「映画による小説」と
ポール・トーマス・アンダーソン「ザ・マスター」

「映画による小説」というのは確か故飯島正さんの言葉だったと思う。間違っていたら失礼なので断定しない。私は初めて聞いたときから凄く納得している。ちゃんとした定義は飯島正さんくらい広い教養を持っていないと無理であろう。感覚的につかんでいるだけなので他人に説明するのは難しいが、おおよそ次のようなイメージである。映像効果やアクションシーン等の与える生理的効果に頼らずにシーンの積み重ねで物語を語っていくこと。第二にそのようにして語られる物語が小説的なものであること。いわば映画の文体で描かれた小説である。曖昧な言葉ばかりで定義になりはしないが、具体的な作品を上げると、まず一部のトリュフォー作品である。もともと飯島正さんがトリュフォー作品を評するのに使用した言葉であったように記憶している。「突然炎のごとく」、「柔らかい肌」、「隣の女」はまさにそう。「恋のエチュード」もそのようなつくりだが、ネストール・アルメンドロスの撮影が美麗過ぎて、ちょっとずれちゃったかなという気もする。アントワーヌ・ドワネルシリーズなんかは違う。但し「大人は判ってくれない」だけはちょっとその味がある。他にはシャブロール「いとこ同志」。

日本映画ではあまりない。溝口も小津も黒沢も全く小説的ではない。今のところ唯一このジャンルに入ると思ったのは成瀬「浮雲」である。

念のためであるが、ストーリーを追うような作りであるとか、小説を原作としているとかは全く関係ない。あくまでも映画の作り方の一形態であり、その表現の目指すものが、起承転結とか浪漫的とかの小説を思わせるものであるということである。映像表現に頼らないのだから却って1シーン1シーンの演出がしっかりしたものでなければ映画として成り立たない。

もともとそう思わせる作品は少ないし、最近はほとんど忘れていた言葉である。それを思い出さされたのはポール・トーマス・アンダーソン「ザ・マスター」を見たときである。この映画、坦々とシーンを積み重ねて行く作りであり、各シーンの完璧さ、充実度は凄い。たかが40を少し越えたばかりの人がこれだけの演出力を身に付けているというのは驚くべきことに思える。しかし見終わった後の「読み終わった」感の無さはどうしたことだろう。その不在ゆえに「映画による小説」ということばを思い出したのである。「映画による小説」風な作り方なのにも係らず、描いたものが分からない。何を言おうとしているか明快ではないないということ自体は欠点ではない。表現上の要請から分かりやすい説明を犠牲にする場合もあるだろうし、解釈を観客にゆだねる場合もある。しかしこの作りでそれはないだろうと思った。頂上での眺望を期待して登山道を登っていったら途中で道が途切れていたみたいな感じで、そんな気持ちを味わうなら始めからけもの道の探検に出かけたい。

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は非の打ち所の無い完璧な映画だった。各シーンの完璧さに加え、見終わった後に凄いドラマを観たという充実感があった。どこが違うのか改めて考えてみると役者である。「ゼア・・・」ではダニエル・デイ=ルイスという怪物役者が完全な一人の人格を作り上げていて、それにより完結したドラマとなっていた。本作のホアキン・フェニックスはパターンとしてはうまく作っているが、強烈な人格を感じさせるようなことはなく、フィリップ・シーモア・ホフマンの存在感の方がどうかすると際立つ一方で、ホフマンのほうも明確な人物造形はされていないようで、結果映画としての完結感がないままなのだ。「ゼア・・・」が一人の役者により予期しない完結を見たのか、本作がうまく行かなかったのか、アンダーソン監督の本来の意図がどちらなのか今の段階では分かりかねる。次回作に注目したい。

なお、「ゼア・・・」のときは「映画による小説」とは思わなかった。それで「映画による小説」であるための条件を一つ付け加えたい。”役者が際立ちすぎないこと”。トリュフォーも「アデルの恋の物語」はアジャーニが前に出すぎているという理由でこの範疇からはずれる。演技が重きを占めると小説的であるより演劇的になってしまうように思う。少しは「映画による小説」ということを伝える事ができただろうか。

初稿2013/3/28