至福の時〜「リップヴァンウィンクルの花嫁」「ヘイトフルエイト」

キネマ旬報9月下旬号の「ファイトシネクラブ」で大高宏雄さんが映画ファンやその周辺の映画関心派がシネコンから排除され始めていると書いている。アニメと恋愛ものに乗っ取られ、その映画の質にふさわしい観客のありように変化しつつある。ということのようだ。

なるほどそうかなと思う。時期的にはその記事の対象には含まれていないと思われる「君の名は。」の大ヒットのこともある。勿論悪い映画ではないしそこそこにヒットしてくれれば良いとは思うが、映画の質を大きく超える異常なヒットに思える。新海監督の前作「言の葉の庭」に感心したので、大騒ぎになる前に観に行ったのだが、画の美しさに感嘆しながらも、後半の設定のいい加減さやご都合主義な展開が興ざめだった。

ずっと以前から、大ヒットする映画と映画ファンが支持する映画とは必ずしも一致してきたわけでは無い。しかし、ちょっと今の状況が違うと感じるのは、彼・彼女らが映画ファンが映画に求めるものと全く別のものを求めて支持していると感じられるところだと思う。以前は映画ファンはヒットする理由はそれなりに理解でき「見る目が無いからあんなものがヒットする」と高みから見下ろせた。今は見る目の問題ではなく全く違う原理で映画が支持されているように思えてしまうところである。大高さんの書いている「シネコンから排除され始めている」というのがそういう意味かどうか分からないが、私にはそう思えてしまう。

過去にも「ロッキーホラーショー」のように 普通に映画を観る理由とは全く別な支持のされ方をされる映画もあるにはあった。今との違いはむしろそちらが主流になってきているのではないかというところだろう。

やがて、旧来の映画ファンは、シネコンから締め出されるまではいかなくても、ヴォリュームソーンの観客との共通項であるハリウッド製大作等を除いては、シネコンではなく単館系ミニシアターのみを頼ることになるのか。そのような事態は映画の興行大手が大量動員を見込めない映画から手を引くということであり、いろんな映画に接する機会が減り、新しい映画ファンが減り、という負帰還に陥りかねない。

しかし今のところはそうなっていないように思う。ここ一月以内で考えても「アズミ・ハルコはゆくえ不明」「シークレット・オブ・モンスター」「五日物語」と旧来タイプの映画ファンしか観ないだろうと思われる映画も私はシネコンで観ることができている(それらの映画が優れていると言っているわけではない)。

話題に乗せられて映画を観た人、あるいは何らかの理由でたまたまスクリーンの前に座った人、その中のほんの一握りでも、映画の魅力にとらわれる人が生まれ続ければ、前述のような負帰還には陥らないだろう。

そのためには、小さなスクリーンでも良いからいろんな映画を上映し続けてほしいと思う。それができることがスクリーンを多数持つシネコンの長所だろう。

前置きのつもりが長くなってしまった。本題である。今年観た中で、これこそ映画ならではの世界と感じさせられた2本の映画について書こうと思う。共通項は「豊かさ」である。

そういえばタランティーノ「ヘイトフルエイト」も近くのシネコンで観た。映画を観る喜びを最大限与えてくれる、私にとってはまさに至福の時間であったが、何がそんなに良いかは、映画好き以外には最も説明し難い種類の映画だろう。感動的な物語があるわけでもなく、スリルもサスペンスもなく、笑いもない、ましてや高邁な思想が語られるわけでもない。

何が良いか。まず大変上手に作られたものを観た後の充実感があるが、それだけではなく豊かさと言ったものをを感じさせてくれるところである。豊かさがどこから来るかというと、まず凝りに凝った構成。2時間45分をほとんど室内で見せる。いや構成そのものより、構成に凝りに凝っている所と言う方が正確であろう。同じく全編70mmカメラで撮影したり、美術に凝りまくったり、そのような、そこまでやるのというある種の稚気が画面からあふれ出ている所である。

今年は日本映画にも至福の時を感じさせてくれる映画が一本あった。岩井俊二「リップヴァンウィンクルの花嫁」である(これはシネコンではなかったが)。言うに言われない豊かさを感じさせてくれるところ、映画ファン以外には何が良いか説明が難しいところは「ヘイトフルエイト」と同じだが、豊かさの源はオタク振りが芸術に昇華したような「ヘイト・・・」とは違う。

世間知らずの女の子が悪い男にだまされてという始まりで、凡百の映画だとその子がそのまま不幸になったり、最後は男が懲らしめられたりと言うことで完結するだろう。ところが後半、思いもかけない方に話が進み、目くるめくような展開、最後はああ不思議な国のアリスのような世界に飛び込んだ女の子の冒険と成長の物語だったんだというところに完結する。進行と共にキラキラと違う面を見せていく、そのことで奥行きと広さが発生する。観ているうちにパースペクティブを失い映画に翻弄されるのが快い。

初稿2016/12/21