「グランド・マスター」の感銘

映画とはそもそもスクリーン上に投影された光が時間と共に変化するものにすぎない。光の配置や時間に沿った流れが感覚に快いかということがまずある。空気の振動の流れを感覚で受け止めるものである音楽と似ている。

私が映画をよく見るようになったのは音楽に長いこと親しんでからであり、そのせいか初めからそのように映画を観ているように思う。映画を良く観るようになった頃に、ある本で三島由紀夫が映画が最も近いのは音楽であると言っているというのを見かけた。全く其の通りであると感激したものだが、何のことはない、ムーシナックのリズム論のように、映画理論の初期のころからある考え方であることを後に知る。

何をくどくど言っているかというと、ウォン・カーウァイ「グランド・マスター」を観て感銘を受けたことを書きたいからだ。映画にとおとおとした流れがあり、その中を人が現れ、消え、動き、戦い、雪が降り、時代が流れる。特に武闘のシーンの流れは非常に美しく、映画の基調を作る。冒頭に歴史的背景の説明があるものの、カンフーの歴史に全く知識のない者には話が良く分からないし、登場人物の心の動きもつかみにくい。そのような意味は伝わらなくても、映像の流れによる詩が創造されている。見終わった後、日常とは別次元の時間を過ごした確かな充実感が残る。

この映画のように、周到に設計され構築された映像の流れが呼び起こす、日常とは違った感覚こそ映画本来の楽しみと私は思っている。映像は具体的なものを写したものであるから何を表しているかという意味も発生する。映画の光による詩の部分と意味の部分の相互作用が映画を複雑で味わい深いものにするのは事実だ。だが古今東西名画として尊重されているものは、その思想の深さや展開の面白さや感動的な主張があるとしても、必ず詩的にも優れている。

映像面が優れているだけで中身があまり無いというような映画もある。例えばリドリー・スコット「レジェンド/光と闇の伝説」である。最近のものではバズ・ラーマン「華麗なるギャツビー」もそのように評価されるのではないだろうか。私は両作ともとっても楽しんだが、他人に薦めるかというと二の足を踏んでしまう。画の造形をここまで突き詰めると単に「綺麗な映画」以上の、美に殉ずるとでもいった凄みが出ていると感じるが、誰でもそれで楽しいというわけではないだろう。「私はとてもよいと思ったが、あなたが観て面白いかどうかは保障しないよ。」と言うだろう。単に映像の流れで呼び起こされる感覚の量だけではなく、その感覚の質と深さが観終わった後まで残る感銘を与えるかどうかに関係するように思う。

「グランド・マスター」は感動的な物語を紡ぎはしないが、俳優のまなざしや写し取られている世界の持つ美しさが、人生や人間、時、悲しみ、運命と言ったことに関し心の奥底の何かに触れる。すぐれた映画から「ストーリーの記述」を取り去って映画そのものの生な魅力を感じさせる映画と思う。

初稿2013/7/15