ジュリーニのマーラー交響曲第9番

タイトル交響曲第9番
作曲家グスタフ・マーラー
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
シカゴ交響楽団
CDDeutsche Grammophon The Originarls 463 609-2

あまりにも有名な録音であるが、私が聞いたのは割と最近である。

マーラーの9番を高校時代に聴いたとき、音楽というものの私にとって持つ意味がすっかり変わってしまった。音楽がこんなに深いものを表現できるのかと思った。今までの人生でこれに匹敵する経験は、さらにそのずっと前、演奏という行為が持つ力に驚かされたワルター「田園」くらいしかない。

そのバーンスタイン、ニューヨークフィルのLPを随分聴いた。その後ワルター/コロンビア、バルビローリ/ベルリン・フィルの名演と言われている録音も聴いてみた。それぞれに魅力があり、今でもたまに聴くが、バーンスタインの演奏の持つ力を感じることはできなかった。

バーンスタインはその後コンセルトヘボウ、ベルリンフィルとのライブ盤が出る。私にはどう聴いてよいか分からない後者はともかく、コンセルトヘボウ盤では旧録音に比べ、表現もずっと練り上げられ、また描かれた絶望の深さも、憧れの切なさも、凄まじいほどのものになった。しかし一方でマーラーのあるいはバーンスタインの個的な世界により深く沈潜したものである。

バーンスタインは他に最近イスラエル・フィル盤も出たがそれは買っていない。1985年の来日時の演奏会を大期待で聴きに行ってがっかりした記憶が強いからだ。場所がNHKホールであり、私の席、一階最後列の音響がいかにも悪かったという事が大きいとは思う。しかし、マーラーの音楽は曲そのものより曲の背後に感じさせる人間や精神の方がより強力と感じている。それに共感できないと曲の魅力が途端に薄れる。絶望や憧れに七転八倒している人間臭さにはまり込んだ演奏ほどそうである。ちょうど私がマーラーに以前ほど惹かれなくなってきた時期であったということもあったと思う。コンセルトヘボウ盤の録音も1985年である。

ニューヨークフィル盤はあまり個人的な世界になり過ぎず、曲を素直に受け止め表現している趣があり、もっと広い人が共鳴できる一般性があるように感じる。たまに9番を聴きたくなると今でもニューヨークフィル盤の方を聴く。

ジュリーニという人は、あまり聴いていないのではっきりとは言えないが、緻密に音楽を分析しそのうえで完璧に音楽を組み立てるタイプの指揮者なのであろう。世評の高いブルクナーの9番は、そういう取り組み方で何か得体のしれない気持ち悪いことになってしまい、ブルックナーの壮大でかつ伸びやかな世界を愛する私は2度と聞きたくない演奏として棚の奥深くにしまい込んでいる(シカゴ、ウイーンフィル共に)。それでマーラーの9番を聴くのも遅れてしまったのだが、聴いてみるととても感動した。

いわゆるマーラー指揮者でない人が純粋に音楽として取り組んだというような演奏は私はあまり興味がない。大抵は音楽のいびつさをうきぼりにしてしまう気がするからだ。例外は勿論たくさんあるだろう。最たるものはセル/クリーブランドの6番で、誠実に音楽に取り組んだ結果その底に居る魔物とぶつかってしまい、それと必死に切り結んでいるような緊迫感がある。

ジュリーニの演奏は独自の新解釈をしている演奏でも、曲の別な面を暴きだすような演奏でもどちらでもない。普通に共感し、それを素直に、もちろん巧みに、緻密に、表現している演奏のように私には聴こえる。それもバーンスタインの後年の演奏のように、個人の精神に深く浸った共感ではなく、誰でもかつて感じたような絶望、あきらめ、あこがれ、信頼といった感情に寄せている共感のようだ。バーンスタインのニューヨークフィル盤に近いものを感じるが、バーンスタインが曲と一緒に悩み苦しんでいるのに対し、こちらは少し距離を置いてやさしく眺めているという印象である。9番がマーラー的音楽であるだけでなく、一般性も高い音楽であるからできることであり、だからこそジュリーニも取り上げたのかもわからない。

私は今のところ、9番はバーンスタイン/ニューヨークフィル盤とこのジュリーニ盤があればそれで良いと思っている。もし付け加えるとすると時々しみじみと心に沁みるバルビローリ/ベルリンフィル、それに朝比奈隆/大阪フィル(1983年録音の方)。朝比奈盤は今マーラーに共感しまくっている人には、”これはマーラーではない”と一蹴されてしまうであろう演奏だ。どなたかがお書きになっていたが”生きる力が湧いてくる”不思議な9番である。東京交響楽団で実演も聴いたが同じ印象で、終演後私の数列前の大柄な黒人の女性が立ち上がって大きな身振りで拍手する姿にとても共感した記憶がある。

初稿2014/7/16