「ドッグヴィル」 03デンマーク 評価4.5(5点満点) メジャー度2
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー他
まず最初に、この映画は一ヶ所のセットの中で展開していく。しかもそれは舞台に道と家の敷居のみを白ペンキで区切り、必要最小限の家具のみを配置しただけのものである。家の屋根や壁や扉は勿論無く、飼われている犬までもただの絵という、前代未見の映画である。しかし、不思議なことに違和感は初めだけで、映画内容の濃さに対してこのシンプルさが良いバランスを保っているとさえ感じられるので不思議だ。
1930年代のアメリカ。外界から隔離された炭鉱跡地に7世帯のみが住む町ドッグヴィル。彼らは貧しく弱い人間同士だが、互いを認め合い、適度な干渉の中、淡々と暮らしていた。ある日、そんなドッグヴィルにギャングに追われた若く美しいグレースが逃げ込み、住民達は彼女を匿うことにする。2週間で町の住民全てに好かれたらこの町に居続けてもよいとの条件をクリアしたグレースだったが、警察から捜索願、さらには指名手配が出るに及び、弱い立場になったグレースに対するドッグヴィルの住民達の接し方が急激に変わり始める。
貧困の中にいる住民達を描いているのは黒澤明の「どん底」や「どですかでん」と同じだが、展開のベクトルがまるで異なり、人間の弱さ、傲慢さをこれでもかと観客に投げつけてくる。その内容や、舞台を見るときの観客の視点を模擬したかのような揺れるカメラワークらは3時間という長きに渡り、観客に極度の集中力を要求し、非常に疲れる映画である。が、観終わった後にその内容を素直に振り返ることが出来るなら、様々なことを考えさせられる傑作であると感じられよう。また、なぜグレースは様々な屈辱を受け入れてまでドッグヴィルに居続けるのかという謎がだんだんと蓄積されていく展開が、集中力を持続させることになり、見事と言わざるを得ない。
この映画は様々な解釈が出来ると思うが、私が感じたのは人間の弱いものに対峙したときの傲慢のおろかさである。会社にも”まれ”にではなく、かなりいるでしょう?自分よりある面において(どんな面でよい)下のものに対して優越をやたらと誇示したり、弱いものをさらに苛め抜く人が。それがどんなに意味が無く、おろかなことか。ドッグヴィルの住民は、グレースを最後まで助けようとしていたかに見えた青年までもが、自己都合のままに生きており、ラストはグレースが住民を皆殺しにするという極端な結末へと向かうのだが、人生を捨てたような人間がそれでもさらに弱いものに対して下劣な態度をとった場合生きる価値は無いと言うことなのだろう。極端ではあるが、1930年代と言う時代を考えればまっとうな判断だったと私は感じている。
主役のニコール・キッドマンは良い女優になったなと思う。作品を選ぶ目がある。何処からか道を外れてしまったジュリア・ロバーツなどと違い、足がしっかり地に付いており、昔の大女優が通った道を着実に歩んでいる。いま最も好きな女優だ。
しかし、この映画がR−15指定というのはどうなのか?当然のごとくグレースはドッグヴィルの男達に姦通されるのだが、どれも場面は短く裸体が踊るわけではない。昔の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」などの方がよっぽどどぎつい描写が多い。話の筋上描かざるを得ない場面であれば、15歳以下であれ、よこしまな興味を持ってその場面だけを見ることは無い。そのような規制をする事で、多感で、逆にいえば得ることも大きい時期にこのような深く考えさせられる映画を観れないのは良いことなのか、大いに疑問だ。