宮古島大会

第13回全日本トライアスロン宮古島大会・・・。私にとってトライアスロンの大きな分岐点であったことは間違いなく、10数年たった今でも、この大会が私の人生においても思い出深い大会です。

1989年からトライアスロンに出場し、この大会がトライアスロン人生の中で言うならば”青年編”の区切りだったと思います。

トライアスロンに関わる切っ掛けは、中学生の時の病床から見たトライアスロン大会、それが宮古島大会でした。この大会を目標とし1989年から出場をしてきましたが、1996年のクリスマスに届いた出場権を手にしたときには、歓喜を上げました。

初のロング大会でもあるこの大会に向けてトレーニングが始まりましたが、鉄人くらわんかのメンバーのアドバイス、そしてサイクルショップカンザキさん、当時勤務していました宮本鍼灸整骨院のの協力を糧にして、1997年4月出発をしました。

中学時代の病床から宮古島大会の出場を目標にしてきた事がマスコミでも取り上げられ、TV・新聞等で取材がありましたが、実話体調面では今ひとつでした・・・。折からの風邪気味で咳が止まらず、またトレーニングで腕を負傷し、出場間際になって不安の色が隠せない状況でした。しかし、4月20日の大会当日・・・。奇跡が起こりました。
前日までしゃべるのが苦しいぐらい咳き込んでいたのが、当日は完全に止まり、また腕の痛みも消えていたのです。どういう訳か分かりませんが、前日に腕は徹底的にアイシングをおこない、また風邪に効果がある経穴(ツボ)にお灸をし、その効果がでたのか、体調はすこぶる良好でした。

スイム・バイクと調子よく進み、また宮古島の美しい景色、そして島の方々の応援に支えられ、バイクゴールに運びました。いよいよ問題のランでした。実話この大会が人生で初のフルマラソンで(笑)それまではハーフマラソンが最高で、もっとも不安のあるパートでした。

4月ですが気温はグングン上がります。スタートをして流石にバテ気味だったのか、最初は思うように走れません。その中で一瞬目の前に飛び込んできた景色がありました。それは以前TJに掲載された写真と同じ景色でした・・・。

宮古島大会を目標にしてがんばってきた自分、そして今ロングの大会に出場をしている。出場権を得るまでは様々なショート大会の出場をしてきましたが、それは次の大会を目標にする上でも成績をこだわり、誰よりもゴールを目指していた自分がいました。しかし、今このレースで走る上で、走る自分・・・中学生の時一時は病気・骨折等で歩くことが出来なかった自分が今走っている、この瞬間涙がでました。歩いている人もおられます。”がんばってゆきましょう”の言葉を掛けてあげたいと思いました。しかし、その姿は見えない・・・。

それから走りながら色々なことを考えました。何故自分はこのスポーツと巡り会ったのか??この世に神様がいるとしたら
何故中学生の時病気になったのか・・・・。そして楽しかったこと、辛かったこと、倉敷・広島・大阪に住んでいた思い出、お世話になっている方々の感謝・・・。宮古島に到着し新聞を読みましたが、この大会には片足が無く義足で参加されている方(でも私より遙かに早いです)、難病と闘いつつも走られる方、そして障害を持たれた方も居られる・・・

そうすると自分が悩みと思っていたこと、悲しい思い出がスゥーと消えていきました。生きているから今、宮古島を走っている。五体がある。それ以外の悩みは贅沢じゃないかと、心の底から思いました。

ゴールが近づいてきて、気づいたことは真っ暗闇ではなく空がまだ明るい事でした、最後の力を振り絞りそしてゴールのある平良運動公園に入りましたが、その瞬間大きくガッツポーズを取り、全速で走りました。

アナウンスが私の名前を読み上げ、チームの方々の応援、そして島々の応援の中、ついに11時間53分584位でゴールをしました。その瞬間感動で泣き崩れました。

初めての称号ストロングマンのメダルを頂き歓喜に感動し泣きましたが、次の瞬間信じられないことが起こりました。それは両親が宮古島にいるのです。TV局が両親を招待し、内緒の上でゴールで再開するように、していてくれたのです。走りながら考えていた答え・・・私が生まれてきたのは父と母がいてくれたから・・・。神様がそう私に教えてくれたのかもしれません。そして歓喜の中宮古島大会が終わりました。

それから数十年、もう一度と思いつつ宮古島の地に足を踏み入れてはいません。仕事等の関係でその機会を逃しているのですが、この大会で大会関係者であった上地さんとは現在も交流があり、私の両親はその後も3回宮古島を訪れていますが、そのたびにお世話になっています。
そして私の診療所からも、毎年宮古島大会に出場する選手がコンディションで訪れ、中には宮古島で挙式をあげたアスリートもおられますし、患者さんが上地さんにお世話になることもあります。初出場をされる選手には、コース説明や給水のポイントの指導等をおこないます。
そして2004年には宮古島からオフィシャルマッサージャーの帽子とTシャツを頂き、現在もその関係は続いています。

2年後、岡山で開業する際に鉄人くらわんかのみなさんが送別会をしてくださいましたが、その席上で”1000人トライアスリートを治療したら宮古島にもう一度出場します”と、宣言しました。千人達成の時、もう一度宮古島の大地を思いっきり走りたいです!!そして上地さんを含め島の方とも再会をしたいです。その日を実現するためにもがんばってゆきたいです!!

最後に・・・。宮古島大会で一つだけ、実は悲しい別れがありました。それは高校時代に陸上部の先生から譲ってもらったバイクがこの大会をもって現役引退する事が決まっていました。10年近く乗り続けた「ブリジストン マイル112(再塗装、シマノ105に転換)」でしたがフレームに限界を生じてしまい、ニューバイクも間に合わすことも可能でした。しかし、10数年苦楽を共にしてきたこのバイクにもお疲れ様の気持ちと、最後の花道を飾らせたいと思い、一緒に走りました。現在このバイクはパーツを別バイクに移し、フレームを診療所に保存しています。

これからトライアスロンをされる方、もしくはまだ宮古島大会に出場をしたことがないアスリートの皆さん、ぜひ宮古島大会に出場してみてください。お勧めの大会です。私もぜひあの大地で走る日を再度目標に、してゆきたいです。