沈黙/遠藤周作 1966年 評価:5
いわゆるキリシタンの一揆といわれる島原の乱が鎮圧されたころ、日本での布教が厳しくなり、尊敬すべきフェレイラ教父でさえ棄教したという噂を耳にしたポルトガルのイエズス会は2名の司教を日本に送り込む。しかし、なんとかに九州に辿り着いた司教たちが経験したのは、底なし沼のような日本の精神構造の実態と、凄まじいキリスト教の弾圧であった。
カトリックの洗礼を受けていた作者は、キリストへの祈りは自身を幸福で満たされたものにはするが、その祈りは人々を、社会全体を幸せにできるのか、実際的に困難に直面している人々への救済を神は施してくれるのか、というキリスト信仰の根源的な問題をこの書で提起する。本書の題名「沈黙」は、弾圧を受ける日本の平民を救うために司教が祈りをささげた結果として取る神の態度である。結局は自身の心の持ちようで何が救われるのか、それが正義であるかを判断するしかない。囚われた司教は、踏み絵を踏むことで自分の解釈を正当化し、それが正しい信仰と納得するのである。
この厳しい題材を、作者は始めは司教からの書簡という形で一人称で描くことで、信者の心境の変化を詳らかに明らかにし、囚われた後は第三者の視点から客観的、冷徹に書述することで、司教の取った行動の具体性を際立たせる。
テロというのは祈るだけでは幸せは勝ち取れない、その神の意志の元、敵を攻撃するという、宗教としては間違った方向に向かってしまっている結果だと思うが、ある一つの宗教がその行動に出てしまった以上、他の宗教も、自身を守るためには攻撃に出てしまうのは必然で、それが繰り返されることにより、信仰の本来の意味は薄れていくのだと思う。武器の殺傷能力が飛躍的に強力になった現在、信仰のあり方というのも問われているのだろう。私個人は、ジョン・レノンと同じく、宗教なんてものがあるから戦争ばかり起こるのだと思う。今さらどうにもならないが、どの宗教もなくて良い、そんなことさえ考えさせるような人間の原理に迫る内容の問題作だ。