武道空手とは
戦乱の続く時代を生き抜くための技術として、武術が発展した。
修行はあくまで殺人のための技術であった。
その厳しい修行の中で技術と精神が融合され、武道として発展してきたが、殺人のた
めの技術であり、ルールのない果たし合いを前提とした技を追求するのが武道である。
それに対し、ルールを定め、その枠の中で安全に競技を進めるのが
スポーツ
である。
そうすると、どうルールを定めるかによって、最も適切な動きであるかは自ずと違ってくる。
空手を日本に伝えた富名腰義珍師は
「空手に試合はない」
と教えた。
富名腰義珍師の高弟である江上茂師も「空手に限らず試合は”死に合い”といわれ、
いずれかが倒れるまでやるものであった。欧米の競技が入って以来、今日のような試合
形式となった。
武道としてなら、現代において断じて試合はない。」と教えられた。
昭和15年当時、沖縄では組み手すら見なかった”江上茂”時代から今日に至って、
試合に代わるスポーツとしての自由組手が考案され、「試合」と呼称されている。
従って、厳密には、
「自由組手」
と
「試合」
は別物である。
「自由組手」は稽古の1つの方法であり、生死をきめるものではない。約束組手で身に
つけたことを応用して、相手と技の強さ、動きのリズム、間合いを確かめるものである。
照道館空手は、空手を武道ととらえ、あくまで果たし合いにおいて、いかに強い技を
出すことができるかを追求している。
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