俳優と映画の関係について思うこと
〜最近観た日本映画から

映画を観ていて、どうしても役柄ではなくその俳優本人にしか見えず、映画に入り込めない時がある。演技が下手なためというのは論外である。また私の場合、これ見よがしの熱演型の人もだめで、XXが主演なら観る気がしないという人が昔から何人かいる。ここでいうのはそういう人ではなく、下手でもないし、芝居がくさいわけでもないのに、なぜかそう感じさせられてしまう人である。

例えば「8年越しの花嫁」の佐藤健と土屋太鳳。二人が悪い俳優だと言っているのではない。二人とも身体能力にも優れている俳優として貴重な存在だと思っている。 この映画でも演技が特に悪いわけでは無い。でも何故かふたりが邪魔して入り込めないのである。土屋太鳳の映画はあまり見たことがないので何とも言えないが、佐藤健はいつも佐藤健に見えてしまっている気がしてきた。「るろうに剣心」などではそれが別に気になるわけでもないので、映画にもよるのだろう。同じような印象を持っている俳優をもう一人上げると生田斗真。

性格俳優と言われる役者がいる。私の理解に間違いがあるかもしれないが、ケチとか陰険とか独特の性格(説明のために単純化しているが、実際は一言表現できない独特のイメージ)を専門にやる役者さんで、その人が演るというだけでその役にイメージを与えてしまうような役者さんである。

それと似たようなもので、佐藤健も生田斗真も映画の外の本人のイメージがしっかりしていて、何をやってもそのイメージがついてしまうということではないかと思う。同じイケメンでも菅田 将暉や妻夫木聡と言った人たちは、本人のイメージが固定してしまう前にいろんな役をやって、得体が知れなくなってしまっているので、何を演じても違和感がないのかなと思う。生田斗真なんかも最初からいろいろやっているようではあるが、きっと一線を超えた役をやっていない。

本人のイメージを大事にするか、今後イメージを壊すような汚れ役、憎まれ役をどんどんやり、何でもやれる役者になるかはどちらが良いということではなく選択の問題だろう。ただ前者の場合、映画を選んでほしいと思う。

考えてみれば、役者というものは不思議なものである。映画を観ている方は役者本人を知っていて、同時に映画の中の登場人物として違和感を感じていない。

変な譬えかもわからないが仏像みたいだと思う。仏像の材料は木や石でしかない。それを人の形に作り上げたものである。しかし作り上げる過程で、作る人の信仰心が表情や佇まいとして表れ、木や石に過ぎないと分かっているのに感動を与える。名演とはそんなものだと思う。

良い映画に名演は必ずしも必要は無い。演出により役者を映画の中に溶け込ませてしまえば良い。極端な場合は役者を小道具のように扱ってしまうということになるが、そうではなく、役者の演技を抑える中で、役者が持っている表情や話し方を生かすことで心を打つ人物を描き出す。

例えば「ナラタージュ」では嵐の松本潤が主演している。この人の他の映画を観たことは無いが、テレビでは時々見かける。「ナラタージュ」ではその印象がまるでない。頼りないダメな男が存在感を持って現出している。行定勲監督には「普段が100だったら40くらいに抑えて」と言われたそうだ(キネマ旬報2017年10月下旬号インタビュー)。

反対に名演であることが不可欠な映画ということで、ベルイマンのいくつかの作品が思い浮かぶ。「叫びとささやき」や「沈黙」はリブ・ウルマンやイングリット・チューリンの背筋にゾクッと来るくらいの名演技なしには映画が成り立ちそうもない。しかしこれは特異な例であろう。

封切りで見逃して、その後なぜか今まで出会う機会が無かった「夜叉」を午前十時の映画祭で観た。田中裕子が実によい。例によってうまい。見事な演技で造形された人物が、映画の中にはめ込まれ、映画の世界と化学反応を起こして、映画の感銘を高めている。このような関係が映画と名演の幸せな出会いだと改めて思う。

初稿2017/12/21