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Update: 2011/6/15 |
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◇【休息】:アトリエが少し高台にあるので、信州の山並み(浅間山、烏帽子、菅平、太郎山など)が、180度以上にワイドに見える。特に、烏帽子は形のいい山であり、いずれは絵にしてみたいと思っている。季節の変化はもちろん、一日の変化も、時間と共に驚くほど姿を変えていく。やはり、信州の山は美しい。
制作に疲れた時は、ロッキング・チェアーにゆったりと腰掛けて、山並みの変化をぼんやりと眺めるのが、休息であり楽しみでもある。ようやく、自分だけの時間が与えられたようである。皆さん、くれぐれもこの大切な時間を、邪魔しないようお願いするものです ! ・・・(笑)
勤めも終わり、人間関係のうっとうしい摩擦もなくなり、多分、最近はおだやかな顔になってきたと思うのだが・・・・・。
この数年、外部の人々との付き合いを極端に制限し、自己の内にこもって自身を見詰る生活をしてきた。多くの人に失礼があったであろうが、お許しいただきたい。・・・先日、親友が亡くなったのを機に、ようやく、周囲の人々との付き合いを、少しずつ始めたいと思うようになってきている。もし許されるのなら・・・・・。
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◇【藤沢周平】:愛読書は「藤沢周平の時代小説」である。まだ、藤沢氏が元気で作品を次々と発表していた頃からのファンである。書店に行くと藤沢の新作を探した。二度三度と読み直しているが、未だに飽きが来ない。文章や構成の旨さは言うまでもなく、各場面の描写が的確で味わいがあり、美しく、目の前に全てが浮かんで見えてくる。人間というどうしようもない生き物を静かに見詰め、暖かく包み込んで描写している。人物に対するいたわりのある、細やかな描写は捨てがたい。情愛、品格等、人のあるべき姿を見せてくれる。人の肌のぬくもりのようなものを感じさせ、特に、登場する女性が、哀れで悲しくて、けなげで美しい。江戸時代の情景でありながら、何の違和感もなく、その中に入っていける。人間の根底にある、生きることへの戸惑いと共感と、いとうしさとも言えるものが、伝わってくる。多分、藤沢周平という人が、静かに暖かい目で人間を見詰める人だったのであろう。
最近、テレビや映画に藤沢周平の作品が取り上げられることが多くなったが、どの作品も、原作の良さや文章表現の細やかさが伝わってこない。やはり、小説を直接読まないと藤沢文学の良さは、味わうことが出来ない。・・・少なくとも、原作を損なうような、一人よがりな作品は作らないで欲しい。と思うのだが・・・。
気持がすさんだ時、精神的に疲れている時、一読することをお勧めしたい。
◎『橋ものがたり』、『時雨のあと』、『用心棒日月抄』(新潮文庫)、『風の果て』、『蝉しぐれ』、『暁のひかり』(文春文庫)、『雪明り』、『決闘の辻』(講談社文庫)など。
◇【偽りの追想】:美校浪人時代、研究所の帰り道、何回か不思議な感覚を経験した。・・・住宅の建ち並ぶゆるい坂道の歩道をゆっくり歩いている時、はっと気が付く。今、目の前に見えている光景は、何時か何処かで、何もかもそっくり同じ状態で見たことがある。家並みも歩いている人も、行き交う車も、風景全てが以前何処かで見たことがある、という確信に近いものである。これは、似ているというような普通の感覚ではなく、″全く同じであること″が動かし難い事実として、突きつけられた不気味な感覚である。これは既知感だけあって、決して想起できないのを特徴としている。・・・しばらくは、もしかしたら精神に異常を来たしているのではないかと、誰にも話せずにいた。
履歴には書かないが、一時、某大学の哲学科に籍を置いていたことがある。或る時、偶然に答えを発見したのである。H.L.ベルグソン(注)の言う「偽りの追想」(贋の追想)と呼ばれるものである。ベルグソンによれば、「絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労あるいは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけが自動的に意識より先に出るために起る現象である」という。即ち、私の場合これは、視神経の疲れから、眼の「物を見た」という認識が脳の認識より一瞬遅れることにより、遅れて見たという合図を、脳が再び受け取ることになり、二度目の認識が「何処かで見たことがある」という既知感になるというのである。
当時、終日、イーゼルに向かって、石膏像あるいはモデルを、一定の距離で見詰め続ける生活をしていた。夕方外に出ると、電柱がぶれて二重三重に見えるのが常だった。おまけに金がなく、栄養不良ぎみで痩せて青白く、貧血を起こして倒れたこともあった。「偽りの追想」が起る多くの要因を持っていたと言えるのである。・・・ともあれ、精神に異常を来たしたのではという心配は、ベルグソンによって解消された。今は栄養過多で太り、当時の面影はほとんどない。「偽りの追想」も起ることがなくなった。苦しかったが当時の方が、少なくとも緊張感を持って必死で生きていた。最近、時々懐かしく思い出すことがある。
ところで、このような「偽りの追想」を経験した人は、ありませんでしょうか。
(注) Henri Louis Bergson : フランスの哲学者。絶対的・内面的自由、精神的なものの独自性と本源性を明らかにし、具体的生は概念によって把握し得ない不断の創造的活動であり(直感主義)、創造的進化に他ならないと説いた。著書 『物質と記憶』 『創造的進化』 『道徳と宗教との二源泉』 など。ノーベル賞受賞。
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◇【秋の空と野菜と】:12月1日、朝晩だいぶ寒くなってきた。朝もやのかかる日が多くなり、山が靄に隠れ草原にでもいるような風景である。車のタイヤをスタッドレスに換え、雪に備えている。野菜(大根、白菜)を収穫し、漬物の準備に入った。12月始めには、野沢菜の取り入れと野沢菜漬の作成である。我家の漬物が、おいしく出来上がるのを楽しみにしている。昔ながらの冬ごもりの準備である。
12月16日(日)初雪。
◇【テーマ】:油画制作の主たるテーマは、人間という生き物への問い掛けであり、自分自身の存在への問い掛けである。結局は人間否定に行き着くのであるが、ここまで人間という不可解な生き物を見詰め続けている。五十年余り同じテーマを追い続けてきた。今後の制作で油絵具の持ち味を充分に生かした、徹底的に人間の内面を見詰めた、重厚な作品を作り上げたいと思っている。幸いなことに、うっとうしい世の中の雑事からは、開放された。
▼【油画作品】・「ある風景’83−13」 F.80号 1983年 第8回新芸術展(東京都美術館):新人賞
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