8.全ての始まりにして終わりなるもの
ぴんぽんぱんぽん、とチャイムとは違うアナウンス前のサウンドをスピーカーが奏でる。
本日一度も鳴らなかった音だけに、どういうことだろうかと生徒たちは放送に耳を傾けた。
『あー、ちょっと競技中断して聞いてください』
『どうも、中野です。えーっと、皆さんに悲しいお知らせがあります。今大会始まって初めての死者が出てしまいました』
衝撃の報告に、校舎が大きなどよめきに包まれる。
いったい、誰が? どうして?
『亡くなったのは石橋学級の斉藤君。校舎内を半裸で駆け回った後、突如窓から飛び降り自殺したそうです』
『ううっ、斉藤。大人しい、いい子だったのに。どうして、若い者ばかり先に逝くんだ……』
『石橋先生……お気持ちは察するに余りあります』
どうやらまだ石橋は放送室にいたらしい。
まあ、最後の生き残り放送のノリからして、そのまますぐ帰るなどと誰も思わなかっただろうが、とにかく、石橋は放送室で大泣きしていた。
『しかし、おかしいですよこの学校は。生徒が死んだんですよ? なのに、なんで大会を続けてるんですか』
『たしかに、けしからんことですな』
『いや、あの中野先生。死んでません』
『……は?』
放送に中野・石橋両教諭以外の第三者の声が混ざる。
どうやら生徒のものらしい。
というか、一部の生徒はその声に聞き覚えがあった。
いつも昼の放送とかをやってる放送部員の山田君である。
『だって、山田君。このカンペに飛び降りたって書いてるじゃないか』
『だ、誰も死んだなんて書いてませんよ! 2階から飛び降りて骨折しただけです! だいたい、僕が読もうとしたカンペを中野先生が勝手に奪い取って読むから……』
『人騒がせな。たかが2階くらいで骨折して、今の若いもんはだらしがない』
『まったくですな。2階から飛び降りるなんて、小学校時代に毎日やってた遊びですよ』
『あのー、どっちでもいいんで、そろそろマイク返して下さい。終了放送くらい放送部でやりますよ』
『ああ? 何か言ったか?』
『いや、ですからマイクを返して下さい!』
『黙らっしゃい! いつもいつも昼時につまらん放送しおってからに。これからは私とゲッチュ石橋先生でトークショーをやる。君はもう帰れ』
その言葉、放送を授業に変換してお前らに返す、と何人の生徒が思ったか知らないが、中野と石橋のボルテージは上がる一方だ。
放送室を退去する様子は、まるでない。
『というわけでゲッチュ石橋先生。明日も放送室に来てくれるかな?』
『いいとも!』
『ははははは、こりゃどうもどうも。おーい、山田君。ゲッチュ石橋先生に座布団一つ』
『いや、ですからマイク……』
『諦めろ。お前の番は来ない』
『おお、ゲッチュ石橋先生。今のセリフ決まってましたよ! 高校でゲッチュ石橋先生に出会ってから20年、最高のダンディさを醸し出してましたよ!』
『ふふふ、まあ私も伊達に教師生活を10年以上も続けてませんからなあ』
『あの、マイク……』
『ズバリ、咥え煙草の』
『ニクい奴!』
ガハハハハ、と何がおかしいのか大笑いするアデランスの中野とゲッチュ石橋。
必死に自己主張する放送部員山田だったが、完全に無視されていた。
が、そんな放送に、突然がたんと何かを壁に叩きつけたような音が混じる。
というか、扉を乱暴に開けた音だ。
『このバカタレども、何をやってる!』
『ゲッ、教頭!?』
『ああ、教頭様だ。お前らの担任もやっていた、人生の大先輩のな』
『ちょ、ちょっと待って下さい。その手の金属バットはいったい……』
『ここ数年、少しは大人になってきたと見直していたら、この乱恥気騒ぎ……お前ら今年で何歳だ!? そこになおれ! 根性叩き直してやる!』
『またまた、お戯れを』
『いや……。言い直そう』
『ははは。いよっ、教頭太っ腹』
『お前らのようなアホが教え子だったということ自体が腹立たしいわ! いっそこの場で滅してくれる!』
『ギャアッ!? ダメ、顔はヤメテ』
『中野先生、待ってくださいよ! いでっ! ヤメロ、教頭!』
『じゃかましい! 貴様ら、いつまでワシに恥をかかせれば気が済むんだ! 金輪際、放送室には近寄るな!』
走り去る音、ひっくり返る音、なにやら素敵な快打音。
あ、こりゃホームランかな、なんて放送を聞いてる生徒達は他人事のように思う。
まあ、実際他人事か。
とりあえず、けたたましい騒音が鳴り止んでからしばらくして、哀れな山田君の声がスピーカーから流れた。
『あー、テステス』
まずは定番のマイクテスト。
こほんと一息ついて、本番に。
『先ほど隠れ役の方が1人、2階窓から転落して大怪我をしました。大会は残すところ30分ですが、事故や怪我のないよう、気を引き締めていきましょう。残り人数は2人です。以上、お知らせでした』
模範解答のようなアナウンスを告げて、放送が終わる。
なんとも味気ない事務的な放送に、あちこちで少なからずため息が漏れた。
この後、『放送は厳粛であるべき』『ゲッチュ石橋とアデランス中野トークショー希望』の二派に割れる放送論争が巻き起こるのだが、今は関係ない話である。
2階、廊下。
何か一悶着あったらしい放送室の様子に、名雪と香里は顔を見合わせていた。
「……何やってるのかしら、あの担任」
「バットでぶたれる音が聞こえたよ……」
香里は呆れ顔で、対する名雪は少し震えながら、それぞれ放送について感想をもらす。
察するに、アホな発言を繰り返し、放送部員(生徒)にまで迷惑をかけた両教諭を、教頭がとっちめに乱入したというところだろう。
しかしまあ、かくれんぼ大会の雰囲気に当てられて童心に返ったのだかなんだか知らないが、いい年した大人が何をやってるのだろうか。
学生時代から二人の面倒を見ていたという現教頭の苦労が見て取れる。
それはさておき、ダンボール逃避から30分後、香里はようやく復活を果たし、現在は名雪他数名と行動をともにしていた。
「さっきの放送、残り2人って言ってたわね。誰か捕まったの?」
栞が捕まった時点で残りは4人。
それから30分。香里の与り知らぬところで2人が捕まったらしい。
与り知らぬ、というか今の放送の数分前までダンボールに閉じこもっていたのだが。
事情を飲み込めていない香里のそんな質問に、色々伝達を受けていた名雪が答える。
「斉藤君と久瀬君が捕まったんだって」
「ふぅん。じゃあ、残ってるのは相沢君とあゆさん?」
「うん、そうみたい」
はぁ〜、と思わず香里は感嘆の声を漏らす。
大会開始時の隠れ役は総勢300人。
そんな中、最後の最後まで生き残った二人になるのはどれだけ大変なことか。
ましてやその二人が、身近な人間とその彼女というのも驚嘆に値する。
何より、まさかその二人が最後の最後まで生き残るとは、まったくの予想外だった。
はっきり言って、北川のような特殊技能も、栞のような大胆不敵さも彼女の知る二人には感じられない。
名雪も思うことは同じなのだろう。
やはり、どこか意外といった様子の表情を浮かべている。
「まあ、相沢君達ならかえって都合がいいわ。名雪、あの二人どこにいるか想像つかない?」
意識が戻って以来、あゆは水瀬家に祐一ともども居候をしている。
家族関係とか詳しいことはさておき、名雪は二人と寝食を共にしている間柄なのである。
そんな名雪なら、二人の行動パターンくらい予想がつくのではないかと香里は読んだのだが……。
「ごめん、全然分からないよ」
名雪の返答は、皆目見当つかず、だった。
しかしながら、もう大会開始から6時間半が経ってるというのに、二人の足取りはまるで分かっていない。
このまま思いつくところを探しても、徒労に終わる可能性が高いだろう。
「なんでもいいわ。相沢君とあゆさん、二人のやりそうなことを教えて」
「うーん。これだけは確実だと思うんだけど……」
「何かしら?」
「祐一とあゆちゃんは、一緒にいると思うよ」
「やっぱり?」
「うん。バラバラに隠れてるなら、祐一は分からないけど、あゆちゃんは見つかってると思うんだよね」
さりげに、何か酷いことを言ってるような気がするが、香里は特に反論せず頷く。
数度栞と遊びに家にやって来たあゆの性格、そして祐一のここ最近の暴走ぶりから容易に想像できたからだ。
しかし、容易に想像できるような予想を言われてもあまり役に立たない。
それに、今の情報は場所の特定にも役立たないだろう。
と、思った矢先、名雪が更に言葉を続けた。
「あ、それと……多分、ふたりともぴったりくっついてると思うよ」
「……は?」
なんだその具体的なシチュエーションは。
香里の額に、嫌な汗が浮かぶ。
顔を赤く染めてる名雪なんか、不安を余計にかき立てるではないか。
「え、えっとね…その……あゆちゃん、こないだアレが終わったばかりで、安全日なの。朝にそう教えてあげたら、祐一凄く喜んでて……」
「な、何で名雪がそんなこと相沢君に教えるのよ!?」
女同士ならまだしも、何で他人の彼氏にアレ(生理)の日程や安全日を教えるのか?
香里には、状況がまるで理解できなかった。
というか、自分がそんなことされたら、教えた相手を張り倒すかもしれない。
「え? だって、わたしがあゆちゃんの安全日を計算してあげてるから」
「はいっ!?」
想像の斜め上をいく名雪の発言に、香里はひっくり返りそうになった。
「ちょっと、待ちなさい。あなた達、いったい家でどういう関係なのよ!?」
「ど、どうって。ほら、あゆちゃんって、本当は小学生くらいでしょ。そういうことに詳しくないから、わたしが……ほら、万一の間違いがあったら大変だし」
「だからって、なんであなたがそんなの管理してるのよ!? 相沢君にやらせなさいよ!」
何を考えてるのだ、このあんぽんたん娘は。
いくら相手が精神的に幼いからといって、またいくら心配だからといって、どこの世界に同い年の下事情を管理する生娘がいるものか。
顔を赤くしてるあたり羞恥は感じてるようだが、もっと恥じてくれと香里は頭痛を覚える。
「だ、だって、祐一が泣いて頼むんだもん」
「……は?」
頭を押さえていた香里に、名雪があたふたととんでもないことを口走る。
何か、話の雲行きが怪しくなってきたのを感じつつも、香里はその先を尋ねずにはいられなかった。
「ちょっと待って。それ、どういうこと?」
「だって、あゆちゃんだって女の子なんだよ。アレのことを毎月祐一に報告するなんて恥ずかしいに決まってるよ」
「で……。だから名雪が管理してくれ、って頼まれたわけ?」
「う、うん」
オチは読めた。
香里は底なしの頭痛を感じる。
いったい、あの男は何を考えてるのか。
天然? そんなわけない。分かっててやってるのだろう。
「やっぱり、ヘンかな……?」
おずおずと今更なことを尋ねる名雪に、香里は叫んだ。
「馬鹿にされてるのよ、あなた!」
きゅっと目を閉じて萎縮する名雪に、怒りがむらむらと湧いてきた。
いや、名雪にではない。
とんだセクハラを親友に行った、不届き千万な色ボケ大王に対してだ。
「あんのアホ沢、何考えてるのよ! 誰か、他の人たちに伝えて。最後の二人は、どこかで一緒に移動せず隠れてる可能性が高いって」
「はいっ」
名雪の話が本当なら、今もどこかでメイクラブ中だろう。
親友に働いたセクハラといい、神聖な学び舎でやっている行為といい、何を考えてるのだあの男は。
何より、人が真面目にかくれんぼ大会に臨んでいるのに、馬鹿にしているのかと。
伝令を飛ばすと、香里は名雪をほっぽりだして走り出した。
「もうかけるだけの恥はかき尽くしたわ! 絶対勝ってやるんだから!」
……この人、第二の久瀬になったりしないよね?
雄叫びを上げて走っていく香里とすれ違った生徒たちは、彼女から立ち上るドス黒いオーラに一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
さて、肝心の名雪はというと……。
「わたし、ねむい……」
香里をすぐさま追いかけると思いきや、目をごしごしこすりながら廊下でふらふらしていた。
さすがに朝からずっと張り詰めていたのが祟ったのか、ここに来て睡魔が襲ってきたようだ。
……本当は香里の相手に疲れたのかもしれないが。
「部長、大丈夫ですか? 保健室行きます?」
陸上部の後輩が支えるも、名雪は目を半分閉じてかなり眠そうだ。
それでも、必死に目を開けて、首を横に振る。
「もう少しだからがんばるよ。でも、ちょっと休んでていいかな?」
「あ、はい」
「ありがとう。香里のこと、手伝ってあげて」
「はい部長、行ってきます。お疲れ様でした」
香里を追っていく後輩に、右手をちょこんと上げて応えながら名雪は廊下の壁にもたれる。
疲れたのもあるが、いくら寝ても眠い理由はそれだけではない。
いつか彼女は気付くのだろうか?
いや、もう気付き始めているのかも知れない。
「見つけられたら、結果は違ってたのかな……」
寂しそうに独り言を呟いた名雪だが、すぐにその考えを打ち消してくすっと笑う。
そんなことはない。
いつだって、祐一はあゆを見つけに行く。だから、あゆの傍にはいつも祐一がいる。
ふたりはそういう縁。
「やっぱり、あのふたりの間に入るなんて無理だよね」
降りしきる雨を見上げながら目を拭った名雪は、だけどどこか嬉しそうだった。
この雨だっていつかは止む。
明日は明日の風が吹くだろう。
そう遠くない未来で。
同時刻、某所。
「ありがとう、山田君! 30分前コールに感謝する!」
あさっての方向に感謝しながら、祐一はあゆを弄くり回す手の動きを加速させる。
あゆはというと、目をとろんとさせ、ぐったりと祐一に体を預けていた。
眠いのではない。
体中火照ってぼーっとしているのである。
「ううん……やっぱり、ここはよくないよぉ……」
そう言って、体をまさぐりまわす祐一の片手を右手で邪魔しようとするあゆだが、一方で左手を祐一の首筋に這わせている。
というか、声がやたらに色っぽい。
もはや発登校日云々と拒絶する気はゼロである。
そんなあゆの様子に祐一は「ふぉぉぉぉぉーっ!」と叫びながら、周りに人がいれば顔をしかめるであろう発言をかっとばす。
「さあ、パーティーもフィナーレよ。覚悟はいいかしらん?」
ただのオネエ言葉ではない。これ、もちろん裏声。
キモいなんてどころの話ではないが、それを突っ込む人間はどこにもいない。
唯一、それが出来る場所にいるあゆは、とろりとろりと夢心地。
普通、一人ではしゃいでも悲しくなるところだが、テンション向上で周りが見えなくなってる祐一には全然問題ないようだ。
「溢れる愛は流線型〜、突撃ラブハート!」
挙句の果てには、何か意味不明な歌まで歌い始める始末である。
どうしてこれで6時間30分以上も捕まらないのか?
フィニッシュ目指して、ただひたすらに大人の階段を駆け上る二人だった。
15時45分(大会終了まで、残り15分)、2階廊下。
壁にもたれてうとうと半分舟を漕いでいた名雪は、袖をつつかれて目を開けた。
「おーい、水瀬。寝るなら保健室に行った方がいいぞ」
「あっ、北川君」
そばに立っていたのは、1時間ほど前に死闘の末捕まった北川だった。
暇を持て余して、他の捕まった隠れ役同様に体育館から出てきたのだろうか?
目をごしごしとこすり、小さくあくびをしながら名雪は壁から背を離す。
「だいじょうぶ。あと少しだから、がんばるよ」
と、そこまで言って、名雪は北川の様子がおかしいことに気付いた。
いや、どこぞの誰かさんのように発情してるとかそういう意味ではなく、服装が。
体育館に護送されてから着替えたのか、野戦服ではなくいつもの制服に戻っている。
顔のペイントも既に落としていた。
それはいいのだが、何ゆえ制服があちこち汚れているのか。
「……どうしたの? その服」
どう見ても上靴の跡とかが見える汚れに、名雪は怪訝な顔をして尋ねた。
対する北川は、名雪の視線に気付いて、やれやれとばかりに両手を広げる。
「いやさ、着替えて装備品の後片付けしてたら、栞ちゃんがクラスメートつれてやってきてさ……」
「まさか、栞ちゃんに?」
「んー、いったい何がなんだかよく分からないんだが、栞ちゃんが『あの人が北川さんです』ってオレを指差したかと思ったら、『焼肉の敵!』とか『お前のせいで焼肉が!』なんて言われて、殴る蹴るの暴行を問答無用とばかりに数分……」
どうやら、一人勝ちしたらクラスメート全員を誘って賞金で焼肉パーティーでもするつもりだったらしい。
ところが北川が粉なんか撒いたものだから、栞の正体がバレ、そのプランはご破算になってしまった。
で、その逆恨みで北川は殴る蹴るの暴行を受けた、とそういうことらしい。
恐るべきかな、食い物の恨み。
だいたいそんな想像がついた名雪だったが、全力で考えなかったことにする。
だって、北川が根本原因なら、次の原因は自分にあるわけで、とばっちりを受けたらたまらない。
「オレ、あんなに恨まれるほど悪いことしたか?」
「さ、さあ、わたしには分からないよ」
視線を逸らしながらびくびくしてる名雪に、これは何か知ってるなと思いつつも、北川はそれ以上の追及をしない。
というか、栞が実は鬼じゃなかったことは放送で知ってたし、それでだいたい栞がとった作戦も想像がついた。
で、名雪がこういう反応をしてるということは、自分のやったことの何かが発覚の原因となったのだろう。
そこに名雪も一枚噛んでる、といったところか。
何だろね、と思いつつも、人をいたぶる趣味はないので、北川は気にしないことにした。
それに、リンチと言っても、悪ふざけのレベルだ。本気で殴る蹴るの暴行を加えられたわけではない。
「まあ、何にしても栞ちゃん楽しそうで良かったよ」
「……え?」
こんなにボロボロにされたのに、良かったとはどういうことか?
北川の真意が分からず、名雪はぽかんとする。
「栞ちゃんさ、あれで一年留年してるだろ。クラスメートと上手く馴染めなかったらしいんだわ。多分、クラスメートも一年上って思うと接し方が分からなかったんだと思う」
「あ、それわたしも聞いたことあるよ」
「けど、今日の活躍でちょっとしたヒーローになって、クラスの連中と楽しそうにはしゃいでたよ」
「そうだったんだ。うん、よかったね」
「まあ、この仕打ちだけは納得いかないけどな」
不服そうに、北川が制服の皺や汚れに目をやる。
そして、今頃体育館でくしゃみしてるであろうプチデビルの姿を想像して、どちらともなく笑いあった。
「ところで、姉の美坂さんはどうしたんだ? 一緒だと思ったんだが」
話題を変え、北川があたりをきょろきょろ見回す。
今日ずっと名雪と行動を共にしていたはずの少女の姿は、どこにも見当たらない。
「えっと、香里は……怒って祐一を探してる?」
「……なんで質問してるオレに質問で返すんだ」
「だって、その……」
北川と栞が原因でヤケクソになってる、なんて名雪にはとても言えない。
香里の名誉にかかわるし、目の前の人物に『あなたのせいです』とか、そんなことを堂々と言えるほど名雪の心臓はぶ厚くない。
なんて、名雪が発言を躊躇してると、ドスドスドスと怪獣の侵攻でも始まったかのような足音が響き始めた。
振り返り、北川は背中に冷たいものを感じた。
真っ黒である。黒い怒りの炎を宿した香里が、アンギャーとか吠えそうな勢いで廊下を歩いている。
「……なるほど、だいたい状況は分かった」
この様子を見てどういう状況か分からなければ、よっぽどの鈍感か無神経である。
香里が荒れているのは、北川の目にも明らかだった。
ついでに言うと、自分がその原因の一端を担ってるであろうことも。
「名雪、相沢君見た!?」
進路上に名雪がいるのに気付いて、香里が足を止める。
その顔は、怒りの中に焦りが見え始めていた。
「う、ううん。見てないよ、わたしここにずっといたから」
「くっ! いったい、どこに隠れてるのよ。天井裏とか、マンホールまで開けて調べてるのに」
「……たぶん、そんなとこにはいないと思うよ。あゆちゃん、暗いところダメだから」
「それを早く言いなさい!」
のんびりコメントする名雪を、イライラに任せてガクガクと揺する。
が、すぐに解放して腕を組みながら頭を押さえる。
「もう10分しかないってのに、いったいどこに隠れたのよ!?」
まるで親の仇でも追うかのような、恨み骨髄ぶりである。
平和とおよそ程遠い香里の様子に、名雪も北川もただ顔を顔を見合わせるばかり。
とりあえず、まあまあとばかりに北川は話しかけてみることにした。
「荒れてるなー、美坂」
「誰のせいよ!」
「いや、悪かった悪かったって。謝るから、その手を降ろせ、な?」
「そ、そうね。そうだわ。今怒るべきは北川君じゃない。相沢君よ」
北川や栞はともかく、直接何もしてないはずの祐一がなんでこんなに恨まれてるのか?
いまいち理解できずに、北川は名雪の方を見るも、名雪は首を横に振るばかり。
なんで祐一が恨まれてるのか、名雪にもさっぱりのようだ。
「なんでそんなに怒ってるんだ? 相沢、お前に何もしてないだろ?」
「理由は大有りよ!」
かっと目を見開いて一喝すると、香里は北川の胸倉を掴む。
予想外の行動に北川は焦るが、激怒しているのかと思った香里は、実は泣いていたのである。
「あたしが、血の滲むような思いをしながらこの大会に臨んで、全てを失ったっていうのに、あいつはあゆさんとずっといちゃいちゃしてかもしれないのよ! これが許せる!?」
うわあ、とんでもない逆恨み。
北川と名雪は一様に言葉を失うが、本日彼女が受けた仕打ちの数々を思えば、こうなるのも仕方ないかもしれない。
それに、北川も少し同意できるところはあった。一応北川も、香里が何の反応も示さなかったら、最後まで生き残るつもりだったのである。
「まあ、確かになー。あんな乳繰り合ってる奴らに優勝されるかと思うと、部隊動員してまで必死に戦ったのが馬鹿らしくてムカつくな」
かくれんぼそっちのけで、7時間別のことに没頭してた人間がかくれんぼ大会優勝なんて許せるだろうか?
昨夜はお楽しみでしたね、なんて笑い飛ばせるものだろうか?
「乳繰りって、あの二人に会ったの?」
「ああ。まあ会ったのは偶然だったが、お楽しみ中だったぞ」
「そう……。本当にいちゃいちゃしてたわけね。思い違いだったら謝ろうと思ったけど……」
ムリ。今の祐一とあゆの状況を知ったら、真面目に大会を戦ってた人は、まず怒る。
ましてや、そんなのが優勝なんて認められるわけがない。
ちったあ大会にも汗を流せ、バカヤロウ。
「あんのアホ沢、死刑よ死刑!」
北川から手を離し、校舎に向かって吠える香里の怒号は、そんな感情を非常にストレートに表わしていた。
怒りをぶちまけ、二三深呼吸をしたあと、香里は北川に向き直った。
「北川君。あの二人の居場所、知ってるのね?」
「ああ、一応」
「教えて」
なんともストレートな要求。
しかし、これは別に卑怯でもなんでもない。
捕まった隠れ役を鬼が手駒として使うことは、ルール上何の問題もない。
もちろん、情報を聞き出すのだって自由。
既に捕まった隠れ役の中には、隠れ役からの情報提供で捕まった者も何人かいる。
「んー……」
しかし、頼まれた北川は、香里から目を逸らし頭をかく。
明らかに教えることを渋っている態度だ。
「正直、あれで優勝されるのはオレもどこかムカつくんだが、一応仲間だしなあ」
戦友を売るなど、恥ずべき行為だと北川は思っている。
それが仲間なら言わずもがな。
しかし、真面目に戦わない仲間に腹が立つのも事実。
「あら? あたしは仲間じゃなかったの?」
それに、仲間という意味では香里だって仲間である。
というか、あんなことしてまでそれを確認しておいて仲間ではありませんとか言ったら、殺されても文句は言えない。
「うーむ、それはそうなんだが」
分かってはいるのだが、やはり密告というのはどうも抵抗がある。
後ろめたさに北川が悩んでいると、思わぬ助け舟が横から入った。
「ね、ヒントならダメ?」
じーっと二人のやり取りを見ていた名雪である。
本人がどこまで考えた上で言ったのか分からないが、その言葉に北川の顔がぱっと明るくなる。
そうだ、ヒントなら問題ない。
両方に義理立て出来るし、ふざけた仲間へのちょっとした嫌がらせにも適度だろう。
「ナイス。それだ水瀬」
親指を立てて、名雪のアイデアに北川が笑顔で応える。
義理とか義侠心とか、正義感とか色々ある。
しかしまあ、何より大きいのは……。
「このまま時間切れってのもつまらないからな。大会最高の10分間にしてやるぜ」
そう言ってニヤリと笑うと、北川は少し上を見ながら考え始めた。
公平なヒントは何か、脳をフル回転させてそれを考える。
香里と名雪は、その様子をごくりと息を飲みながら見守る。
10秒後、何かを閃いたのか北川が二人に視線を戻した。
「相沢と相沢の彼女が隠れてる場所のヒントは……」
右を見る。右か?
左を見る。いや、左なのか?
下を見る。それともここより下?
上を見る。やっぱり上?
軽い前フリを済ませて、いよいよ本番。
おもむろに開かれた北川の口から、その言葉が告げられる。
「全ての始まりにして終わりなるもの」
その言葉を聞いた香里と名雪の二人は、ぽかんと口を開けた。
なんとも重々しい響きの言葉である。
いったい、何を意味するものなのか、すぐには見当もつかない。
まあ、ヒントなのだ。すぐに分かってしまっては意味がない。
我ながら、いい暗号を出したものだと北川は満足気である。
「ヒントは以上だ。これ以上は言えない。がんばって当ててくれ」
ふぅ、と廊下の壁にもたれて伸びをする北川。
ちょっと難しすぎたかなあ、なんて考えながら。
しかし、すぐさま北川は見通しが甘かったことを悟ることになる。
香里が発した一言によって。
「……全ての始まりにして、終わりなるもの?」
ただ復唱しただけの言葉だが、そこには何かの確信めいた響きが宿っていた。
間違いない、香里はそこに込められた意味に早くも気付きだした。
北川の表情が強張る。
「分かる? 香里?」
「ちょっと待って。たぶん、これこの大会のことだと思うのよ。全て……つまりこの大会ね。その始まりでもあり、終わりでもあるもの……何かない?」
もうすぐそこまで答えは出かかっている。
「うーん……」
名雪は首をかしげるばかりで、まだ何のビジョンも見えていないようだ。
香里はすぐさま暗号の解釈第二段を繰り出す。
「大会の始まりの象徴でもあって、終わりの象徴でもあるもの、そんな何かよ」
「うーん……あっ。そういえば、あれって大会が終わったら……」
更に首を傾斜させた名雪だったが、傾斜が60度に達したところでぴたりと止まる。
あった、確かにあった。北川のヒントが意味するものが。
「まさか……」
名雪の独り言を足がかりに、香里も最終的な結論へと到達する。
顔を見合わせ、二人は同時に叫んだ。
「てるてる坊主!」
あちゃー、と北川が顔をしかめる。
そう、答えは『黄昏首吊り男』ことてるてる坊主だった。
大会のきっかけを作り、大会終了後には撤去される今大会のマスコット。
まさしく、『全ての始まりにして終わりなるもの』を意味する物である。
答えに辿り着くや否や、再び香里は走り出した。
「やべ、こんなに早く解かれるなんてとんだ誤算だ」
同時に北川も香里を追って走り出す。
ただし、何故か二人とも1階に向かって。
一人、上に向かおうとした名雪は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をで、あたりをきょろきょろと見まわす。
「あ、あれ? なんで二人とも下なの?」
てるてる坊主が吊るされてるのは上の階のはず。
どうして1階に向かうのか?
なんだかよく分からないけど、人間心理の常として、結局名雪も1階へと走ったのだった。
名雪が1階に下りると、昇降口から雨の振る外へと向かう北川の姿が見えた。
香里の姿は……そのはるか先にある。
何がなんだか分からないが、名雪も二人に倣って外に飛び出した。
「北川君!」
「おう、水瀬。どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃないよ。なんで二人とも外に出るの? てるてる坊主は上にあるのに」
傘を差し、校庭に出たところで名雪は北川に追いついた。
名雪の疑問は当然である。
てるてる坊主が吊り下がっているのは、3階ベランダ。
だったら、向かうのは3階のはずだ。
どうして外に出る必要があろうか?
「それが最大の盲点だったんだよ。見ろ、あのてるてる坊主の位置!」
北川は、てるてる坊主とその周りを指差してみせる。
周りには、突き出た柱と窓があるだけだ。
「何もないと思うよ?」
「よく見ろ! あのてるてる坊主、外からは丸見えでも、柱と窓の間に挟まれてて中からはほとんど死角になってる……つまり、見えないんだ」
「ああっ!」
名雪もようやくその意味に気付いた。
よくよく考えると、『3階ベランダにある』という認識も、外に出ててるてる坊主を目にしてから出来たものだ。
それまでは漠然と上の階にあるとしか思っていなくて、位置さえあやふや。
それこそ、まるで見えてない状況だった。
中庭にあるてるてる坊主の下へと走りながら、北川は更に説明を続ける。
もう名雪が分かってるかどうかなんて関係なしだ。
とにかく、まずい状況だ。
香里の姿は既に校庭にはない。てるてる坊主の位置を確認して、中庭の校舎出入り口に抜けたのだろう。
「あのてるてる坊主はオレらの吊るしたものだけど、隠れるために吊るしたものじゃないし、3階のベランダに乗っかる形で止まったのも偶然だ。ついでに言うなら大会のマスコット。ある意味一番目立ってるものだし、外からは丸見え。そんなもんに隠れるわけがないって誰もがそう思う」
しかし、それだけではまだ足りない。
多くの人間に、決定的な判断ミスをさせる心理効果がもう一つあるのだ。
「それと、校舎の外についてるものなんて、中にいるとき何組の教室の外にあるなんて判断つくか?」
北川の問いかけに、名雪はふるふると首を横に振る。
そうなのだ。校舎の外からどこに何の教室があるのかを当てることは、意外に空間把握的な思考手順を要する。
たかがかくれんぼで、そんな面倒な計算をするだろうか?
答えはノーだ。
多くの人間が持つ、そのわずかな思考の不精が、てるてる坊主への距離をますます遠いものにする。
物理的、心理的に二重三重の落とし穴を張り巡らしたところに、あのてるてる坊主は存在していたのだ。
祐一がそれを考えた上で隠れ場所にしたのか、偶然思いついただけなのかは分からないが、とにかく恐るべき発想である。
下が凄いことになっているとは露知らず、祐一は絶頂を迎えていた。
「待った。待っていたぞこの時を! この5分にせいしをかける!」
よくまあ7時間もこんなノリでハッスルしてられるものである。
相方のあゆは、もう無口になってとろんとしているのに。
というか、7時間も女性をじらすなんて、相当の暇人だ。
「さあ、えぐるようにフィニーー……」
「相沢、よく聞けぇっ!」
腰を振りながら、フィニーッシュとか叫ぼうとした祐一の耳に、それを上回る大音声が飛び込んできた。
聞き間違えるはずもない、北川ボイスである。
最高にいいところで邪魔をされたせいか、不機嫌MAXなご様子で祐一はてるてる坊主の裾を持ち上げる。
眼下には、祐一達を見上げる北川と名雪の姿があった。
外気に触れて我に返ったのか、隣でいそいそパンツを履いているあゆの姿に、名雪はちょっと顔をしかめる。
「相沢、よく聞け! そこ、美坂にバレた! もうすぐ着くはずだ!」
「何ぃ!? 何でここが……」
この男、どうしてそういう時は鋭いのか。
言葉を途中で止めたかと思うと、ブチッと何かが切れる音が下の二人にも聞こえた。
「お前か北川! お前がチクりやがったな!」
「ああ! そうだよ、オレがヒント出した!」
「ぶっ殺されたいのか貴様! よくも裏切ったな!」
さっき人をそのベランダから蹴り落とそうとしておいて、よくそんなことが言えるな。
と思わないでもない北川だったが、余計な口喧嘩をしている間などない。
素直に謝ることにした。
「悪かったよ! 悪かったって思ってるから、こうして教えてやったんじゃないか!」
「そうだよ祐一! 隠れてる場所を言っちゃいけないなんてルールはないんだよ! だいたい、学校でそんなことしていいと思ってるの!?」
名雪のもっともな加勢に、さしもの祐一も閉口する。
実際後半の、『学校でそんなこと』を完遂していれば、迷惑行為禁止に引っかかり失格どころか下手をすれば停学である。
和姦だから関係ないとかそういう問題ではなく、みだりに風紀を乱していることが問題。
乳繰り合いまでなら、なんとか大目にも見てもらえようが、世の中には限度というものがある。
「くそっ、分かったよ! 止めてくれてありがとさん!」
機嫌はまったく直っちゃいないが、自分がかなり温情をかけてもらってることくらいは理解できたらしい。
祐一は、少ししゅんとした様子で引き下がった。
「相沢、謝罪ついでに聞け! まだ勝つ望みはある!」
「何だって?」
「例えばこれだ、これ! あとは自分で考えろ! お前なら分かるはずだ!」
時間がないのか、随分慌てた様子で地上の北川が謎の動作を行う。
両腕の握りこぶしをぐっと突き上げ、バンザイの体勢で腕をぷるぷると震わせているようだ。
上のあゆ、下の名雪は何のことか分からず首を傾げるばかり。
しかし、祐一は何かを悟ったようだ。
「あゆ」
「な、何? 祐一君?」
すぐさま、あゆの方へと目をやり、乱暴な口調であゆに問いかけた。
時間がない。敵は、もうすぐそこまで迫っている。
「答えろ。勝ちたいか?」
「えっ? えっと、うーん……」
「早く答えろ! 時間がない!」
「う、うぐっ。か、勝てるなら勝ちたいよ。せっかくここまで来たんだし」
「よし、じゃあ今から俺の言うとおりにしろ」
強引にあゆを引き寄せ、口早にあることを伝える。
それを聞いたあゆは、目を丸くして首を振った。
「む、無理だよっ! そんなの!」
出来るわけない。
だいたい、こんな高いところにいるだけでも震えてるのに、そんなこと出来るわけあろうか?
「勝ちたいならやってみせろ。堪え切ればお前の勝ちだ」
「だ、だけど、そんなこと……ボクの手の力じゃそんなにもたないよ」
だって、ボクは7年間寝たきりで起きたばっかりなのに、と言外にそんな含みをもたせる。
だが祐一は、怯えで震えるあゆの肩をぐっと掴み、顔をじっと見つめながら言った。
「大丈夫だ。お前なら出来る」
「……でも」
そのいつになく真剣な表情に、あゆは祐一がふざけて言ってるのではないと分かってる。
自分の前で祐一がこんなに真面目な顔をすることなんて、ほとんどない。
だけど、それでも祐一の言うことは信じられなかった。
いや、そんな勇気を持てなかった。
「いいか、あゆ。お前が今ここに立ってること、それはとんでもない奇跡なんだ。7年も寝ていた奴が、数ヶ月そこらで歩けるようになると思うか?」
「だ、だって、ボクがんばったもん。祐一君に早く会いたくて」
「ああ、そうだ。あゆはがんばった。だったら、今度もがんばれるだろ?」
「……でも」
「いいか、お前には何かの神様がついてるんだ。そいつを信じろ。それでも信じられないなら……」
「えっ? わわっ!?」
突然の額への接吻に、あゆが目をぱちぱちさせる。
「俺を信じろ」
目の前の祐一の顔には、いたずらっぽい、だけどどこか頼もしげが笑みが浮かんでいた。
あゆは、なんだか胸の中がドキドキと熱くなるのを感じた。
こんな高くて丸見えな場所でキスされたのが恥ずかしいとか、そういう感情ではない。
胸の奥底から沸きあがってくる何か。
ドキドキに身を任せたい。今日はかくれんぼ大会。
人にそう思わせる何かがそこにはあるのだ。
昔は誰だって持っていた、冒険したいという気持ちかもしれない。
だから、あゆは力強く頷いた。
その手で掴み取るという決意を示すために。
そして……信じてるよ、と。
あゆの意思は確認した。あとは、それに応えるのみ。
わずかな躊躇も失敗も許されない、そんな張り詰めた表情で、祐一は教室の中へ戻るため、窓に手をかけた。
とんでもないことだって分かってるはずなのに、失敗する気がしない。
失敗するイメージが浮かばないのだ。
ただひたすらに駆け抜けた、そんな頃の純粋な気持ちを、祐一は胸の鼓動に感じていた。
大人になるのは、それらを失っていくことだなんてまっぴらごめんだ。
もう抑えられない。これは大人になる前の、大人になるための最後の冒険。
失うんじゃない。今度は、掴み取るのだ。新しい何かを。
振り返った祐一は、最後の理性で眼下に向かって叫んだ。
「北川! てめえ、あゆに何かあったら分かってるんだろうな!?」
「へーいへい、分かってますよ!」
「すり潰すとか! ねじ切るとか! そんなもんじゃ済まさないからな、いいな! 何かあったら、死ぬ気で助けろ!」
「分かった分かった! まったく、彼女に花持たせようなんて、ニクいねえ!」
「お前、ぶっ殺されたいのか!」
「そんなことより、時間ないぞー!」
ちっ、と意図を見透かされたことに照れながら、祐一は舌打ちをする。
北川の言う通り、あゆに授けたのは、あゆを勝たせるための方法だ。
役割を交換すれば、祐一が勝つのは容易だし、むしろそっちの方が確実と言える。
それでも、祐一は勝たせてやりたかったのだ。
記憶に残る初登校にしてやりたかった。
それくらい、祐一はあゆのことが大好きで、思い出を大事にしたいと思っている。
「祐一ーっ!」
窓をまたぐ祐一の背に、声がかかる。
軽く振り返ると、傘を差した名雪が空いてる手をぶんぶんと振っていた。
そして、祐一が振り向くのを見ると、ぐっと胸の前に小さな握りこぶしを作って見せる。
「ふぁいとっ!」
「おぅ!」
右手を大きく突き上げながら、祐一はするりと教室へ飛び込んでいった。
3階、2年D組教室。
ばたーん、と扉を叩きつけながら乱入してきたのは香里と、何人かの鬼達だった。
来る途中、逃走防止に最低限の人数を回収しながらやって来たものだから、想像以上に時間を食ってしまった。
残り時間はあと3分あるかないか。
「てるてる坊主は?」
「あそこです。あの柱の隣の窓に」
しかし、途中で2年D組の生徒を拾えたのは幸運だった。
てるてる坊主が2年D組にあるのがすぐに分かったし、こうして、その位置もすぐに分かった。
窓を開き、問題のてるてる坊主を発見する。
さあ、観念なさい、とばかりに香里はその元カーテンの布を引っぺがした。
だが、そこには何もなかった。
「いない!?」
いや、カーテンが熱を持っているので、ついさっきまでいたのは確かだ。
というか、眼下の中庭にいる北川と名雪の存在で、何があったのかすぐに分かった。
自分達がここに来る前に、フェアじゃないと思った北川あたりが接近を知らせたのだろう。
さすがに香里も、こればかりは咎めるわけにいかない。
というか、北川に怒鳴り散らしてるような時間もなかった。
「美坂さん、どうします!?」
「ついさっきまでここにいた。まだ遠くには行ってないわ。この近くを探し……」
探して、と言おうとした香里の言葉が、突如後方より鳴り響いた甲高い金属音によって阻まれる。
教室にいた全員の目が、その方向に向けられた。
「よう。探してるのは、俺か?」
そこにいたのは、掃除道具入れのロッカーから姿を現した祐一だった。
びっくりしたのは一瞬だけ。飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのこと。
「相沢君、見つけた!」
有無を言わせず、香里は祐一にタッチした。
その周りを鬼が取り囲む。
これで、祐一はジ・エンド。
しかし、まだ終わりではない。
一緒にいるはずの相方の姿がないのだ。
あゆを捕まえるまでは、まだ終わりではない。
「あゆさんはどこ!?」
きっ、と祐一にきつい視線を投げつける香里。
あと時間は何分だ?
焦りが祐一へ手を伸ばさせる。
体を揺すって吐かせるためだ。動揺を誘って、その反応から位置を予想するという効果も望める。
しかし、そんな香里の手は、何もない中空へとするりと抜けた。
「へっ?」
間抜けな声を出して、香里は危うく前のめりに倒れかける。
祐一が、伸ばした手をかわしたのだ。
「悪いな、香里」
なにやら祐一の様子がおかしい。
香里や鬼達の背に、冷たく嫌な汗が伝う。
何だ? 何をやらかすつもりだ、この男?
目つきが尋常ではない。捕まった者が見せる悔しさとかそういう類の目ではなくて、むしろこれは恐れを知らぬ野獣のような目?
ぎらぎらと威圧的な眼光が、取り囲む生徒たちを一歩下がらせる。
その一瞬の隙を、祐一は見逃さなかった。
「お前らと遊んでる暇はない。どけっ!」
「な、ななっ!?」
祐一は、あろうことかとんでもない行動に出た。
取り囲んでいた鬼の一角に、ぶちかましをかけたのだ。
怯んでいたところにこれを食ったものだから、鬼達はたまったものじゃない。
包囲網の一角が、あっさりとぶっ飛ばされた。
「ちょっと待ちなさい! あなた、どういうつもりよ!?」
今の行動は、明らかな反則。
それも、一番論外の暴力行為にも抵触するではないか。
しかし、祐一は香里の抗議を無視して教室の外へと逃走。
この重大な反則に、香里をはじめとした鬼達の、焦りで上っていた血が、一気に沸点に達する。
「このクソボケが!」
「ヴィッチ!」
「ふざけんじゃねえぞ、この野郎!」
「貴様!」
およそかくれんぼとは思えない物騒な単語を口々に、鬼達は祐一の後を追い始めた。
とんでもないのになると、掃除道具入れから飛び出したホウキを持ち出す始末である。
逃げる、逃げる。とにかく逃げる。
廊下を全力疾走する男に、それを追いかける集団。
しかも、追いかける集団は思いつく限りの罵詈雑言を逃げる男に浴びせかけている。
廊下でうろうろしていた鬼達、元隠れ役達も、追いかけられているのが最後の生き残りであることをすぐに察した。
「待て!」
「止まれ!」
祐一の前に、二人の大柄な男子生徒が通せんぼをする。
先ほどの奇策でも、祐一の体格ではこの二人は突破できない。
だが、祐一は二人の間にわずかな隙間があるのを瞬時に看破すると、頭からそこに突っ込んだ。
「でやぁっ!」
勢いを殺さず、二人の隙間を通過し、一回転して着地。
そして、そのまま止まることなく走り続ける。その間、わずかに1秒。
「ジュードーか!?」
大柄な男子生徒の一人が、よもやの突破に面食らいながら驚きを口にする。
そう、祐一が使ったのは、柔道で言うところの前方回転受身。
『芸は身を助ける』とは言うが、まさか祐一もこの場で柔道経験が役に立つとは思いもしなかっただろう。
その後も立ちはだかる鬼・元隠れ役を、体当たりや前方回転受身で跳ね飛ばし、またはやり過ごし、階段の手すりを一気に滑り降りて祐一は1階に抜けた。
後ろは振り返らない。
振り返れるわけがない。
途中で跳ね飛ばしたり、やり過ごしたりした面々も、最初に追いかけ始めた香里達の一団に次々と加わったから、もう凄い数が祐一の後ろにくっついていた。
しかも、祐一の往生際の悪い行動を知っているだけに、全員が殺気立っている。
「待ちなさい、この卑怯者!」
先頭を走る香里に至っては、鬼の形相である。
「のけえええええっ!」
だが、祐一はそれ以上に必死だった。
「今捕まるわけには、いかないんだよ!」
香里の罵りに、そう叫びながら、飛びかかってきた生徒を強引に投げ捨てる。
止まる気配は、一向にない。
何故?
もう、タッチして名前も呼んでるのだ。
すでに祐一の負けは決定している。
このまま時間外まで逃げて、護送されなければ捕まってないと誤魔化しきれると思っているのか?
いくら祐一でも、そこまで馬鹿なことは思っていまい。
じゃあ、何故こんな馬鹿な真似をしている?
香里や、最初包囲していた鬼達は祐一の行動が理解できない。
「邪魔だ!」
祐一は中庭に続く鉄扉を半ば体当たりでぶっ飛ばすように開け、傘も差さずに外へと飛び出していく。
追う鬼達が外に飛び出した時、そこには衝撃の光景が広がっていた。
その光景が飛び込んできたとき、香里達は絶句した。
「なん、ですって!?」
祐一が一直線に走っていく方向、その先にあるものにだ。
なんと、いないと思われていた相方のあゆはそこにいたのである。
文字通り、てるてる坊主のすぐそこに。
あゆは両の手を伸ばし、必死にベランダからぶら下がっていたのである。
ここに来て、ようやく鬼達は祐一の狙いに気付いた。
反則の脱走は、狂言芝居。
鬼の目を自分に集めさせ、あゆから目を離させるためのものだったのだ。
実際、もう少しベランダをじっくり観察していれば、てるてる坊主の足元にぶら下がっている、あゆの指を見つけることが出来たはずだ。
しかし、悔しいとかそんな感情は後回しだ。
追ってきた鬼・元隠れ役達、野次馬で集まってきた鬼・元隠れ役達、皆が足を止めて息を飲む。
ベランダにぶら下がっている少女は、あまりに小さい。
いくら、下がぬかるみとはいえ、3階ベランダという高度が与える恐怖感は見るものに冷たい汗を流させる。
危ない。あんなところから落ちたら、事だ。
だが、追跡者達が足を止めた理由は他にもある。
その少女の下へ、一直線に駆けていく一人の少年。
その姿が、ある種の期待を見るものに与える。
『まさか、あれをやるというのか?』
普通に生活していれば、生でお目にかかることは一生ないかもしれない。
そんな、映画でしかないようなことを、この場でやるというのか?
そう思うと、見とれずにはいられなかった。
期待せずにはいられなかった。
「う、う、う、もう……ダメ……」
ぶら下がるあゆの片手が落ちた。
下に控える北川が、『もう無理か!?』と身構える。
だが、そこに猛スピードで駆け寄る少年が叫んだ。
「退けっ、北川!」
振り返った北川は、接近する祐一の凄まじい気迫に、目を丸くして横に飛びのいた。同様に名雪も。
その瞬間、あゆを支えるもう一本の手が切れる。
ぐらりと仰向けに落下を開始するあゆ。
「ああっ!?」
あちこちから、悲鳴のような叫び声が上がる。
最悪中の最悪。俗に言う、まっ逆さまという落ち方だ。
このまま地面に叩きつけられれば、命にも危険が及びかねない。
北川は飛びのいてしまった。名雪も北川につられて飛びのいてしまっている。
間に合う可能性があるとすれば祐一だけ。
だが、その祐一も微妙に遠い。
それでも、もう祐一しかいないのだ。
その場にいた者の想いが一つになる。
間に合うのか? いや、間に合ってくれ!
想いは祈りとなり、祐一へと注がれる。
みんなの祈りに背を押されたのか、祐一は頭から飛んだ。
「うおおおおおおおおおおっ!」
雄叫びと共に、祐一の体が地面水平の大滑空を行う。
そして、地上30センチというところで、ついにあゆの体を捉えた。
一気に抱き寄せ、あゆを地面からかばうように体をひねる。
大きな水しぶきが上がり、体が地面を擦る音がする。
その音を掻き消すように、大会終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
どうなったのか?
取り巻きの輪が、どんどん狭まっていく。
その中心にいるのは、水溜りの中で折り重なるように倒れた男女。
二人はまだぴくりとも動かない。
いや、今上に重なった少女がぴくりと動いた。
がたがたと震えながら体を起こし、目を開ける。
眼下には、自分の下敷きになって目を閉じたままの少年の姿。
「祐一君!? しっかりしてよ! ねえ、祐一君!」
少女は、泣きながら少年の体を揺すった。
そんな、やだよ。ボクを置いてかないでよ!
色んな言葉が浮かぶも、それを口にすることは出来ない。
少女は、ただひたすら少年の名を呼び続けた。
いや、彼女だけではない。
二人を取り巻く、全ての人間が少年の名を呼んでいた。
ぴくり、と少年の手が動く。
その手がまずはじめに拭ったのは、泣き続ける愛しい人の涙。
ひたと頬に当たった指の感触に、少女が顔を上げる。
そこには、上半身を起こして、苦痛に顔を歪めながらも少女に微笑んでみせる少年の姿があった。
「ゆういち…くん……」
「約束、守れたよな?」
「えっ?」
二人の傍に、大木が浮かび上がる。
そこは、二人だけの学校。
その中心で、大木から落ちた少女は、少年に受け止められていた。
「今度は、間に合ったよな?」
腕の中できょとんとしたままの少女に、少年はもう一度問いかけた。
間に合った。
そう、今度は間に合ったのだ。
少女の顔がみるみる明るいものになっていく。
少女は少年にぎゅっと抱きつくと、大粒の涙を流して頷いた。
「うんっ」
少年はそれを聞いて満足そうに空をあおぐ。
一時でも離れるのが怖かった。
再会してから日を重ねるにつれ、その恐怖は大きくなる。
だから、より強くお互いを求め合った。
だけど、少年は今度こそ守り抜いた。
自分を信じて頑張り抜いてくれた少女の想いに応えて……。
祐一はあゆの背中に手を回し、しがみつくその頭をゆっくりと撫でながら大きく頷く。
「そうか、よかった」
さよなら、7年前の悪夢。
そして、さよなら……少年時代。
どこからともなく、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえ始めた。
それは、次第に大きくなり、いつしか滝のような拍手が中心の二人に注がれる。
あれだけ降っていた雨もいつしか小降りになり、雲の隙間から光が差し込んできた。
その一条の光が、水溜りの中で抱き合う男女を小さな虹とともに照らし出す。
名雪が、北川が、香里が、数多の生徒達が、長い戦いの終わりに現れた一つの奇跡に惜しみない拍手を送った。
校内かくれんぼ大会。
そのサブタイトルは……。
〜思い出に還る物語〜
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