「惑星ソラリス」1972年ソ 評価4.5
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:ドナタス・バニオニス、ナタリヤ・ボンダルチュク他
1989年、2023年12月観賞
惑星ソラリスのステーションの調査隊からの通信が途絶えた。かつてそこで調査を行っていた調査員は、ソラリスが知能を持った海でおおわれており、そこで巨大な人間の赤ん坊を見たと報告。調査員の報告に疑義を持った政府は、心理学者のケルヴィンをソラリスに送る。
1961年に刊行されたスタニスワフ・レムの原作では、人間の記憶から“対象物”を作り上げるという能力を持つ惑星ソラリスがそれぞれの隊員から創造した“対象物”は各調査員ごとに複数いて、それぞれが“対象物”に対して個人的な付き合いをしている。地球から遮断された、人類の常識では全く理解不能な世界の中での生き方を、人間の常識を超えて受け入れられるかで、読む人の評価が大きく異なると思うが、個人的にはSFの傑作だと思っている。
さて、本作は165分という長さだが、その約1/3は宇宙へさえ飛び立たず、主人公ケルヴィンと両親(父親と継母?)の家での描写が続く。また、ステーションで明確に存在を主張する“対象物”は主人公ケルヴィンの元妻(原作では恋人)で自殺を遂げたハリーのみであることによっても、本質はケルヴィンの精神基盤をベースとし、ケルヴィン一人の包括的な人生観を描いているように感じる。
作り上げられた“対象物”は、近年驚異的な発達を遂げているAIと非常によく似ている。いつかは本作のハリーのようなクローンを生み出せるようになるのか。しかしクローンが高い知能と感情を持ち、かつ人工なので良心だけが存在する場合、自身の存在への疑問に耐えられなくなるのではないか。そんな先進的な問題点も、50年以上前の本作は提起していることに驚く。また、タルコフスキー監督らしい、水中で揺蕩う水草の動きなどの風景描写を交えた丁寧な描写により、“対象物”という存在があることを知ってしまったケルヴィンにとっては、もう愛する母親も、元妻も失われている地球に戻り(実はそうではないのだが)その地で生活することの虚無感の表現が半端ない。まさしくタルコフスキーにしか描き出せないSFであり、本作もまたSF映画の傑作と言えるものだと思う。
私が34年前に観たのは多分2時間弱への短縮版だったのだろう。ケルヴィンの父親とのシーンや母親との幻想シーンは間違いなく初見。1989年鑑賞時では未知の能力を持った知的生命体自身である惑星という原作者レムらしい発想に対し、純粋にSF的観点からの衝撃を受けたものだが、今回の鑑賞では、タルコフスキー作品らしい精神的な深さ、人の潜在的な苦悩が描かれていると強く感じる。因みにタルコフスキー作品の中ではわかりやすい方だと思う。
東京の首都高速が、ソビエトの未来像として使われているシーンが有名。正直、なぜソビエトで日本語?という違和感は否めないのだが、確かに無機質な超現実感を感じさせはする。