ダリオ・アルジェントと小栗虫太郎

偏愛している映画作家の一人にダリオ・アルジェントがいる。正確には”偏愛していた”というべきだろう。ある時期以降の作品はそれほど好きではないし、特に最新公開作の「サスペリア・テルザ 最後の魔女」「ジャーロ」はそれぞれ、久しぶりの魔女3部作の完結編であるということ、ジャーロというそのもののタイトルから期待して見ただけにがっかりしてしまった。好きなのはデビュー作の「歓びの毒牙」から「シャドー」まで、ぎりぎり「フェノミナ」は入れて良いか、の日本での劇場公開作品である。以降の作品では「トラウマ/鮮血の叫び」がわりと楽しめた。

どこが好きかというと、一生懸命に外連をやって、それが効果的で実に楽しい、というあたりだろうか。例えば全然たいしたことのない謎を、いかにも凄い秘密のように扱う。普通は答えが分かったところでしらけてしまうはずなのだが、それを雰囲気で納得させてしまう。観た方には「サスペリア」の”青いアイリス”や「インフェルノ」の”靴の底の下”を思い浮かべて頂ければ良いだろう。それをがっかりせずに楽しめるというのは、この2作の原色が印象的な映像のように、工夫に工夫を重ねた映像効果、音響等、作家としての創造力に裏打ちされているからである。「ジャーロ」にも”黄色い顔”(未見の方のため:ホームズのそれとは全く関係がありません)という謎が提出されるが、扱いがぞんざいで、さっぱり楽しくない。

アルジェントというと私は日本の探偵小説家である小栗虫太郎を思い浮かべてしまう。熱心な愛好家・研究者のいるこの作家に対し、一部の作品をつまみ食いしているだけの私が論じるのはおこがましい。容赦をお願いしつつ、おこがましいのを承知で書くと、虫太郎の作品でも無理な謎、あるいは少なくとも一読では理解不能なトリック、が晦渋な文体や散りばめられたおびただしいペダントリー等の生み出す雰囲気により納得させられてしまう、それが楽しい。ただ、「大仰な振り」を使って謎やトリックを効果的に扱うのは推理小説であれば多かれ少なかれあるだろう。特段に虫太郎を連想してしまうのは、アルジェント作品にある「錯視」へのこだわりによる。

「サスペリアpart2」を観たとき絵の中の顔のくだりで”虫太郎みたいだ”と思った。それが最初である。虫太郎の作品にも錯視が良く出てくる。代表作「黒死館殺人事件」にも幾つか登場する。興味のある方には、読むのが結構大変なこの長編より、短編の「夢殿殺人事件」を薦めたい。これも絵を使った錯視である。「サスペリアpart2」で虫太郎が思い浮かんだのはこの小説の記憶があったからかも分からない。

さてアルジェントであるが、「歓びの毒牙」では自分が目撃したものの意味ががクライマックスでひっくり返る。ヴィットリオ・ストラーロの鮮烈な映像が効果的だ。この変形は「シャドー」でひかえめに使われている。「4匹の蝿」では網膜に焼きついた4匹の蝿の像は何かというところ。「トラウマ/鮮血の叫び」では何故2人に見えたのかというおどろきのトリック。日本劇場未公開でDVDで観た「マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴」の”黒猫”では、笑ってしまうような錯視トリックが使われている。こう並べると、やはり視覚によるトリックが好きなのだろうと思わざるを得ない。映像の効果に凝る作家としての体質と、見るという行為のあやうさへの執着というのは裏表の関係にある気もする。フェノミナ以降の作品で唯一錯視を扱った「トラウマ/鮮血の叫び」が面白かったのは偶然ではないように思う。

初稿2013/1/2