清水正教のホームページ、5
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Update: 2012/7/8 |
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◆「美術」という言葉:
▲art(英、仏)、Kunst(独) 視覚的・空間的な美を表現する造形芸術。絵画、彫刻、建築、工芸などの総称であるが、絵画と彫刻の再現芸術に限られる場合もある。明治期には広く芸術を意味した。西欧では芸術と美術を使い分けず、アートやクンストを広狭両義に使う。なおボーザール(beaux-arts,仏)やファイン・アート(fine art,英)も時に使用されるが、これらはもともと芸術を意味する語であり、常に美術を指すわけではない。(『新潮・世界美術辞典』より)
▲本来は芸術一般を指すが、現在では絵画、彫刻、書、建築、工芸などの造形芸術を意味する。(『広辞苑』より)
▲「美術」という言葉には、純粋に美的空間を造形していくという、美の再現行為を感じるが、「芸術」という言葉には、純粋造形とは違う別のニュアンスを感じる。何か策を講じるような、少し澄まして気取っているような、そんな印象があるので好きになれない。これは全く個人的なことであるが・・・。(清水)
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◆「油絵具」: 油絵具は、顔料に亜麻仁油などの植物性乾性油を練り合わせて作られている。19世紀までは、画家が、大理石のパレットの上で、粉末の顔料と油をへらで練り合わせて絵具を作ることから仕事を始めた。この練り合わせる作業の中で、顔料の性質を理解し、顔料の扱いを身に付けていったのである。
近代の画家達の顔料組成に対する堕落は、チューブ入りの絵具の出現によって始まったと言えよう。便利になると、どうしても根本にある原則を忘れるようである。なお、近年、公害問題の高まりによって、古くから使われている重要な顔料(カドミウム系、バーミリオン、シルバー・ホワイトなど)の中に、製造中止に追い込まれているものが少なくない。「美しいものには棘がある」の言葉どうりで、毒性の強い顔料ほど鮮やかな美しい絵具となり、堅牢である。画家達のために、何とかして製造を続けてもらう方法はないものだろうか。
油絵具は、透明にも不透明にも、また厚塗り、薄塗りなど自由な組み合わせが可能であり、展色力が良く、多様な表現に適した最も重要な画材となっている。また、制作中の色と乾いた後の色の変化もないなど、他の絵具の追随を許さないものがある。
15世紀フランドルで大幅な技術的改良が行われ、絵具自体の輝きと明るさを発見し、以降イタリアをはじめ西欧諸国に伝えられた。16世紀ヴェネチア派によって、厚塗り、筆触の効果など近代的技法に繋がる油画独特の表現法が始められた。17世紀オランダのレンブラントは、重厚な絵肌と意志的な筆触によって、自己の内面を掘り下げ、人間の本質に迫る作品を作り上げた。18世紀の美術アカデミーの伝統的技法は、19世紀の印象派によって変革され崩れたが、最も表現力に富む画材として、今日も油絵具は愛好されている。近年各種の新しい材料が登場しており、いろいろ使ってみるが、やはり油絵具に帰ってくる。
◆「日本人の頭の形と体形の歴史」:現代の日本人の頭形は、短頭形か短頭に近い中頭形である。日本人の人種的頭形・体形の特徴は、時代と共に大きく変化して来ている。
形質変化が加速したのは、弥生時代と明治以後今日に至る時代であり、変化の経過は、生活状態の急激な進歩と一致している。すなわち、前者は農耕の開始であり、後者は近代的都市化現象と食の欧米化である。現在の形質は、江戸時代を経て、身長の増大、短頭化の進行、鼻根の隆起の増大を見ることが出来る。江戸時代の浮世絵を観ると、面長な「美人画」の顔と、「職人づくし絵」の丸い職人の頭の二種類の形質が観られ、頭形の変化が始まっていることが分かる。また、現代の若者をみると、新たな形質の変化が始まっていることが分かる。奥行きのある西洋的な頭、長くスーと伸びた手足に象徴される体形の変化。これは食べ物と生活環境の変化から来ていると言われている。
頭形変化の特質として注意することは、頭骨の体積が変化しないということである。丸い頭も奥行きのある頭も脳の量は変らないということである。これは、頭長と頭幅との間に補足的関係があって、相殺されるためであるとされている。
人物画を観る時、その時代に生きた人々の、いろいろな時代的要素を考慮する必要があると言える。頭形・体形の変化は、注意すべき重要な要素の一つである。
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◆「団体展」:学生時代、よく都美術館でアルバイトをした。各公募団体展の搬入、搬出、審査等の補助作業である。貧乏学生にとって有難いのは、仕事の合間に各展覧会を無料で観ることが出来たことである。しかし、審査の手伝いでは、団体展の裏側を全部見せられることになり、ある失望を味わうこととなった。審査は、純粋に作品の良さが優先するものと思っていたが、みごとに裏切られた。
卒業後、団体展に出品することなく、個展で発表を続けた。しかし、経済的に行き詰まった時、コンクール展と間違えて出品した新芸術展(新芸術協会)に、皮肉にも発表の場を求めることになった。団体展には抵抗があったが、発表の場が欲しくてしばらく参加することとした。初心者からキャリアのある人まで、具象絵画あり抽象絵画あり、何でも在りの面白い会である。時として、何でも何時でも一緒という変な仲間意識に抵抗を感じながら、今日まで作品発表の場としてきた。辞めることを何回か考えたこともあるが、人間嫌いの私が20年以上在籍していたのだから、良い発表の場だったと言えるのだろう。
しかし、茲に来て、人付き合いが面倒になり、5月20日付けで退会することにした。今は、アトリエで解放された気分でいる。ともあれ、今後の新芸術協会のレベルアップと発展を祈りたい。
★新芸術協会・事務局:〒350−1136 埼玉県川越市下新河岸90−17 ★詳細は下記ホームページを参照されたし。 ホームページ http://www.ne.jp/asahi/shingeijutsu/kyoukai/(「10、リンクのページ」参照)
◆「浮世絵と日本の近代絵画」:浮世絵を始めとする当時の日本美術が、西欧の近代美術に大きな影響を与えたこと(ジャポニスム)は、どなたも周知のことである。ただし、悲しいことに、現在の日本絵画に対するフランス等の観方は、浮世絵から一歩も出ていない。安井も梅原もほとんど知られていない。当然のことと言えば言える。西欧絵画には油彩画の長い歴史がある。日本には残念ながらそれがない。テーマでも同じことが言える。「キリスト」という大きなテーマに相当するものが、日本には何もない。材料の組成研究に至っては歴史など全くない。西洋画の移入が絵のスタイルから行われたことが、そもそも間違いの始まりであったと言える。出来ることなら印象派ではなく、顔料組成の研究がしっかりした古典絵画が移入されるべきであった。フランス等で日本の現代油彩画が認められない大きな理由の一つであろう。プロとアマチュアの区別もここにあると言える。絵づらはともかく、まず最低限の条件として、顔料の組成を知り、最後まで自分の作品に責任を持てるか否かで、区別出来ると言えよう。
当時浮世絵師は、一職工としていわゆる版下絵を描いていた。狩野派や土佐派の本絵師とは、経済的、社会的に状況が全く違っていて、庶民の中の一職工として終わっている人が、大半である。その最たる例が「写楽」である。彼は、10ヶ月弱で144点の作品を残して姿を消している。東洲斎写楽は、『浮世絵類考』に数行紹介されているだけで、経歴はほとんど不明である。写楽別人説が30近くもあるが、どれも何処か違うように感じる。
以前読んだ小説で、著者が誰であったか忘れたが、その内容は「写楽が絵に行き詰まり、浮世絵界から姿を消し、墓守となってダ・ヴィンチと同じように、人体解剖に没頭していた。」というストーリーである。なぜか、さもありなんと納得させられた記憶がある。なお、この小説の結末は、たまたま遺体を解剖中に、その遺族に見咎められ、うらみを買い、火を掛けられて、壁いちめんに貼り付けられた多くの解剖図と共に、写楽は焼死している。
写楽だけでなく、北斎にしろ歌麿にしろ、不明な部分が沢山あり、写楽に「北斎説」や「歌麿説」が出てくる所以でもある。写楽は別人ではなく、巷の版下絵を描く単なる一職人であり、一時期だけこの仕事をしていた絵を得意とする一個人である、と考えるのが一番自然である。写楽は「写楽」である。
浮世絵の芸術性に着目したのは、パリの印象派の画家達である。日本人がその価値に気付いた時には、浮世絵の重要なものは、ほとんど外国へ持ち出されていた。日本人が印象派の展覧会に行列を作るのは、その作品の中に、浮世絵を始めとする「日本古来の美」を観ているからではないだろうか。なお、浮世絵の良品を観たければ、外国の美術館へどうぞ。
▼「黒い構成」(スクラッチ・ボード) F.10号 2009年
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