「たそがれ清兵衛」 02日  評価4.5(5点満点) メジャー度5

監督:山田洋次
出演:真田広之、宮沢りえ他

 江戸末期、庄内の平侍・井口清兵衛は、娘2人と老いた母親を養うため、仕事が終わると同僚との付き合いを断って帰り、娘2人との内職に精を出す。このため、仲間には「たそがれ」と呼ばれていた。時代は明治維新に向け着々と変化を遂げていく世相であり、清兵衛の住む藩でも、藩主の死により領内は揺れ始めていた。そんな時、旧派閥の重臣の一人が屋敷に立てこもっているため、これを討てとの藩命が清兵衛に下る。

 公開当時、リストラにあえぐサラリーマンの悲哀に通じるものがあるという評論が多かったが、これを誤解してはいけない。確かに自分を見失わず頑張れば必ず良い事があるというメッセージはあるのかもしれないが、清兵衛は元はある剣派の師範代でもあり、刺客としての命を受けるほどなのだから、それなりの能力を認められていたのである。それを持って「たそがれ」ていたのは、出世欲がないのと、自分の好きなこと、貫くべき生き方が、世間に認められるという方向に向いていなかったからなのである。私が強く感動したのは、自分の最も愛するものを守るため、なにを犠牲にすべきか、犠牲にする覚悟はあるかを清兵衛は知っていて、しかもそれを実行したことだ。藩命を受けるかどうか詰問されたとき、何度も拒否しようとしたのは、自分の弱さからではなく、愛するものと会えなくなる辛さに耐えられなかったからだ。決して安直な、人間への応援などではなく、もっと重く、きつい選択に気づく覚悟はあるか、という問いかけが主題なのではないか。

 人間は30も過ぎれば己の能力の限界を悟るものである。成長を続ける努力は大切だが、それでも限界が見えるものである。その限界を認められないのは、よっぽど能力のある人間か、ただ単に限界を認める素直さがないか、どちらかである。そのような年代に差し掛かったときに、自分の子孫と自分の命との選択を迫られた(現代ではそんなことはありえないが、映画の背景は江戸末期で、最後のシーンは大正時代という80年程度昔の話であるがゆえ、現実的であるのかもしれない)とき、どう覚悟するのかを清兵衛は見せたのだと思う。自分の限界を知らず、限界を認めることへの反発を強さと誤解する愚かさ、なんでも自分が最優先という生き方が、現代の日本の病床である。この映画がヒットした要因が、清兵衛の覚悟に共鳴したものであれば、日本も捨てたものじゃないのだがな。

 話は清兵衛の娘の回想で進んでいくものの、子供の涙を出汁にする(ラスト・サムライのような)安易な方法はとらず、確かに近年稀に見る時代劇の傑作であるが、残念なのは、清兵衛と朋江(清兵衛の幼馴染)以外の登場人物がTVの時代劇と同じような紋切り型の描かれ方しかされていない点である。