なんばさんとの出会い



1994年の9月に、私は福井県で開催されました九頭竜トライアスロン大会に出場をしました。この大会は大阪から友人の高間さんが同行をして下さり、福井で高間さんの親戚宅にも泊めてもらい、翌朝のレースに挑みました。

レース自身も良い成績に終わり、トランジットにバイクを取りに行ったとき、隣の男性に声を掛けられました。その方が難波さんでした。名古屋から来られたその方と、今日のレースのことで話がはずみ、二人で記念写真を撮りました。「写真を送りますから」と難波さんの住所を聞き、別れましたが時間にしてものの3〜5分間ぐらいの出来事でした。

写真を送り数日がたちまして難波さんから返事が来ました。その手紙には難波さん自身が交通事故で肩を痛め、そのリハビリでトライアスロンを始めたことなどが、綴られていました。

当時私は大阪在住し病院のリハビリテーション科に勤務し、その事からも難波さんの事に興味があり、それから手紙を交わす仲になりましたが、手紙を交わしていくうちに、お互いの人生、そしてトライアスロンに対する情熱、また難波さんのお母さん思いな文章など、感じました。

年が明けた1995年、年賀状にも難波さんの豊富が書かれていましたが、私も当時目標にしていた宮古島大会出場を目指して今年もがんばろうと思っていた矢先でした・・・。1995年1月17日・・・前日に実業団駅伝に出場し、好成績に終わり近所の友人と朝5時半まで私の下宿で飲んでいました。

友人が40分頃に帰り布団に入った瞬間・・・突然揺れを感じ次の瞬間、部屋の中の電気がすべて切れ、大きな揺れ、部屋が捻れてるみたいな激しい揺れに変わりました!!後に言われる阪神・淡路大震災でした。

揺れが収まりましたが、部屋はタンス等が倒れ大変な状況になりました。夜が明け電気が復旧しましたが、震源の淡路島、近隣の神戸が大変な状態になりました。それから数ヶ月間被災した方々への協力、そして余震が続く中での生活でしたが、難波さんの手紙でも震災のことが綴られていました。

難波さん自身も神戸とは関係があり、辛いことそして信じられないことが書かれていましたが、私も震災の支援で現場を訪れ、その状況と様々な出来事を書きました。書いたのは辛いこと・悲しいことも書きました。しかい難波さんの手紙で励ましの言葉があり、涙が出ました。

そんな中で、神戸の友人達も震災に負けまいと走り始め、私もトレーニングを再開しました!!
その後も手紙を交わし、そして9月・・・。

再び九頭竜トライアスロンに、私は走りました。そしてランの中頃で、一人の男性が話しかけて下さいました・・・難波さんです。「一緒に走ろう」の言葉で、オレンジを私にくれましたが走りながら色々な事を話しましたが、これが2度目の出会いです。しかしお互い心は通じているみたいでした。

そしてフィニッシュライン(ゴール)後、二人で抱き合い感動を分かち合いました・・!!そしてこれはレースに感動しただけではなく二人が再開するまでに励まし合い、助け合った答えでした。

写真は蒲郡ワールドカップトライアスロンですが、その後もレースで一緒になった時です。

1994年のあの時、わずか数分の見ず知らずの方との出会いでしたが、その一年後に、お互いが抱き合い再開を喜んだ二人の間には、手紙ですが励まし合い助けあった事、しかし二人を結びつけた物はトライアスロンでした。

私の一つの夢は小説家になることですが、その時にはこの事を物語にしたいです。