山の音/川端康成 1954年 評価4


 尾形信吾は鎌倉に妻の保子と息子の修一、菊子夫婦と同居している。信吾は東京で小さな会社の社長をしており(明確な記載はない)、修一もそこで働いているが、修一は本郷に住む戦争未亡人の絹子と不倫の関係にある。ほとんど夜遅く帰ってくる修一に対し強くいえない信吾であるが、若く、純潔な菊子には優しく接する。そのような状態がずるずる続いている中、娘の房子が夫の元を逃げ出し、孫二人を連れて実家に戻ってくる。

 実は本作は1949年から1954年までの5年間、複数の雑誌に連載したものをひとつにまとめたものである。そのため、各章の出だしは、前章と微妙に時期が違っているのだが、それを自然なセリフや表現で明らかにしたり、あくまで登場人物のやり取りを中心にしつつも行間でそれとなく背景を説明するといった超絶技法にまずは感嘆する。

 会話は日常会話という範囲を出ないながらも、所々に日本語の美しさ、はっとさせられる絶妙な表現をちりばめ、まさに感性を研ぎ澄まして読むことを要求されるが、それに応える美しさ。ただし、日本文学の最高峰と評されるのも十分納得の芸術性なのだが、話が知りきれトンボのように終わってしまう点が、小説としての面白みを殺いでいる気がする。私は映画もそうだが、芸術性のみを追い求めては正直自分の好きなゾーンから抜けてしまうので、本作はそんな印象である。

 本作の映画版(成瀬巳喜男監督、原節子主演)は約20年前と10年前に観ているのだが、あまり印象に残っていない。しかし、小説を読んで、映画版ではわからなかった(気付かなかった)部分が明らかになった。修一は太平洋戦争に出兵し、何がしか心に傷を負ってきた可能性があること、菊子の設定は20代前半であり、原節子(当時30代前半)ではあまりに落ち着きすぎ、大人の女であるところ、がさつな房子や保子の背景、信吾の若いころの憧れなどである。これらがわからないため、映画版に魅力がなかったのか。小説はそれらがいろいろなところかで表現されるので、一つ一つの情景や登場人物のやり取りが、それぞれ造詣深く、深い意味を持っていることがわかってくるのである。