タイトル | 交響曲第2番ハ短調「復活」 |
作曲家 | グスタフ・マーラー |
オットー・クレンペラー 指揮 | |
フィルハーモニア管弦楽団 | |
ソプラノ: エリザベート・シュワルツコップ | |
メゾソプラノ: ヒルデ レッスル=マイダン | |
CD | EMI(France) 50999 083365 2 1 |
CDとして紹介しているのは6枚組のクレンペラーのEMIマーラー録音集Boxのものである。
私の場合、1枚か多くても3枚程度の私にとっての決定版があり、それだけあれば十分、他の録音はどんなに評判でも聴く気もしないという曲が結構ある。マーラーはそういう曲が多いのだが、この2番だけは今のところ決定版が見つからない。多分これからもそうだろう。この記事も最初、山田一雄指揮京都市交響楽団のものを取り上げようとしていて、参考に他の録音も聴きなおしているうちにどうもこれが良いと考えなおした結果である。
どうせ死ぬのに、苦しんだり努力することに何の意味があるんだというのは、たいていの人が若い頃に捕らわれる思いの一つに違いない。それを、復活するから無意味ではないなどと考える日本人はいないだろう。宗教的なバックグラウンドがあるとそういう事になるのだと考える人もいるかもわからない。だがこのマーラーの2番は、宗教的なものよりは、若さゆえの非合理なものへの陶酔や感傷の方を強く感じてしまう。第一番と共に若者の音楽という気がする。
従って、終楽章を仰々しく厳かに演奏したようなものは、違和感を感じてしまう。若い情熱に一体となった演奏か、反対に「復活」に意味づけをせず距離を置いて音楽自体に語らせた演奏か、どちらかでなければ、私の場合白々しさや空虚さを感じる。
バルビローリ/ベルリンフィルの演奏(1965)が良い音で残されていないのは痛恨の極みだ。マーラーの思いと一体になった演奏で、唯一曲の真価を十全に示す演奏と思う。またこの録音ではジャネット・ベーカーの「原光」が素晴らしい。ベーカーはバーンスタインのロンドン響盤でも歌っているが、比較にならないくらい良い。おそらく総ての演奏者、聴衆を巻き込んだ一期一会の演奏だったのではないか。残念な事に、聴くたびにもっと良い音で聴きたいという欲求不満がつのるので、あまり聴かない。
バルビローリはシュツットガルト響とのステレオ録音(1970)もあるが、あまり良くない。オケがまずい。私はオケのミスはあまり気にならない方なのだが、全体的におっかなびっくり演奏しているようなたどたどしさがあり入り込めない。オケが下手なのか、それともバルビローリが亡くなる数か月前の演奏なので、事によるともう体調が普通でなかったのか、どちらか分からない。
「一体型」で悪くない演奏は山田一雄指揮、京都市交響楽団(1981)の録音。京都市響の演奏、独唱、合唱も立派なもの。それでこれを紹介しようと思ったのだが、聴きなおしてみると、極端な加速や音量の変化が気になる。
ワルター/ニューヨークフィル(1958)も作曲者と演奏の距離を感じさせない。LP時代はもっぱらこればかり聞いていた。他に耳にした演奏に胡散臭さを感じ、これだけが素直に聞けたからだ。何と言っても自然な演奏だが、一方、穏やかな演奏で、感度が鈍くなってしまった現在ではやや退屈さを感じる場合もある。
バーンスタインは1963、1973・74、1987年の少なくとも3つの録音がある(1973・74はロンドン交響楽団、他はニューヨークフィル)。思い入れ型の代表のように言われるバーンスタインであるが、勝手な想像をすると、マーラーの若者の音楽としての部分にはあまり共感がわかなかったのではないか。前の方の2つの録音は悪くは無いのだけど、バーンスタインならではの魅力が感じられない。最後の録音は、構えの立派さやスケールの大きさでは他の人の録音も含めて随一かもわからないけども、どうもこういう曲ではないという気がしてしまう。
掲題のクレンペラー盤は、過度の思い入れも、仰々しい演出もない自然な演奏で、それでいて美しいところはこよなく美しく、またエネルギーが必要なところでは十分湧き上がる。クレンペラーのマーラーではこれが一番良いのではないかとさえ思う。
なお曲そのものをきちんと伝えているということで馬鹿にできないのは、ギルバート・キャプラン/ウィーン・フィル(2002)。めでたく国際マーラー協会の新校訂版に採用されたキャプラン/シュタルク=フォイト版の初録音である。色物のような気持ち半分で買ったのだが、なかなかどうして立派な演奏。中の3つの楽章はまじめすぎるのか色気不足であるが、両端の楽章は立派。過不足なく曲を伝えているだけでなく、遅いところをきちっと遅くするというようなところで独特の味わいもある。
初稿 | 2016/5/6 |