推理小説の手法の一つに「叙述トリック」と分類されるものがある。推理小説の古典的なものは犯人がトリックを使った犯罪を行い、探偵役がそれを推理等によりあばくというものであろう。叙述トリックはこれに対し、作者が読者に対してかけるトリックであり、叙述の仕方によりだますものである。古典的な、犯人がしかけるトリックが底を突いてきたせいか、わが国でも現在では、本格推理小説を書いている人たちは多かれ少なかれ皆使っているといっても言い過ぎではないくらい普通の手法になっている。
何か研究書なり評論なり出ているかも分からないが、今私が思いついた程度で書いてしまうと、大きく2つの手法がありそうである。
一般的イメージや通常暗黙の了解となっていること等を利用し、性別、時間的前後関係、人数、人の同一性、場所の同一性、事件の同一性、人間関係等について間違った思い込みをさせる。非常に多い手法と思われる。
雰囲気や描写手法等で思い込みを誘導する。カーの名作に冷静に考えれば不確かなことを何故か確かなことのように思い込まされてしまうものがある。この作品の場合読者のみならず登場人物もだまされるので一般には心理的トリックと呼ばれているようだ。
登場人物の幻想を交えているのだが、読んでいる間は気が付かない。リチャード・ニーリーの作品にまあまあ成功作と呼べるものがあるが、一発芸のトリックとして小説を成り立たせるのは難しいように思える。主人公の主観による小説としてのしっかりした土台の上に、さらに意外性を加えたものというのが一般的な有り方だろう。物語を効果的に語るために推理小説的手法を用いる作家である道尾秀介の作品に例がある。
最近読んだものの中で、多重人格者の一人称記述という手法を使用しているものがあった。これは実際にその人格となった人物が作品世界に登場していることになるので、単なる主観の記述とも言えない。別な分類をたてるべきか、また立てるとするとどういう項目にすべきか考慮中。
第X章から第Y章までは、実は登場人物Aの書いた小説の一部でした。というようなもの。
凝りに凝った叙述トリックを駆使する折原一作品等にまだいろいろあったような気もする。
何年か前からこれは映画における叙述トリックと言えるのではないかと思わせられる映画が目立つようになってきた気がする。それの中にはなるほど映画でもこういうことができるのかと感心するものがある一方で、これは反則だよねとしらけさせられるものもあり、それで少し考えてみたいと思った。
小説の場合、叙述トリックを使っていることを知らないで読んだほうが絶対に楽しめる。このため上の説明でも具体的書名を挙げないようにした。映画の場合も全く同じである。しかしながら以下考察するに当たってはどうしても作品名を出さざるを得ない。ここ20年くらいの主な映画は大体見ているという人以外は未見の映画のネタバレになってしまう可能性がある。あまり沢山の人は見ていないだろうと思われる作品名は出さないつもりだが、ご承知願う。
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小説では典型的、かつ圧倒的に多いと思われる(1-1)であげた手法のほとんどは映画ではまず使えない。画面に映ってしまうからである。なかでは時間の前後関係を誤認させる手法は例外的に使えるだろう。実際に作品が有った気がするのだが思い出せない。また、セットや服装等見た目を全く同じにするというようなことをすると場所の同一性誤認誘導等もできるだろうが、"同じ"である合理性を納得させるのが困難であろう。
一方全部映ってしまうという映画の特性故に効果がある手法がある。見えているものの意味を最後にひっくり返しショックを与えるというもので、アメナーバル「アザーズ」が例に上げられる。書き物では世界全体を描出できないので、最後に登場人物は幽霊でしたというだけではひっくり返しは成立しない。人間ということでは説明できない謎を事前に提出しておかければならず、それでも落としばなし程度のお遊び以上にはなかなかならないだろう。
(2-1)の手法自体は映画ではありふれたものと思われる。あるシーンが、夢から目覚める寝ている人物のカットにつながったり、引くと映画の撮影現場だったり。古くはポランスキー「反撥」や最近ではアロノフスキー「ブラックスワン」のように主人公の幻想を現実と混然とさせたり。これらは単に表現手法なのであり、映画の大半に渡り観客がそのことに気が付かず、種明かし時にそれなりのカタルシス効果を期待して用いられているものでない限り「トリック」とは呼べない。同様の理由で幻想と現実の区別を意図的に曖昧にしている作品も除かれる。アメナーバル「オープン・ユア・アイズ」=クロウ「ヴァニラ・スカイ」あたりが境界だろうか。
この手法を効果的に使ったのは、やや変種ではあるが、シャマラン「シックスセンス」だろう。後から考えてみると、相手が自分を認識していないことに気が付かないなんて有り得るか等納得できない点があるのだが、不満を感じさせないのは、伏線が巧みに張られていて、なるほどという満足感があるからだ。 行定勲「今度は愛妻家」では実は登場人物が既に死んでいることが途中で明らかになる。そのことが映画のテーマに深くかかわって感銘を与える。スコセッシ「シャッターアイランド」は映画の雰囲気自体がうまく造形されていて、幻想という伏線になっている。幻想に生きなければならない主人公に対してもそれなりの感情移入ができる。
これら3作は成功作であり、それは上手な伏線か、内容に対する手法の必然性の少なくとも一方があるからと思われる。私には失敗作にしか見えないフィンチャー「ファイトクラブ」はこのどちらも無い。伏線が弱いうえ、良く見直してみないと分からないのだが、幻想だけでは説明しにくいシーンがあったように思う。とにかく幻想であることが分かっても大した効果は上げないし、叙述トリック的手法をとった必然性が分からない。
上記のうち後ろ3作は原作物であり、その点も考慮しなければならないのかも分からないが、最終的に映画としての作劇法に採用したということを重視して、考えないことにする。以下同じ。
このように小説と対比しながら数え上げていくと、映画には小説では成立しない第3の叙述トリックがあることに気づく。
クワイン「パリで一緒に」(デュヴィヴィエの元ねたは未見)のように始めから虚構であることを宣言しているものは除く。
登場人物の話でしかないことをそのままシーンとして見せ、真実のことのように思わせる。たとえば思い出を話し出そうとする顔のショットに過去のシーンをつなげ、それを実は嘘の話でしたとする。人の話がシーンを構成できるだけの完全性を持っているわけがないので、観る方はいわゆる回想シーン(フラッシュバック)と思ってしまう。従ってあとから嘘でしたと言われても普通は納得できず、いんちきと思うだろう。本来はやってはいけないことである。 この間、ヒッチコックの日本未公開作をDVDで観ていて、この手法そのものを使っているのでびっくりしてしまった。この場合はその前衛性により許されると思うが、後の人間が無批判に真似して良いとは思えない。
この手法は小説では有り得ない。登場人物が話すことは話でしかない。当然嘘が含まれる可能性を読者は了解している。映画における(3)に似た手法としては(2-2)が挙げられるだろう。地の文に手記や小説をそれとは分かりにくいように紛れ込ませる。これがトリックとして成り立つためには、地の文ではないことを示すヒントがあったり、あるいは手記としなければ説明が付かないというように、読者がその事に思い至る手がかりがなければならない。(3)もそのような手段をとる事で許容できる手法となる。好例はシンガー「ユージュアル・サスペクツ」だろう。これは登場人物の話が作り話である事を示すヒントがあったことが最後に示される。読み返しの利く小説とは異なり、途中でこれに気が付くのは実際には無理であろうが、それでもなるほどそう来たかという満足感がある。それだけではなく、全体の構成が、ミステリーの匂いというか、遊戯的な雰囲気を巧みに作っていて、だまされても、さもありなんと納得させるものを持っている。反対に、何の工夫もせずこの手法を使っているため、混乱と不満しかもたらしていないと思われるのがマクナティアン「閉ざされた森」である。叙述トリックを用いた小説の場合”嘘を書いてはいけない"というルールのもとで作品が成立している。映画でも何か自己を律するルールを課さないと失敗作が生み出されることになる。
なお特に作品を洗い出したわけではなく、たまたま思いついたものを材料に考えた。何か思い出したり、未見の作品で該当するものを見たりして、考えが変わるかも分からない。その時は改訂するつもりである。
その後観た映画の中で2本ほど考えておきたい
一つは堤幸彦「イニシエーション・ラブ」。乾くるみの原作を読んだのはだいぶ前であまり傑作という印象は残っていないが、叙述トリックには違いない。これは画面に映ってしまうと成り立たない典型的な映画化が困難なトリックである。どのようにやったかという興味で観た。違う俳優が同じ人物と思われる役をやっていればそれは時期が違う同じ人物という暗黙の了解を壊している。手法的にも例えば走る足を重ねるショットで通常は同じ人物を暗示する方法を壊して使っている。これが「トリック」だと言えるのであれば、例えば切り替えしで2人が会話しているシーンが、実は他の人間と会話していたなどというのも許されてしまうことになる。これはもうトリックとは言えない。当然ながらだまされた感もない。結論としては、伏線らしきものも組み込んではいるが、叙述トリックとは呼べない単に映画表現手法を使ったお遊びの映画。映画の手法に対する暗黙の了解を壊す方法は、フラッシュバックのシーンに嘘が含まれるというのが許されるかどうかギリギリの線だろうだろう。
もう一つはバラン・ボー・オーダー「ピエロがお前を嘲笑う」。「ユージュアル・サスペクツ」のような登場人物の語りの騙り、「アイデンティティ」のような多重人格の視覚化という既存の手法のように思わせて最後にそれをひっくり返す。結果としてややこしくなり過ぎ、だまされたという爽快感がない。何度も前に戻って確認しながら読める小説とは違い、複雑にするのは映画として間違った行き方ではないかという印象を持った。
初稿 | 2013/2/26 |
補足 | 2015/12/14 |