タイトル | 交響曲第6番ロ短調「悲愴」 |
作曲家 | ピョートル・チャイコフスキー |
ピエール・モントゥー 指揮 | |
ボストン交響楽団 | |
CD | SONY MUSIK ENTERTAINMENT 19075816342 |
"Pierre Monteux:Complete RCA Stereo Recodings"という8枚組BOXから。
小学生の頃、家に”悲愴”のレコードがあった。何て悲しい曲なのだろうと感じた。ずっと年齢が進んでからこの曲に含まれている感情をとらえようとすると、メランコリックとかロマンチックとか破滅的とかいろんな要素が感じられる。でもやはりこの曲の特徴は子供にさえも素直に伝わってくる生の「悲しさ」なのだろう。
演奏に当たってはこの「悲しさ」にどのように向き合うかが一つの分かれ道になる気がする。メランコリックとかロマンチックとかは演奏スタイルとしてあり得るだろうが、「悲しさ」というのは端々に感じるもので演奏の方法ではないからである。
いや違った。大評判になったテオドール・クルレンツィス/ムジカ・エテルナの演奏。あれは「悲しい」演奏スタイルを試みている。しかし、「悲しい」という感情は共感するか、無視するかしかないものである。悲しさを材料のように扱う演奏には、私は違和感しか感じなかった。悲しさを誘発するように演出し「さあ悲しいでしょう」などというのはメロドラマづくりのレベルである。
子供時代は意味が分からなくても結構いろんなことを覚えている。指揮者とか演奏団体にまるで興味が無かったし、その重要さも分からなかった頃であっても、悲愴の演奏がモントゥー指揮のボストン響であることは憶えていた。しかし、感じた悲しさは演奏によるものなどは露とも思っていなかった。
それで、自分でレコードを買うようになってから、ムラビンスキー/レニングラードフィルを買って聴いて、迫力や流れの快さに浸ったものの、子供の時のような悲しさを感じなかったのは、自分が変わったからとしか思わなかった。それでもそのうち、ちょっと健全過ぎるのではないかと疑いだして、アバドやインバル等を経て、朝比奈隆の演奏に落ち着いた。
朝比奈隆の演奏はいくつもあるが(少なくとも私が持っているものについては)すべて良いと言って良い。感情をむき出しにした82年の大阪フィルとの録音も、感情を抑制した静かな94年の新日フィルとの録音も、すべて曲の「悲しさ」を共有した演奏である。すべてライブなこともあり演奏・録音に傷があるものもあるが、朝比奈のチャイコフスキーの5番・6番についてはブルックナーと同じくらい世界に誇れる演奏だと思っている。
いろいろ「悲愴」の演奏を聴いている間、時々には子供の時に訊いたモントゥーの名前を思い出し探したが、たまたまその時販売が無かったのかか見つからない。今回とうとう掲題のBOXを手に入れた。一聴すると私には驚くべき演奏であった。
「悲しさ」に共感するわけでもなく、無視するわけでもない。曲の中にあるすべてをあるがままに取り込んで表現しているとでもいうべき演奏である。その結果曲の悲しさが演奏者の共感を経ることなくダイレクトに伝わってくる。これは感性のキャパシティとでもいうべきものがべらぼうに大きいからこそ可能なのだと思う。悲しさを自分のフィルタを通して受け止めるのではなく、そのまま受け止め放出できるだけの余裕があるのである。
1955年という古い録音だが、録音も優秀。私にとって、ずば抜けた決定版である。4番、5番も素晴らしい。5番は北ドイツ放送交響楽団との1964年の録音もあり、同じような傾向の演奏だが、与える感動は全然違う。亡くなった年の演奏であり、体力・精神力に衰えが生じていたのかも分からない。
初稿 | 2019/6/15 |