不特定多数の観客に見せるために作られた一本の映画が、作り手の中の誰かの美意識や価値観、哲学が反映されているのか、その場合どの程度自己に忠実に作られているのか、あるいは商業的な成功や映画祭での受賞等世俗的な成功が目的とされているのか、あらかじめ明らかにされているわけではない。どの映画にもいろんな要素が少しづつ含まれており、どこかの要素が際立っていると娯楽映画や商業映画と分類されたり、作家の映画として扱われたりするのだろう。
私の場合、映画をみると、たくさんあるそのような連続的な物差しのどの辺りにあるのか位置づけを試みているようだ。それを映画の理解にあたって意識する。たとえば、キム・キドク「嘆きのピエタ」をみると、映画としての感興とは別に、どうしても、一般受けを狙ったような、作家のイメージと合わない違和感も強く感じてしまう。
もしその映画の位置づけが分からないと、理解できない映画ということになってしまう。理解できない、分からないからつまらないと言う分けではない。例えば、私は、ある時までルイ・マルという人が全く理解できなかった。それでも「死刑台のエレベータ」で、ジャンヌ・モローが街をさまようシーンとか、「恋人たち」の夜のラブ・シーンには酔わされた。しかし、それはきっとマイルス・デイビスの音楽やドカエのカメラに感銘を受けたレベルであり、映画そのものに共感したとは言い難い。それが、それまで理解不能な映画であった「鬼火」や「ルシアンの青春」や「好奇心」までも含めて理解できたような気になったのは、「プリティ・ベイビー」で精神の贅沢さへの嗜好、あるいは世の中の価値観から自由であろうとする精神に共感できた時である。このように何かについての強い嗜好とか、深い感傷とかを感じると一気に映画と作家が身近なものになる。理解できる映画になるのである。
イエジー・スコリモフスキの映画を初めて見たのは学生時代の「早春」で、これがまさに位置づけ不能の理解できない映画であった。それも取りつくしまもないくらいの有様だったので、その後自主上映等で初期作品が公開されたこともあったと思うのだが、全く眼中になかった。監督作としては17年ぶりという「アンナと過ごした4日間」をみたのも時と地の利のたまたまであった。
だが観て圧倒された。何に圧倒されたかというと画面を占める「濃密さ」としか言いようが無い。映画の世界にどっぷり浸って一種呆然として映画館を出た。
その「濃密さ」の正体に気がついたのは、次の「エッセンシャル・キリング」においてである。両作品とも主人公の主観を映像化しているのだ。私はそう思う。「アンナ」では精神的に普通とはズレた主人公の目に映る世界、「エッセンシャル」では憎しみでもなく、打算でもなく、疑うことを知らず、只自分の義務であるから、ひたすら行動し続けるテロリストの目から見た世界である。後者で逃亡が過酷になるに従い尋常でない濃密さと美しさを示していく映像は圧倒的である。
8月16日から9月5日までシネマート新宿でスコリモフスキ連続上映があり未見だった3作品を見ることができた。その中で抜群に面白かったのは「シャウト」である。面白いと同時に興味深い映画であった。というのは映画のほとんどが主人公であるアラン・ベイツが語った物語という構成になっているからだ。主観による物語である。本当にあったことなのかどうかという興味を持たせる余地や、スザンナ・ヨークが死体置き場に駆けつける明らかに客観的な場面があって、主観を映像化した映画とまでは言えない。しかし私はこの方向が「アンナ」さらに「エッセンシャル・キリング」と純化していった可能性があると考える。
同時にスコリモフスキという人の複雑さも感じた。前述のルイ・マルのように一度位置付けができると、他の映画もわかったような気になり、たまにそれから外れる作品があっても、その位置からの距離で理解可能なことが多い。
しかし3作品の中でも「ムーンライティング」は難解だった。どうしてこういう話なのか、登場人物はどうしてこういう行動をとるのか、作者はどこに立っているのか見当がつかなかった。位置づけ不能である。たぶん当時のポーランドの状況、それに対するスコリモフスキの立ち位置が分からないと理解できないのかと思う。
今は「早春」をもう一度見たい。
初稿 | 2014/12/17 |