トライアスロンの歴史

トライアスロンの誕生
トライアスロン(Triathlon)は、「3種目の競技」と言う意味を示していますが、その競技が生まれたのは1974年9月25日、アメリカ合衆国カリフォリニア州サンディエゴの「ミッションベィ・トライアスロン」で、この大会が世界で最初におこなわれたトライアスロンとされています。この大会はサンディエゴトラッククラブ(STC)が主催し、ラン4・5km、バイク8・0km、スイム400m、ラン3・2km、スイム400mで今と順番も距離も全く違う大会でした。しかしこの大会に、その後のトライアスロン競技を確立する「アイアンマン」を提唱されたジョン・コリンズ氏が、出場をされていました。

アイアンマンを提唱されたジョンコリンズ氏はアメリカ海軍中佐で、さぞかしすごい筋骨隆々のスポーツマンが提唱したか・・・と思われますが、実話41歳の時にはタバコが1日3箱のヘビースモーカー・適正体重20Kgオーバーと言う健康とは縁のない身体でした。しかし、サンディエゴ海軍に転勤後一大決心し、ランニング・エアロビクスを採り入れSTCにも所属、ライフスタイルを一転しました。
そしてホノルル海軍に転勤後もあらゆるマラソン・水泳大会に出場しそして伝説の1977年2月、伝説が生まれました。

1977年2月、場所は「プリモ・ガーデン」。あるマラソン大会の表彰パーティで「世界でもっとも競技能力の優れたアスリートは誰か??」のテーマで持論が始まりました。アルコールも入り議論はヒートアップ!!その時コリンズは「不滅のサイクリストのエディ・メルクス」で議論を交わしていたそうです。そしてどこからか「ワイキキラフアンドウォータースイム・オアフ島一週自転車レース・ホノルルマラソンどれが一番ハードなのか」との議論も熱くなる!!議論はさらにアルコールも入り熱くなり果てる様子はない、コリンズは議論を終わらすためバンドが休憩に入った瞬間舞台に上がり、会場に向かって参加者にこう言いました。「ワイキキラフアンドウォータースイム3・9Km・オアフ島一週自転車レース180km・ホノルルマラソン42・195kmの3つを一人で行う!!一つが終われば次の種目に移る!!すべてを完走した者に「アイアンマン」の称号を与え世界最高アスリートを認める!!決行は1年後の2月ワイキキの浜辺で、諸君を待つ!!」の言葉でした

アイアンマン大会の開催

1年後の1978年2月18日コリンズの呼びかけで集まった15人が出場、レースは元海軍ジョン・ダンバー氏とタクシー運転手のゴートンハラー氏の一騎打ちになり、最後にハラー氏が11時間46分3でゴール、史上初のアイアンマンにになりました。またコリンズ氏も17時間で完走。当時「狂気のチャレンジ」と言われたアイアンマンは、こうして歴史がはじまりました。

1982年よりオアフ島から交通規制の問題でハワイ島に移されましたが、この際のコース設定で本来海岸沿いの風光明媚なコースを計画していましたが、エイドステーション(食料・水分を受け渡す場所)の場所の確保が困難なため、トライアスロンの経験のない方が、場所を確保するために容易な溶岩台地・・・「クィーンK」のコース設定を決めました。
もしトライアスロンの経験者なら日陰の多い場所のコース設定をするはずが、競技を知らなくてコース確保を優先した結果、溶岩台地で日陰のない起伏のコースとなりましたが、これこそがこの「ハワイ・アイアンマンチャンピオンカップ」の伝説になる事になりました。それから現在に至りこのコースを多くのかたが挑戦し、また様々な選手と伝説が生まれたことは、言うまでもありません。

日本でのトライアスロン開催
日本では1981年8月20日に、鳥取県米子市の皆生温泉で開催されました。当時皆生は大人向けの温泉地のイメージが強く、これを温泉組合関係者が皆生のイメージを変えるべく大会開催の半年前「皆生温泉開湯60周年記念事業の企 画会議」にて、当時の旅館組合青年部が 「ハワイでトライアスロン言う新しいスポ―ツを始めたそうだ。」と言う一人の旅館の主人の言葉をきっか で、スタッフが情報を求めて飛び交いました。
「海を生かせるもの、健康イメージがアピールできるもの」 さらに「どうせやるなら、日本で一度もやっていないスポーツ」などのテ ーマで検討がされ、熊本の永谷誠 一氏と故・堤貞一郎氏がハワイ大会にチャレンジされたと聞き、両氏を訪 ね懇切丁寧なアドバイスを受け一同の決心がつきました。
さらに ハワイ大会のマニュアルの翻訳、数十回に渡るコースの検討などが繰り 返され、総距離100Kmに及ぶ熱く長いドラマの舞台が出来上がったのです。
未知の競技であったトライアスロン競技の開催に繋がり、1981年8月20日午前7時、国内初のトライアスロンは風光明媚な皆生温泉海岸を舞台に、女子2名を含むわずか53名の選手の力強い泳ぎで幕を開けました。

当時はスイム2・5km、バイク63・2km、ラン36・5kmで、スイムから上がった際には体重計で脱水症状の測定も行われ、またスイムからバイクの会場が、道路使用許可の関係で離れていたため自動車で送るなどの策が取られました。そして大会は2人のランナーが接戦し、史上初のゴールには下津紀代志さんと高石ともやさんが6時間27分33でフィニッシャーとなりました。

オリンピック正式種目化、そして〜


以後宮古島・アイアンマン琵琶湖大会をのロング大会の開催、そして久留米トライアスロン・天草トライアスロンのショート大会開催が日本国内のトライアスロン開催に拍車を掛け、多くの世界でも活躍するプロトライアスリートも誕生しました。

そして2000年シドニーオリンピックよりトライアスロンが正式種目となり、スイム1・5km、バイク40km、ラン10kmのショート・トライアスロンが開催されました。

今後も日本国内では国民体育大会で公開競技昇格も決定し、今後益々発展していく競技と信じています。
誕生から数十年ですが歴史はこれからも刻まれていく事を、願いたいです。