タイトル | 交響曲第3番ニ短調 |
作曲家 | グスタフ・マーラー |
演奏 | ジョン・バルビローリ指揮 |
ハレ管弦楽団 | |
ケルスティン・マイヤー(コントラルト) | |
他 | |
CD | IMG BBCL4004-2(BBC LEGEND) |
マーラーの交響曲を一番良く聴いたのは高校3年生から大学の1,2年生のあたりまでである。その後は全部の曲を頻繁に聴くということはなくなったけれども、それでも3番、7番、大地の歌は時々聴いたように思う。中でも第3番はよく聴いた。何か不愉快なことがあっても、この曲を聴いて1時間40分後にはなんてつまらんことにこだわっていたのだろうという気分にさせられた。そのときのレコードはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルの旧録音である。雑誌名は忘れてしまったのだが、当時何かの音楽雑誌で音楽評論家の方々が夫々愛聴盤を紹介しあうという座談会の記事が載った。その中で、これもお名前を憶えていないのだが、このバーンスタインのレコードを挙げておられた方が居た。その方は終楽章だけを良く聴くのだそうだけど、”その日の疲れが全部とれる”ということを語っておられて、ああ私だけではないんだと思った記憶がある。LP時代は、クーベリックだの、テンシュテットだの幾つか聴いてみたが結局バーンスタイン以上にしっくりくるものは無く、CDになってからは、新・旧のバーンスタイン、ニューヨークフィル版ばかりを聴いていた。ある日、今は無き渋谷のHMVの棚で掲題のCDを見つけた。その時は「へえ、バルビローリの3番なんてあるんだ」程度の軽い気持ちで買ったのだが、一度聴いて私の宝物になった。今はマーラーの3番というともっぱらこれを聴いている。
マーラーのおおかたの交響曲は、必死に何かを追求していて、しかも結局調和を得られない作曲者の個人的じたばたを見せられている思いがする。それはそれなりに魅力的ではあるのだが、気分が共有できないときに付き合うのはなかなか疲れる。年齢と共に共感できない場合が多くなってきたのがあまり聴かなくなった理由だと思う。 それに対し3番、7番はマーラーの音楽の大きな要素の一つである「自然」が主役の交響曲である。そこに孤独やさびしさはあっても安定して穏やかな心に満ちている。第3交響曲はシュタインバッハで夏の休暇を過ごす間に作曲されたが、ワルターの著作「マーラー人と芸術」(音楽の友社)を見るとそこでは、実際に自然の中を歩き回ったり、子猫や森の動物と戯れたりの生活だったらしい。
この交響曲をはじめて聴く人はまず長大な第一楽章に面食らうかも分からない。ソナタ形式だそうなのだけど、随分多くの回数を聴いた私にも、未だにどこがどうしてそうなのか分からない。構造がつかみにくいだけでなく、突如として行進曲みたいなのが出てきたりする。実は初めて聴いた頃はこの楽章を聴くのが退屈で苦痛だった。第2楽章以降を聴くために我慢して聴いていた。しかし何回か聴くうちにこの楽章が楽しくてたまらなくなり、今では全体の中心とさえ思っている。 私はこの楽章は音楽のコラージュだと思っている。一見脈略なく現れる個々の音楽が互いに共鳴しあって豊かな世界全体を感じさせる。先ほどのワルターの著作から引用する。第3交響曲を作曲中のマーラーをシュタインバッハに訪ねるところである。
私はかれの家へ行く道すがら、ヘレンゲビルゲの峰々を眺めることができた。その切り立った岩は他の美しい景色の背景となっていた−そのときかれは「君はもう何も見る必要はないのだよ。僕は音楽に皆使いつくし又描きつくしてしまったのだから」といった。(村田武雄訳)
マーラーはこの複雑な音楽の中に彼が見る自然の全体を写し取ろうとしたのではないか。この楽章のバルビローリの演奏はことさらすばらしい。豊かで楽しい世界を心行くまで味わうことができる。先日バーンスタインの旧全集が安価な12枚組みBOX(SONY 88697943332)で出たので買った。それで第3番を改めて聴くと、確かに名演には違いないが、第一楽章など指揮者の手が感じられ、作為を感じさせない自然さの点でバルビローリの方が勝っていると感じた。
第3楽章は、第7番の第4楽章と共に、マーラーの小さな自然への愛情を強く感じさせる音楽である。冒頭の小鳥たちのおしゃべりの何と愛らしいこと。この部分は元になった歌曲集「若き日の歌」の中の「夏の歌い手交替」では”カッコウは死んでしまった、青い柳の木の枝で”(SONY SICC1616の付属冊子中の喜多尾道冬訳)という不吉なものだ。バルビローリの演奏はそんなことはお構いなく、やさしく、温かい。
第1楽章と第3楽章で作曲者の目に映ったシュタインバッハの自然を満喫させ、第2楽章はマーラー一流のひたすら美しいメヌエット、第4楽章はニーチェのツァラツストラ中の詩によるアルト独唱(ビスコンティが「ベニスに死す」で使用した)、第5楽章は「子供の不思議な角笛」の詩による児童合唱と女性合唱(この演奏の児童合唱は本当に子供らしい無邪気さがあり好ましい)、そして終楽章は感動的な緩徐楽章となっていて、全体が一つの大きなコラージュのようにも思える。バルビローリの演奏は−バーンスタイン盤とはまた異なった−世界を体験したような気持ちにさせられる。
残念ながらこの録音は現時点では廃盤である。バルビローリの第3番はこの他にベルリン・フィルとのものがある(TESTAMENT SBT21350)。この演奏の少し前のライブ録音である。こちらは現在も手に入るようだ。一応ステレオであるが、もともと悪いのか、保管が悪かったのか、録音が私が快く鑑賞できる限界以下であまり聴くことはない。ハレ菅版のライナーノートに、音楽学者のデリック・クック(10番の補筆完成版で知られている人)がハレ菅との演奏を聴いて「今まで聞いた最高のマーラー演奏のひとつ」と感じ、レコード化を働きかけたがベルリン・フィルとの演奏をリリースすることを考えていたEMIが首を縦に振らなかった。そのレコード化も結局されなかったというエピソードが載っている。多分そのベルリン・フィル版というのがこれであろう。
初稿 | 2013/1/4 |