ハンディキャッパーの挑戦

トライアスロンと言うスポーツ=鉄人の身体を持つ者・・・そんなイメージが皆さんにあるのではと思いますが、それは特別な人に限定された事では事ではないと思います。

宮古島大会に出場した際、私の両親がもっとも印象に残った事は、義足のランナーが走っていた事だったそうです。ハンディキャッパー・・・先天性もしくはなんらかの不慮の事故・病気の為に、身体に障害を残ってしまった障害者の方々も、このトライアスロンに挑戦しています。

ハンディキャッパーがアイアンマンに初めて挑戦したのは1982年、盲目のランナージョセフ・ライネリーが伴走者をともなって初のフィニッシャーと、なりましたが1991年に左下肢切断の交通事故に遭遇した元大学フットボーラー、ジム・マクラーレンが挑戦。特別な義足でタフなコースを走りぬき、世界的に注目を集めました。

しかし、ホイール・チェアーの使用はアイアンマンへの挑戦の本質を危うくすると言う理由で認められませんでしたが、その風穴を開けたのがジョン・フランクスでした。彼は1985年、オートバイ事故で両下肢が麻痺する重傷を負い入院しましたが、リハビリの時、身体が回復したらアイアンマンに挑戦する決意をしました。

退院後もホイールチェアーの生活を余儀なくされましたが、1988年までに幾つのトライアスロンで完走を果たすが、アイアンマンへの思いは熱くなりエントリーを訴えたが、出場権の回答が得られませんでした。 思い余ったフランクスは1993年、ホイール・チェアーを持ってハワイ・ゴナ島に乗り込み、関係者にホイール・チェアー力強く持ち上げ「こんなにライトアップしているのに、暗闇では見えないと言う奴がいったい何処にいる?」と訴えました。さらに翌日抗議の意を込め3・9Kを、簡単に泳ぎました。

1994年。フランクスの願いはついに実現し、正式エントリーが認められました。初出場はバイクの制限時間をわずか数分オーバーし、リタイアの結果に終わったが、この姿が全世界に感動をあたえ1997年、フランクスの功績が認められ、ハンドサイクル・ホイールキャッパーをはじめとしたハンディキャッパー部門が誕生しました。この年8人のハンディキャッパーが完走、オーストラリアのジョン・マクリーンが最初のフィニッシャーとなりました。

「身体の不自由な人間でも皆と同じように、積極的に参加して大いに楽しもう」と、世界中にメッセージを送るホイット親子も、アイアンマンを完走、1994年6月には鹿児島県徳之島で開催された「トライアスロンIN徳之島大会」にも出場し、日本国内に大きな感動を与えました。

そして日本国内にもトライアスロンに挑戦する多くのハンディキャヤッパーが存在しますが、その中で古畑 敏男さんがおられます。21歳で血行障害のめ右膝を切断。1988年から義足でトライアスロンに出場し、アイアンマン完走も果しています。

また、映画「風の歌が聴きたい」(大林宣彦監督)のモデルとなった高島 良宏・久美子夫妻は、多くの聴覚障害者に、トライアスロン出場の勇気を与えてくれました。

そして韓国でも、アイアンマン最年少最速記録(2005年現在)記録保持者、ペ・ヒョンジン選手の実話を元に制作されました映画「マラソン」は、観客動員数記録を作るなど、多くの方に感動と、走る事のすばらしさを、教えて下さいました。

1994年、フランクスがバイクの制限時間を数分オーバーし、トランジエッション(自転車からマラソンに移る中継点)に着いた時、レースの審判員は競技続行の許可を出しました。しかし、フランクスは「ハンディキャッパーにも温情はいらない」と言い、潔くリタイアをしました。

彼そして彼女達は、レースに挑戦しています。それはたとえ健常者であっても身体障害者であっても同じです。すべての方がこのスポーツを通じ、すばらしき思い出と感動の為にも、日々トレ−ニングに励んでいます。これからも挑戦する事を、願わずにはいられません。 私も応援して行きたいです。