ベルイマンの日本未公開3作品

映画は映画館で観るものだと思っている。それでも所有しているDVDの枚数いつのまにか数10枚になった。映画館でみるのが困難なもの、細部の確認をしたくて買ったもの等もあるが、多いのはやはり好きな映画である。映画館で観た過去の体験を自分で追体験したいということで買ったものである。好きな映画でも映画館以外では絶対観たくないと思うものもあって、「冒険者たち」とか「ブレードランナー」などがそうだ。また、特に最初の出会いはできる限り映画館でと思っており、未見の過去の作品でも、映画館、自主上映などで見ることができる可能性があるものはDVDでは見ないようにしている。

ベルイマンの日本未公開の3作品「狼の時刻」「恥」「蛇の卵」が20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメントから発売されているのは知っていたが、そのうち岩波ホールかユーロスペースあたりで上映してくれるのではないかと思い、手を出さないでいるうちにいつのまにか忘れてしまっていた。ふと思い出して調べてみるといつのまにかBOXセットは入手不可能になってしまっており、あわてて単品を3枚を入手した。

3作ともそれぞれ別な意味でベルイマン作品としては異色である。特に1977年の作品「蛇の卵」は何も知らずに観たらベルイマン作品とは思わなかった可能性さえある。ディノ・デ・ラウレンティス製作というのにも驚くが、ベルイマン映画としては破格の予算で、しかもドイツで撮った映画であり、舞台もヒットラー台頭前のベルリンである。またどうみてもベルイマンファミリーには見えないデビッド・キャラダインが主役である。なによりも内容が全くベルイマンを思わせない。

普通に事件が起こり解決がある。美術や映像造形は一線を画すものではあるが、プロットだけだと一般の商業映画と変わりがない。それもとても良くできているし、面白い。こういう普通の映画も上手に撮ることにちょっと驚いた。何故わが国で一般公開されなかったのだろうと思う。

考えてしまうのはベルイマンにとってはどういう映画なのだろうかということだ。「鏡の中の女」のプログラム(岩波ホール)の中の飯島正の記事「ベルィマンについての2,3のこと」では1969年の「夜の儀式」に始まりテレビ映画を撮るようになってからのベルイマンの映画は室内劇の傾向がさらに強くなったと指摘されている。「夜の儀式」以降の映画はTV用も含めて半分も公開されていないので私には何ともいえないのだが、それが正しいとすると、「蛇の卵」は当時のベルイマンの傾向からは大きく外れていることになる。特典映像の中のリブ・ウルマンのインタビューによると何年も後にベルイマンと二人で見直す機会があり、その時は、良くできていると喜んでいたというから不本意な映画ではなかったはずだ。

この映画の後がいかにも室内劇の「秋のソナタ」で、その後はテレビ用のドキュメンタリー(「フォール島の記録」)の他は「操り人形の人生から」の一本を取って、自伝的あるいは回顧的な映画「ファニーとアレクサンドル」で映画監督引退宣言をする。「蛇の卵」で映画的な表現に飽きたか、あるいは引退するつもりで最後にいかにも映画的な映画を撮りたかったのか。未公開の「操り人形の人生から」は殺人事件を扱った映画というから、ぜひ観たいところだ。

「狼の時刻」「恥」はもっと前、共に1968年の映画である。ベルイマンの立ち位置が良く分からない映画だ。共に芸術家が主人公であり、芸術、あるいは芸術家というものをシニカルに描いたものに見えてしまうが、果たしてどうなのか。

「狼の時刻」は、ヴァンパイア、古い屋敷、カラス、次第に取り付かれていく主人公等、いかにもホラー映画のガジェットがこれ見よがしで、冗談で作った映画かとさえ思ってしまう。オープニングのタイトルバックにはセットを組み立てる音を流してメタ映画としての視点も強調する。芸術なんてたかがこんなもんだという自嘲ととれなくもない。過去に似た映画を探すと「魔術師」だが、「魔術師」ではとにかく前半はその重厚・神秘的な雰囲気に引き込まれる。それで後半うっちゃりを食わされるわけだが、この映画では果たして引き込まれるだけの世界を構築できているのか、TV画面では分からないのだ。今後映画館で見る機会があったとしても先入観を持ってしまって観ることになり今回DVDで見てしまったことは私にとっては取り返しがつかない。最初の出会いは是非映画館で、と思うのはそういう理由である。

「恥」は、すぐめそめそ泣くような軟弱な音楽家が、自分の駄目さについに爆発して冷血な悪逆非道な人間に転じる。機関銃までぶっ放すのだから凄い。何とペキンパー「わらの犬」と同じ構造なのだ。じわじわと人間の心を抉り出していく傑作群と比較し、ドラマを通じて浮かび上がるものがいかにもステレオタイプに見えてしまう。何を描きたかったか。芸術、芸術家など戦争の前では無力という、これまた自嘲なのか。しばらくたってからまた見ることにする。見えなかった何かが見えるかも分からない。優れた映画はそういうものだ。

初稿2013/9/18