近くを占める終楽章「告別」が素晴らしいからだ。反対に残念なのはヘフリガーの歌唱である。この録音の前はクレンペラー/ニュー・フィルハーモニア盤を聴いていた。それにおけるフリッツ・ヴンダーリッヒの全人格を注ぎ込んだかのような絶唱に親しんでいただけに、最初に聴いたときは、第一楽章でヘフリガーの能天気な歌が始まったとたん椅子からずり落ちてしまった。今ではこれはこれで一つの味と納得しているものの、演奏全体の完成度を落としてしまっていることは否めない。しかしその欠点を補っても余りある価値がこの録音にはあると思っている。
ミルドレッド・ミラーの歌は本当に素晴らしい。真情にあふれ、透明で、この曲にとっての理想を達成している。フェリアは声があまり好きでない点は聴きこむと慣れると思うが、表現が構えていてやや作り物くさい。クレンペラー盤のクリスタ・ルードヴィヒは以前は文句無く素晴らしいと思っていたが、改めて聴いてみるとミラーと比べて、無用にドラマチックな気がする。
マーラーの歌曲では、バルビローリやバーンスタインの録音におけるジャネット・ベーカーが大好きで、最高のマーラーうたいと思っていた。そのベーカーの「大地の歌」(ケンペ/BBC交響楽団,1975)を見つけて、どきどきしながら聴き始めたが、意外にドラマチックなうたいぶりにがっかりしてしまった。フェリアやルードヴィヒやベーカーが悪いというのではなく、ミラーの自然さが群を抜いているのである。
そのようなミラーの歌の美点が遺憾なく発揮されているのは、第4楽章と終楽章である。終楽章は夜がこんなにも美しく描かれた音楽と演奏がほかにあるだろうかと思わせる。このワルターの演奏における耽美性ゆえに本盤を忌避してウィーンフィル版を採るむきもあるのだろうと思う。また中間部の憂いの深さ、別離の感の感傷の重さも避けられる理由かも分からない。
ウィーンフィル盤とこの録音のどちらを好むかというのは、まず全体のバランスを採るか、バランスが悪くても終楽章が素晴らしければ良いと思うかである。次に奇数楽章が好きか、偶数楽章が好きか。しかし一番肝心なのは音楽としての完成度と、部分的な情感の表出とどちらを大事にするかだと私は思う。マーラーの場合は私は後者になってしまうことが多い。
ウィーンフィル盤はいろんな形で販売されていていつでも手に入る。それに対しいつの間にか本録音は風前の灯のような状態に置かれているようだ。掲題で上げた品番は国内盤では最新のものと思うが、それでも発売は1999年である。輸入版もめったにないように見える。ワルター晩年のコロンビア交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニックとの一連のステレオ録音は常に手に入るようにしておいて欲しいものだと思う。
初稿 | 2013/5/11 |