7.クールランニング!

 さて、愛も変わらず……もとい、相も変わらず燃え上がっているのはこの二人。
「どうした? さっきから黙りこくって」
「え? う、ううん、何でもないよ」
 ぼーっと祐一の成すがままになっていたあゆが、慌てて首を振る。
 が、すぐに上の空になってぼーっと考え事をはじめる。
 彼女だって女の子である。
 こう雨が降ってたらアンニュイな気分になることだってあるだろう。
 しかし、そんなことを気にしないのが祐一である。
 いや、むしろ、彼はそれ以上に何かに敏感だった。

「お、俺のテクが飽きられた!?」
「って、えええええっ!? そっちなの!?」

 なんか本当に同情したくなってくるなあ、あゆあゆ。
 そりゃもう何時間も体中まさぐられっぱなしだったから、いい加減感覚が麻痺してきたということもある。
 だが、女の子というものは気分が乗ってなければ体が反応しないものなのである。
 ほんのちょっと、あゆは別の考え事をしたくて、祐一にまさぐられるアソコとかアソコとかの感覚を意識外に放り出していた。
 普通の男ならそれでも気付かず、肉欲に溺れ続けることだろう。
 しかし、しかしだ。祐一はとてつもなく敏感だったのである。
 愛ゆえに。
 上に下に這わしていた手から感じる熱が、先ほどまでとは微妙に違う。
 というか、わずかに冷めた。
 この数時間というもの、北川のいた間ですら上昇しっぱなしだった体温が、こともあろうに下がったのである。
 これは一大事だ。
 あゆは乗り気ではない。
 ぼーっと上の空のあゆの顔は、祐一の中で肉欲に溺れる哀れな男を見下すそれへと変換される。
 そうなると、祐一の達した結論は早かった。

「そ、そんなことないよ。祐一君は何時間もボクをじらせるくらいにテクニックあるし……って、わわわわっ、何言せるんだよ!?」

 おいっ、落ち着けあゆあゆ。
 いきなりテクが足りない、なんてすっとぼけた結論に達する祐一も祐一だが、その相方も相方で何を答えているのやら。
 同居人の名雪がいたら、ここは苦笑いする場面だろう。
「あゆ、いいんだ。俺は最低の男だ。性欲を持て余すことだけを考え、あゆにも性欲以外与えてやれなかった。俺は……人を愛しちゃいけない男だったんだ」
「だ、だから違うって! ボクは嫌じゃないよ、気持いいし……その、こんなとこじゃなかったら」
 最後、微妙に抗議をしてみるが、祐一にはそんな都合の悪いところは聞こえていない。
 しゅぴぴんとばかりに、祐一は復活した。
 どこが、って言われたらそりゃ色々。
「そ、そうだよな! ううっ、俺はてっきりあゆに嫌われたものとばかり……」
「そのね……ちょっと考え事してただけなんだよ。さっき放送してた中野先生って人の……」
 あゆの発言が終わらないうちに、祐一がくわっと目を斜めに吊り上げる。
 その瞳には炎が宿っていた。あゆにも丸分かりなくらいの、嫉妬の炎が。
 まずい、この人また勘違いしてる、とあゆがたらりと汗を流すまもなく、祐一はあゆをがくがくと揺すり始めた。
「き、キサマぁぁぁ! あんな中年教師のどこがいいんだ、言ってみろ! 事と次第によったら、俺はこの愚息を切り落として男としての人生に終止符を打ってくれる!」
 ああ、素晴らしきかな男泣き。
 ここは泣く所である。
 あゆもしっかり泣いていた。もちろん全く別の意味での女泣き。

「最後まで話を聞いてーーっ!」
「ひぎっ!?」

 半べそであゆが叫ぶと同時に、祐一は苦悶の表情を浮かべて奇声を上げた。
 だらだらと脂汗が止まらない。胃の中を毒虫が這い回ってるような、何とも言えない男性特有の不快感が祐一を襲う。
「あ、ああああ、あの、あゆさん……お離しになってもらえませんか。暴力はいけませんよ」
「嫌だよ。話が終わるまで離してあげないもん」
 その、なんだ。大事なところをあゆにしっかりとホールドされていたのである。
 男としての手綱を握られた祐一は、あれほど盛っていたのが嘘のように静かになった。
「あのね、さっき中野先生が生き残ってる人達に賞品出すって言ってたでしょ?」
「あ…ああ。い…育毛剤ですね」
 戯れか偶然か、祐一の垂れ下がったモノをあゆが下に引いたようだ。
 祐一の声がひくついている。
「あれって、本当なのかなあ?」
「さ…さあ? ほ…本当なんじゃ、な…ないですかね」
 ぶはあっ、と毒気のこもった息を吐き出す祐一。
 そこまで言ったところで、ようやくあゆがおふくろさんを解放してくれたのだ。
「何だ? 育毛剤に興味でもあるのか?」
「えっと……」
「む……。帽子を取ったかと思ったら、またカチューシャを頭にはめて、さてはハゲ隠しか!?」
「ち、ちがっ! ハゲてなんかないよっ、白髪の一本もないし!」
 ぶんぶんぶんと首を振って、あゆは大否定した。
 ちょっとハゲの人にかわいそうだが、まだ彼女も若いということで嫌がるのは容赦してやって欲しい。
「むぅ。では、一体何のために? 俺はいらんぞ、あんなもん。俺のために欲しいとか言ったら、しばき倒すからな。そこんとこよろしく」
「誰も祐一君の髪なんか心配してないよ……。欲しいのは……その、ボクだし」
 むぅん、と祐一は腕を組んで考え始めた。
 あゆは何故育毛剤を欲するのか?
 それも、あゆ自身が必要としているらしい。
 頭はハゲてもいないのに、どこに?
 と、そこで祐一ははっとした。そして、またもやあゆをがくがくと揺すり始める。
「き、キサマぁぁぁ! まさか『ここ』に使おうとか言うのではなかろうな! 俺のロマン、俺だけの秘境に!!」
 またしても男泣きである。
 祐一はあゆのスカートに手を差し込み、とある箇所をさわさわ撫でながら絶叫した。
「な、何で分かったの!? ひゃっ、産毛をなでるのやめてぇ〜」
 ……どうやらまあ、そういうことらしい。


 あゆの肩を両手でがっしりと掴み、おーいおーい声を上げてむせび泣く祐一に、きょとんとしながらもあゆは尋ねた。
「あの、その……ない方がよかったのかな? ……毛」
 何しろ、自分は良かれと思ってたのに、祐一がこんな反応をするとは思ってなかったのだ。
 子供っぽい子供っぽいといつも馬鹿にする祐一。
 だったら、少しでも大人の証拠を見せてやろうと思ったのだが、祐一はこの有様である。
 祐一は、戸惑いを隠せないでいるあゆに、血涙流さんばかりの勢いで訴えた。
「あゆ。俺は、あゆがダイナマイトバディになるのも、トップモデル顔負けのスタイルになるのも構わない。だけどな、だけどな!」
「う、うん」
「『そこ』だけは……『そこ』だけは生まれたままの姿の方がいいんだ。そのつるつるは、男達の、いや人類全ての宝と言っていい」
「そうなの?」
「もちろんだ。風呂で名雪のもっさもっさに劣等感を覚えたのかもしれないが、案ずるな。貧相な体型を恥じても、そのつるつるだけは誇っていい。いずれ名雪も歯軋りして悔しがるだろう」
「あの、名雪さんは関係ないと思うよ……」
 確かに名雪に劣等感を覚えたことはないこともないが、それはむしろ胸とスタイル。
 あんなところに毛があったら、拭く時とか邪魔だよなあと思いつつも、大人っぽく見てもらうためには生えてなきゃいけないと思い込んじゃったのである。
 そんないじらしい乙女心を、隣の男はまるで分かってなかった。
 いや、まあ本当に愛してくれてるみたいだし、分かってくれなくても悲しくはないんだけど。
 それでも、あゆはちょっと思った。
『この人、人間的に趣味は大丈夫なのかなぁ?』
 と。
 かなぁ、なんて思ってるようだが、断言しよう。
 どう考えても大丈夫じゃない。
 でも、彼をそんな人間に目覚めさせてしまったのは他ならぬあゆなのだから、お互い様だろうか。
「とにかく、育毛剤なんて禁止だ禁止。自然に生えてくる分は諦めるが、俺は今のあゆが一番なんだ」
「えっと……、いらないなら抜いてもいいよ。ボクも邪魔だなって思うし」
「おお、やってくれるか。ありがとう」
 あゆの手を取って、ロマンを理解するあゆに今度は感動の涙を流す祐一。
 別にあゆは祐一のロマンを理解してるわけじゃないのだが、まあいいか。

「ところで、あゆあゆ。あんなところを握って締め上げるなんて、どこで覚えてきたんだ?」
「えっと……男の子が言うこと聞かない時は、そこを握れは大人しくなるって栞ちゃんが……」
「ほほう、あのヤロウか。後で思いつく限りの猥談を聞かせて、恥死させてくれる」
「……や、やめといた方がいいよ。祐一君がそういうこと言ったら『男の子に生まれたことを一生分後悔させてあげます』って答えてくださいって」
「お見通し!? ていうか何をする気なんだ、美坂妹」
「分からないけど、多分何かあるんだと思うよ。栞ちゃん、人の体の仕組みには詳しいし……」

 いや、ほんとにこいつらどこで何やってるんだろうね?
 かくれんぼなんて雰囲気もクソもない二人だった。
 生き残り、現在4名。




 一方こちら、マワシとフンドシのいる風景。
「十三歳の時……即席ラーメン……上上下下左右左右、後は知らない……」
 膝を抱え、ガタガタと震えながら意味不明なことをブツブツと繰り返す隣人の姿に、斉藤はどうしたものかと困惑していた。
 斉藤の指摘でタガが外れてしまったのか、誰がどう見てもヤバい状況になっている。
 蒼白なのに、眼球が飛び出んばかりに広がった目とか、リトルグレーっぽい顔面とか。
 いや、どっちも同じか。というか、二人揃って体中緑色だし。
 まあ、とにかく、傍にいると何されるか分かったものじゃないくらいに怖かった。
 というか、既に『闇と友達になるんだ』とか意味不明な妄言とともに、全身に緑の塗料を塗りたくられている。
 もちろん、逃亡も不可能。
 野獣のように荒い呼吸を繰り返す今の久瀬に背を向けるなど、襲ってくださいと言ってるようなものだ。
「あ、あのさ、久瀬」
 もうこうなったら、落ち着かせて下に引き降ろすしかない。
 斉藤の脳細胞は、生き残るためにその機能をフル回転させた。
「な、なんだよぅ。ママはお前なんか愛してないよ。汚くてハナタレで、憎んでいるんだ……」
 まるで話が伝わってない。
 というか、本格的にアブない状態じゃないだろうか?
 だが、なんとか斉藤の方を見たあたり、一応ぎりぎりのところで理性は残っているらしい。
 言葉を間違えたら、どんな行動に出るか分からないが、暗所恐怖症且つ閉所恐怖症の久瀬をこのままこんなところに置いていては、症状が悪化する一方だ。
 ええいままよ、と斉藤はとある質問をぶつけてみた。
「あのさ、何で君はこんなとこに隠れなきゃならなかったの?」
 ぴくん、と久瀬の体が震える。
 虚ろだった目に、わずかに光が戻った。
 この機を逃すなとばかりに、斉藤は畳み掛ける。
「北川に言ったよね。『僕にはここにいなければならない理由がある』って。よかったら、それ僕に聞かせてくれないかな?」
 何も知らずに、こんなところで発狂した君に殺されたらかなわないから……という本音は伏せておく。
 その甲斐あってか、久瀬の目に光が完全に戻った。
 斉藤の顔をしっかりと視界に収めている。
「ああ、すまない。ぼ、僕としたことが冷静を失っていたようだ」
 かなり危ういが、かろうじて久瀬は正気の世界に戻ってきたようだ。
 どうやら斉藤の振った話題は効果的だったらしい。
 とりあえず、話題に集中させる路線で斉藤は久瀬を落ち着かせようと考えた。
「『それは、かくれんぼの勝敗以上に大切なことなんだ』って久瀬は言ってたけど、あれもどういうことなんだい?」
「ああ……。いいだろう、ここまでついて来てくれた君の忠誠に対して、特別に話してやろう。あれは、僕がまだ小学生の時だった……」
 話に集中し始めた久瀬に、ひとまず安堵を浮かべる斉藤。
 相変わらず偉そうなお人やなあ、と呆れながらも『特別に話してくれる』という言葉に悪い気はしなかった。


 問題の天井裏から板一枚隔てた直下の、新校舎3階廊下。
 天野美汐は、先ほど聞こえた叫び声の主を求めて、右に左に歩き回ってはきょろきょろと周囲を伺っていた。
 が、どうやら困っているらしい。
 もう15分以上、こうやって周辺の廊下や教室をウロウロしている。
 いったい、何に困っているのだろうか?
「……天井裏ってどこから入るんでしょう」
 ずばり、それだった。
 どこを見回しても天井裏に入れそうな場所がない。
 ならば床の下から潜るのかと、あちこちの床を調べてもそんなところはなかった。
 やはり空耳だったのだろうか?
 いや、そんなことはない。
 あの叫び声はどう考えても天井裏からのものだ。
 一階上からの音にしては、あまりに近すぎる。
 しかし、上に登る手段が見つからない以上、確認のしようがない。
 そう思って、彼女がいい加減諦めようとしていた時だった。

「おい、天野。さっきからこんなところウロウロして何やってんだ?」

 かなり感じの悪い声。
 言い換えるとガラの悪い声とでも言うべきだろうか?
 美汐はその声に覚えがあった。
 どちらかというと、聞きたくない類の声である。
 振り返ると、三人の女子生徒が腕を組みながら美汐にガン飛ばし(睨みつける)していた。
「何だよシカトか? 何か困ってるみてーだからせっかく声かけてやったってのに、ムカつくな」
 高校生に不相応なほど化粧を施された顔、なんだかよく分からないごつごつしたピアスに、ぶかぶかの靴下、まあ、見るからに反抗期真っ盛りの不良女生徒達である。
 それも美汐と同じクラスの。
「いえ……そういうわけでは」
「ねえ、サチコ、ほっとこうよこんな奴。ジメジメして余計に気が滅入るって」
「そうそう、今日はこいつに構ってる気分じゃないよ。雨もこいつのせいじゃないの?」
 はっきり言って、美汐と彼女達の関係は最悪である。
 親の愛が足りないとかなんだか色々事情はあるだろうが、とにかく目に入るもの全てが気に入らない。
 それがグレた学生、すなわち不良生徒というものである。
 そんな彼女達からして、いつもクラスの輪から離れて孤高を気取ってるような美汐は実に不愉快な存在だった。
 別に美汐本人は孤高を気取ってるわけではないが、そう見えなくもないだけにタチが悪い。
 すれ違う時に肩をぶつけられる、トイレに入っていると扉を思い切り蹴飛ばされる、ありとあらゆる場所で陰湿な嫌がらせが繰り返されていた。
「ったく、あんた財布とか盗んでたんじゃないだろうね? どうせ疑われるのはウチらなんだから、これ以上ウロウロしてたらただじゃ済まさないよ」
 疑われるような外見と言動をしている側にも問題はあるが、確かに不良生徒の言うことにも一理ある。
 美汐のやってる行動は、何かを盗もうとあちこち伺っている様にも見えた。
 それだけ悪態をつくと、サチコと呼ばれたリーダー格っぽい女子生徒は他のふたりに促されて美汐の傍を通り過ぎていく。
 いつも通りの、嫌味な連中との一時が終わっただけだ。
 だがその時、美汐の中に何が起こったのだろうか?
「あの、待って下さい」
 あんな連中でも、クラスメートだから安心できた?
 それとも、困っている時に曲がりなりにも気にかけてもらえたことが嬉しかった?
 美汐にだって、そんなことはよく分からない。
 だけど、何かに背を押された気がした。
 心の中で、誰かが『行っておいでよ』と囁いた気がした。
 だから、彼女は手を伸ばしていたのである。


 マワシとフンドシの天井裏、再び。
「ある日、近くの公園でかくれんぼをすることになった。小学一年生の一学期。まだ、知り合いになったばかりで、みんなお互いのことをよく分からなかった」
「あ、そうか。久瀬って私学のおぼっちゃんだったよね」
「うむ。しかし、子供というのは残酷な連中でね。何度隠れてもすぐに見つかり、鬼になったら全然見つけられない、そんな僕にこう言ったんだ。お前とかくれんぼしてもつまらないってね」
 昔を振り返る久瀬は、もう周りの環境が見えていないのか錯乱した様子はない。
 いや、時々声が裏返ってるあたり怪しいものだが、それでも先ほどよりは随分落ち着いた状況だと言えるだろう。
 斉藤はその話を、時々相槌を打ったりしながら、邪魔しないように聞いていた。
 元々演説好きの久瀬なので、しゃべってる間に邪魔すると機嫌が悪くなるのを斉藤もよく知っているのだ。
「子供心に凄く傷ついたよ、あれは。それで、僕は決心したんだ。今度は誰にも見つけられないところに隠れて、あっと言わせてやるぞって」
「うん……それは傷つくよね、やっぱり」
「分かってくれるか。やっぱり君は最高のナンバー3だ。君のような忠臣ともっと早く出会えていれば、僕もこうはならなかっただろうに。ああ、後悔してるさ。後悔してるとも。人の気も考えないで勝手気ままにやりたい放題やっていた川澄さんに、私怨の八つ当たりで辛く当たっていたこととか……」
「いや、あれは向こうにもかなり問題あったと思うけど……。それで、かくれんぼの方は?」
 なんだかややこしい話題に飛びそうだったので、本題に戻るよう促す。
 というか、卒業した問題児のことなど今更思い出したくもないというのが斉藤の本音。
「ああ、そうだな。かくれんぼの話だったね」
「うん」
「それで、僕は隠れてやったんだ。誰も思いつかない、誰も隠れたことがない場所に。その公園には地下に下水が通ってた」
「って、まさか久瀬……」
「公園の端にあった大きな排水溝から、僕はそこにもぐりこんだ。そして待ったんだ。誰かが探しに来てくれるのを。何分も、何時間も、探しに来た子が驚く姿を待ってたんだ。なのに、なのに……」
 涙のせいか久瀬の声に鼻声が混じり始める。
 このままだと、またヤバい状況に逆戻りではないだろうか?
 だが、斉藤は止められなかった。
 決して耳を逸らせない、魂の叫びがそこにあったのかもしれない。
「僕は……待った。ずっとずっと。真っ暗で狭くて汚くて臭くて、そんなところでずっと。気が付いたら、僕は眠っていた。何時間経ったのだろうかと、外に出てみると……」
「久瀬……もういいよ。それ以上言わなくても、僕は分かったから……」
「誰もいなかったんだ。空を見たかって? ははははは、朝日が昇ってたよ。なんて奴らだ。見つからない僕を見捨てて、家に帰ったんだ。泣きながら学校に走った僕に同級生が浴びせた言葉なんて最高すぎる。『臭い、寄るな』だと? 父には『どこに行ってた』と帰るなり殴られたさ」
 ひっくひっくとしゃくりあげながら、久瀬は感情の全てを曝け出して泣き叫んだ。
 こんなところに久瀬を上がらせたのは、本当に間違いだったと斉藤は後悔する。
 久瀬にとってここは、元々の暗所・閉所恐怖症に加えて、幼少時のトラウマを喚起する場所なのだ。
 そんなところに長時間閉じこもっていたら、パニックを起こすのも当然である。
 まあ、ついでに『そりゃあひねた性格にもなるわな』と思ったが、これは口が裂けても言えない。
 泣きじゃくる久瀬の背中に、斉藤はぽんと手を置いた。
「帰ろう、久瀬。ここ、君には辛すぎるだけだよ」
 だが、その言葉に対して久瀬は首を横に振った。
「いや、まだだ。まだあと少し時間はある。僕に待ち人を、メロスを待つ時間をくれ」
「でも、メロスは来ないかもしれないよ」
「それでもいいんだ。それでも……今度は褒めてもらえる」
 幾分か冷静さを取り戻したとはいえ、いつもの久瀬からは考えられないほど覇気の感じられない言葉だった。
 だが、その確固たる決意は斉藤にもしかと伝わった。
 トラウマの震えに耐え、待ち続ける相棒。
 どうして彼の邪魔をすることが出来るだろうか。
 例え見つける人が現れなくても、勝利者への賞賛が彼を癒してくれる。
 だけど、そこに心がこもっていようか? 大会の規定が用意した、無機質な賞賛でしかない。
 この堅物の不器用な男が生徒会でしてきたことを思うと、中傷すら飛んでくるのではないだろうか。
 ああ、神様。でもどうか叶えてあげて下さい。
 この人のぬくもりを忘れた男に、人の世には情けがあることを教えてあげて欲しいのです。
 どうか、メロスをここに。
 斉藤は心の中でそう祈ると、あぐらをかいてどっしりとその場に座り込んだ。
 その顔に、いつものどこか頼りない面影はない。
「……斉藤?」
「僕もとことん付き合うよ、久瀬。そこまで聞いちゃ、放っておけない」
 頼もしげな言葉に、久瀬は斉藤の手を取り涙を流した。
 ああ、麗しき(?)かな、マワシとフンドシが織り成す友情。
「ありがとう、斉藤。やっぱり、君は最高のナンバー3だ」
「……へ?」
「何が『へ』だ。君ほどの忠義者を僕は見たことがない。誇りに思いたまえ」
「は、ははは、ありがとう。うん」
 不遜な態度は生まれつきなのね、このお人は。
 相変わらず友人と呼んでもらえないことに、斉藤は苦笑いするしかなかった。
 だけど、斉藤は気にしない。
 だって、これからどんな人が久瀬と知り合いになったって、ナンバー3は自分だと言ってくれたようなものなのだから。


 所変わって、3階廊下。
「あぁ!? 天井裏に人!?」
 サチコと呼ばれた、リーダー格らしき不良生徒が素っ頓狂な叫び声を上げる。
 美汐の説明によると、天井裏に人がいるというのだ。
 だが、叫び声とは裏腹に、不良生徒達は楽しそうな顔を浮かべた。
「へえ、面白いじゃないか。それが本当だとしたら、いったいどんな奴か見てみてえな」
「案外、こいつみたいなネクラな奴じゃないの?」
「アハハハハ、ありえる」
 美汐の頭をツンツンとつついて、ゲラゲラ笑う不良生徒達。
 無礼極まりない彼女達の態度に対して、美汐が怒るかと思いきや、特に美汐は怒ってもいなかった。
 というか、どうでもいいのか無表情。
 こういうところが、普段絡んでくる不良生徒達の神経を逆撫でするのだ。
 もっとも、今日は関心事が他に出来ているからか、不良生徒達もまったく気にしてない。
 むしろ、彼女達より背の低い美汐はいいオモチャだ。
「で?」
「はい?」
「はい? じゃねーよ。分かってるんなら探しゃいいじゃん。なんでウチらに声かけたんだ?」
 ああ、うん。そうだ、その通りだ。
 案外すんなり話が通じるので、ちょっと驚いてしまう美汐。
 ほんのちょっと足を踏み出してみるだけで、こうも違うのかと。
「天井裏って、どこから登るのでしょうか?」
 思い切って、悩みを彼女達に打ち明けてみる。
 もう声をかけてしまったのだ。今更物怖じしたところで何もならないだろう。
 そう思うと、美汐の気持の切り替えは早かった。
「天井裏? ……そのへんの天井から行けんだろ、そんなの」
「いえ、教室とかを探しても、天井に蓋みたいなものはなかったんです。床も外せるようなところはなかったですし」
 ふむ、と首をかしげながら、リーダー格の少女が仲間達に目をやる。
「あんたら、天井登れるところ知ってる?」
「んー、やっぱトイレじゃない?」
「確か上に蓋みたいなのがあったよ」
 目を仲間達から美汐に向ける。
 上から睨みつける、高圧的な姿勢だが、美汐は特に動じなかった。
 怖いもの知らずというより、やっぱり無関心なだけなのだが。
「って、こいつら言ってるけど、トイレは探したのか?」
「……いえ」
 どん、と乱暴に背中を押される。
 美汐が、その痛さに顔をしかめて見上げると、リーダー格の少女は不機嫌そうに、だけどどこか楽しそうに美汐を見下ろしていた。
「ほら、行くぞ。トイレだってよ」
 目が合ったのは一瞬だけ。
 それだけ言い放つと、リーダー格の少女はさっさと歩き始めた。
 やっぱり美汐は驚いたけど、彼女達は手伝ってくれるつもりらしい。
 自然と、美汐は小さく頭を垂れ、こんな言葉を口にしていた。
「あ、はい。ありがとうございます」
 と。


 不良生徒の記憶通りに、トイレの天井には蓋らしき物がついていた。
 リーダー格の少女が手を伸ばすも、天井は高く、ジャンプして蓋に触れるのがやっとだった。
「肩車でもするしかねーな、こりゃ」
 ぶっきらぼうにそう言って、仲間の少女達を手招きする。
 リーダー格の少女は、今いる四人の中で一番背が大きいのだ。
 だから、土台になるということだろう。
 が、仲間の少女達はその手招きに、首を横に振って拒否の意を示した。
「……やだよ。天井裏って埃っぽいに決まってるじゃん」
「あたしもパス」
 肩車なんて、落とされたらたまらないし、誰が好き好んで汚い天井裏を覗くものか。
 まあ、至極もっともな反応ではある。
 リーダー格の少女が、根性なしの仲間に『あのなあ、てめーら』と文句を言おうとしたときだった。
 横からすっと手が伸びる。
 リーダー格の少女が見下ろすと、小さく手を上げる美汐の姿があった。
「あの、私が見てみます」
「お? いいのか?」
「もともと、私が言い出したことですから」
 リーダー格の少女は、少しばかり驚きの面持ちで美汐を見つめる。
 なんというか、普段『私に関わらないで下さい』オーラを放っているだけに、お高く止まってるイメージを持っていたからだ。
 そんな美汐が、進んで汚れ仕事を引き受けると言っているのが実に意外だった。
 ひょっとしたら、自分はこの美汐という少女のことをかなり誤解していたのではないだろうか?
 そんな思いが彼女の中に生まれる。
 よくよく考えれば、美汐はクラスメートを無視していたというより、無関心でしかなかった気がしないでもない。
 真面目な生徒や、教師には侮蔑の視線をぶつけられる自分達にも、美汐は特にこれといった感情を向けてはいなかった。
 というか、まったく気にしてなかったと言っていい。
 いつもはスカした奴と思って不愉快に思っていたが、こうして面と向き合ってみると、あれこれ喧しい親や教師、クラスメートよりはるかに付き合いやすい奴なのではないだろうか?
 というか、むしろカワイイ?
「あー、そりゃいいや。こいつにやらせようぜ、サチコ」
「なんでウチらがあんな汚いとこ覗かなきゃいけないんだよ、なあ?」
 好き勝手ほざいてる仲間達に、リーダー格の少女は少しカチンと来た。
 こんな自分達を相手にしても、素直にお礼を言ったり汚れ仕事を進んで申し出てくれてる相手に何様のつもりだ。
 誰彼構わずツッパリかませばかっこいいと思ってるのだろうか?
「あんたら、根性なしの分際でよく天野を馬鹿にできるね」
 ギロリと、リーダー格の少女が仲間の二人を睨みつける。
 二人は、びくっと背を震わせてお互いに顔を見合わせた。
 ほらみろ。後ろめたさに自覚があるから、こんな啖呵でもビビるんだ。
 だが、いちいちそんなことで説教垂れるのも鬱陶しいし、めんどくさい。
 彼女はそれ以上咎めることはなく、くいっと仲間に手で指示を出した。
「ぼさっとしてないで天野の足持ってやんな。ウチは体を支えてるから」
「お、おっけー」
「あ、ああ。天野、持ち上げるぞ、いいかー?」
 リーダー格の少女が美汐の体に手を添え、仲間の二人が美汐の足に手を回した。
 三人がかりで美汐を持ち上げようというわけである。
 これなら美汐が転がり落ちる危険は少ない。
 そんな気遣いに気付いてか、気付かないでか、美汐はぺこりとお辞儀をしながら言った。
「よ、よろしくお願いします」
 と、内股に手を回されてる感覚にかなり戸惑いながら。


 天井の上蓋は特に固定されておらず、思い切って押すと簡単に持ち上がった。
 とりあえず、それを横へとずらして覗き込める隙間を開ける。
 蓋はかなり大きく、よほど太ってなければ入れないこともなさそうだ。
「天野、どうだ?」
「あ、すみません。持ち上げてもらえますか?」
「あいよ。おい、おまえら」
「へいへい、やりゃいいんだろやりゃ。天野、天井に手をかけろ」
「行くよ。せーのっ!」
 懸垂で体を持ち上げられない美汐に代わって、足を持つ二人が美汐の足を肩にかけ、バネの要領で同時にぐいっと押し上げる。
 その勢いで、美汐は一気に天井裏へと飛び出した。
「天野ー、何か見えるか?」
「あっ、あたしペンライト持ってるけど、いる?」
 これまでの険悪な雰囲気はどこへやら。
 ちょっとした冒険気分は、彼女達の心を少しずつ一つにしていった。
 人の関係というのは不思議なもので、いざこのような作業を一緒にするとなると、仲の良かったはずの者が互いの身勝手さに愛想を尽かし、仲の悪かったはずの者が互いの思い込みだけで嫌っていたことを悟ったりする。
 もちろん、絆が強固になるケースがほとんどとはいえ、このような逆転現象もまた起きやすいのだ。
「ええと、少し待ってください。あの、どなたかいらっしゃいます?」
「って、スカかお前は! 隠れてる奴に尋ねてどうする!」
「す、すみません、つい」
「なあなあ、あれ見ろよ。天野って結構かわいいパンツはいてるな。フリルつきだぞ、白の」
「どこ見てるんですかっ!」
「いーじゃんいーじゃん。女同士なんだし。何ならあとであたしの勝負パンツ見せたげよっか?」
 天井から尻だけ出している美汐と、下の三人との間で荒んでるような、それでいて和気藹々とした会話が交わされる。
 本当に、これが元々あんなに仲の悪かった四人の姿なのだろうか?
 クラスメートが見たら、腰を抜かすかもしれない。
「まったくもう。あんまりじろじろ見ないで下さ……」
 下さい、と美汐が抗議しようとした時だった。
 天井裏の闇の中、あたりを伺っていた美汐の目に何かが飛び込んできた。
「おい、どうしたミッシー? 何かあったか?」
 いつの間にか愛称までつけられてる美汐だが、天井裏の本人はそれどころではない。
 闇の中にぼぅっと浮かび上がる緑の顔らしきもの。
 それだけでもかなり怖いが、顔を照らす懐中電灯の光は、その顔の繋がる胴体部分もうっすらと映し出していく。
 美汐の目が闇に慣れるのと同時に、ゆっくりとだ。
 そこにいたのは、全身緑の化粧マワシ男に、フンドシ男。
 しかも一方のフンドシ男ときたら、見開いた眼が血走っている。
 よりにもよって、その『久瀬』と刺繍されたフンドシの男と真っ先に目が合った。
 男は大口を開けて、にまーっと笑みを浮かべたかと思うと……蜘蛛のような動きの四足歩行で、シャカシャカと美汐の方に向かってくるではないか。
「待っていた! この時を待っていたぁぁぁ! 僕のメロス!」
 と、血走った目を全開に叫びながら。
 対する美汐の反応は……。

「きゃああああああああっ!?」

 悲鳴、それ以外に何がある。
 天井裏覗いたら、オールグリーンのマワシとフンドシがいて、その一方が人間離れした動きで捕食せんとばかりに迫ってきてるのだ。
 これで怖がらない方がおかしい。


 無我夢中で後ろに下がった美汐だが、尻から下は宙ぶらりんの状態である。
 後ろに下がっても足場は、ない。
 つまり、落ちる。
「ひゃっ!?」
 落下が確実になった瞬間にそのことに気付いた美汐。
 しかしもう遅い。体は重力に引かれて……。
「っと、危ねえっ!」
 床に落下、はしなかった。
 リーダー格の少女が異変に気付いて、落下寸前の美汐の足をキャッチしたのだ。
「おい、どうしたんだミッシー。上に何かいたのか?」
「ネズミか何かと顔合わせたんじゃないの?」
 仲間の一人が美汐の狼狽ぶりをからかうも、美汐はもうそれどころではない。
 今まで生きてきて、一番怖い思いをしたといっても過言ではない状況だ。
 震えながら上を指差し、口を開く。
「て、天井裏に……み、緑の野人が……シャカシャカシャカって私に襲いかかって」
「はぁっ!?」
 もはや何を言ってるのか、意味不明である。
 頭ぶん殴って正気に戻してやろうか、そうリーダー格の少女が思った矢先だった。

 どんっ! どんっ!

 背中の方で、何かの着地音がする。
 一つ、間を置いてもう一つ。
「あ、あのさ、久瀬、ここって女子トイレじゃ……」
「別に覗き目的で来たわけじゃないさ。そう、これは事故さ。メロスに呼ばれて、僕らはここに降り立った。フフフフ」
 美汐はもうかたかたと震えるばかり。
 おそるおそる、不良生徒達が後ろを振り返る。
 いた。そこにいた。
 美汐の言ったとおり、緑の野人が。
 しかも、化粧マワシにフンドシという異様な出で立ちで、特にフンドシの男と来たら、血走った目を全開にギョロギョログリグリあたりを見回してる。

「きゃああああああああっ!?」
「ひっ、ひいいいいっ!?」
「ば、バケモノ!?」

 さしもの不良生徒達も、こんな非常識な存在には弱いのか、悲鳴を上げてあとずさった。
 というか、しがみついたままの美汐を引きずって、トイレから逃げ出した。
 だって、怖すぎるもん、緑の野人。
 トイレに残された緑の野人こと、久瀬と斉藤は少女達が逃げていくのを唖然として見ていた。
 どうやらこの二人、周りから見て自分達がどれほど不気味かと自覚がまるでないらしい。
「むっ、何ということだ。追うぞ斉藤」
「えっ?」
「僕らを捕まえていいのは、メロスだけだ。彼女達に捕まえてもらうため、僕はここにいる」
「そ、そうか! そうなんだよね」
 もうなんかよく分からないけど、気迫だけで納得してしまう斉藤。
 最後まで付き合うという彼の決意は本物だった。
 二人は同時に走り始める。
 メロスに追いつくために。
 ……何故か後ろ向きに。
「あ、あのさ、久瀬。なんで僕ら後ろ向きに走ってんの!?」
「何を言うか。メロスは僕らを『緑の野人』と呼んだ。彼女達が与えた名に従って、緑の野人たる僕らは逆向きに走らねばならんのだ。そうだろう?」
「ああ、そうだね。もうこうなったら地獄の底でもお供するよ!」
 ちょっと訂正。
 もう、半ばヤケクソになってる斉藤だった。


 逃げる、逃げる。
 どこまで逃げても奴らは追いかけてくる。
 アマゾンの密林パワーをその身に宿した緑の野人から逃げられた者など、この世には存在しない。
「な、なんであたしら逃げてるのさサチコ!」
「ウチが知るわけないだろ!」
 廊下を全力疾走で逃げる不良生徒3人+美汐。
 何で逃げるのかって訊かれたって、向こうが追ってくるからとしか言いようがない。
「私達鬼じゃん!」
「だったら、なんであんたも逃げてんのよ!?」
「そういうサチコだって!」
 そうなのだ。
 相手は本物のアマゾンの野人とか、そういうバケモノではない。
 ただ緑の塗料を塗りたくってるだけの、ここの生徒、それも隠れ役である。
 なのに、何で自分達は逃げてるのか?
 いや、自分達だけではない。
 廊下を歩いていた人間全てが、全力で逆走してくる緑の野人を目撃するや否や我先にと逃げ出した。
 無理もない。
 何を考えて全身緑に塗ったくってるのか、それ自体が理解不能な上に、二人が身につけているものはマワシにフンドシ一丁。
 そんなもんが後ろ向きに走ってきたらどうなるか?
 動きの奇怪さのみならず、でよんでよん揺れる緑のケツを目の当たりにするのだ。
 ハイレグなぞ遠く及ばない、それはもう割れ目くっきりのケツが。
 挙句の果てに、これが一番怖いのかもしれないが、フンドシの野人ときたら……。

「恐れることはない! さあ、僕に触れたまえ! 僕はこの誇らしい敗北を素直に受け入れることだろう! 未来永劫忘れはしない! 僕らが出会えた今日という日を! 僕はこの日を10年以上の長きに渡って待ち続けていた! さあ、僕に触れてくれ! 僕に敗北を! 僕に生きる実感をくれ!」

 後ろ向きに全力疾走しながら、このような発言を延々と叫び続けているのである。
 もはや、ちょっと不気味とかいうレベルではない。
 目撃した人間が、次から次へと逃げ出すのも当然である。
 リーダー格の少女は、がくがく震えながら後ろをちらりと見る。
 後ろ向きに走っているというのに、あんなに叫び散らしているというのに、一向に引き離せる気配がない。
 それどころか、後ろが見えてないはずなのにどうして正確に自分達を追いかけてくるのか。
 ただの勘か、それともアマゾンの神秘か、一体なんだというのだろう。
「な、なんだか分からないけど、あれはヤバいもんだ」
「ど、同感です」
 リーダー格の少女の発言に、並走する美汐が息苦しそうに頷く。
 追ってくる野人は格好、言動、全てがどう考えてもヤバい。
 そもそも、あの緑の体は何なのか?
 どんな塗料かも分からないし、触りたくない雰囲気もますます倍増する。
 というか、寄ってくるな。マジで。


 一方で、意味不明なことを喚き散らし続ける久瀬と並走する野人Bこと斉藤は、そろそろ周りの目が気になり始めていた。
 自分達(というか主に久瀬)を見るや否や、悲鳴を上げて逃げていく他の生徒たち。
 目が合った中には、間違いなくクラスメートの姿もあった。
 そもそも、なんで久瀬はこんな奇行を行っているのか?
 見つけてもらったのだから、もう幼少時のトラウマから解放されたはずである。
 不審の眼差しで、隣の喧しい久瀬を見つめてみる。
「ははははは、僕はタフさ! 何人だってこの胸に受け止めよう! 遠慮はいらない! さあっ、さあっ!」
 乳首をぱんぱん叩きながら、何かのタフさをアピールする久瀬の顔は、実に恍惚としていた。
 パニックで頭のネジが飛んだところに、トラウマからの解放が重なったせいか、完全に壊れてしまったようだ。
 歴史に残る法則を発見した、とある高名な数学者は、喜びのあまり全裸で街を爆走したという逸話があるが、今の久瀬はまさにそれ。
 あかん、ダメやこのお人。斉藤はもう顔をしかめるしかない。
 そればかりか、あちこちから感じる視線視線視線。
 見ると、通り過ぎた廊下の角や教室の窓から、生徒たちが顔を出してちらちらとこちらを伺っている、
 斉藤達を指差し、顔を寄せ合って何かしゃべってる姿もちらほら。
 隣で久瀬が喧しいので、何を言ってるかは分からない。
 しかし、容易に想像がつく。

『見ました奥さん?』
『あらやだ。何ですの、あれ』

 という感じのひそひそ話だ。
 だんだんその視線が強く、そして数を増してくる。
 酔ってればどうだか分からないが、正気のまま久瀬に付き合ってた斉藤は、もう限界だった。
「久瀬!」
「どうした、斉藤」
「僕にはもう無理だよ。これ以上は付き合えない!」
 それだけ言うと、斉藤は突如最寄の窓に駆け寄り、それを開け放つ。
 そして、誰かが「あっ」とか言う間もなく、そこから飛び降りた。
 まさに一瞬の飛び降り解脱劇。ちなみに、ここは3階から場所を移した2階である。
 まあ、そうそう死んだりする高さではないだろう。
 しかし、何の躊躇いもなく飛び降りるあたり、よっぽど周りの視線から逃れたかったようだ。


 何かを訴えるように散った相棒の姿に、久瀬は涙を流した。
「凡人の君が、よくここまで僕に付き合ってくれた。安心したまえ、後は僕一人でやり遂げてみせる! ああ、最後までやり遂げてみせるとも!」
 ……全然分かってないし、この人。
 しかも、この間も変わらぬ速度で、後ろ向きに全力疾走中である。
「斉藤! 君の忠誠に、このラスト・ランで応える!」
 それどころか、そう高らかに宣言すると、どこにそんな余力があったのか更にギアを上げ始めた。
 下手すれば、全国逆走選手権もぶっちぎってしまいそうなくらいのスピードである。
「じょ、冗談じゃねーよ! 何なんだアイツは!?」
「たしか、生徒会長です。この……学校の……」
「はぁっ!? マジで!?」
 どこまでもどこまでも追ってくる緑の野人こと久瀬に、逃げる四人はもう限界ヘトヘトだった。
 何しろ、登場に驚かされて呼吸が乱れたまま走り出したのだ。
 おまけに、何がなんだかわからない恐怖感で精神的な疲労も大きい。
「ミッシー、こうなりゃ目をつぶってせーのでヤツにタッチだ」
「えっ?」
「見えなきゃ気にならねえだろ。……多分」
「あ、あれに触るんですか?」
 露骨に嫌な顔をリーダー格の少女に返す美汐。
 しかし、不良少女の仲間二人はもっと嫌そうな顔をしていた。
「お前、このままずっとアイツに追っかけまわされたいのか!? いいな、せーのだぞ。せーのだ」
「は、はい!」
 このまま追っかけまわされるのと、あれを捕まえて終わりにするの、どっちがいいかと言われればどっちも嫌だ。
 しかし、あんなものに追っかけまわされて校舎中を走り回るのと、今すぐ終わらせるの、どっちの方がマシかと言われれば当然後者。
 というか、そもそもからして何で鬼の自分達が逃げ回らなければいけないのか。
 いや、追って来る奴がアブないからなんだけどさ。
 美汐は覚悟をして目をつぶった。
 リーダー格の少女が、合図をかける。

「せーの!」

 ごくりと息を飲み、硬く目を閉じながら振り返って手を伸ばす。
 へにょり、と何かやわらかい感触がした。
 なんだかよく分からないけど、なま暖かくてたゆんたゆんとしてて、とても心地よい柔らかさがある。
 間違いない、これは肉の感触だ。美汐の手は相手の体に触れたのだ。
 しかし、この柔らかさはいったい何なのか?
 自分の胸でもこうはいかない。いや、美汐の胸は決して大きくはないが。
 しかし、それでも人体のどこにこのような柔らかさを備えた肉があるというのか?
 好奇心に負けて、恐る恐る目を開ける。

「あふん」

 なにやら色っぽい声が頭上から降ってくるのと、自分の手がフンドシのサイドから闖入状態であることに美汐が気付いたのはほぼ同時だった。
 つまり、美汐がその手に感じていた心地よい部位の正体は、久瀬のおいなりさん……ということになる、
 ついでに、リーダー格の少女はリーダー格の少女で、フンドシの前掛けに手を当てていた。
 何でこんなとこに? と思うかもしれないが、目を閉じて逃げ腰の体勢で手を伸ばしたら姿勢が低くなるのは当たり前である。
 姿勢を低くして手を伸ばせば、手が久瀬の下半身に伸びるのも、これまた自然な流れだ。
 ただ一つ、逆走を続けてた久瀬が、何故その一瞬だけ正面を向いたかということを除けば。
「ふふふふ、激しいな君達。いいとも、心の準備は出来ている。さあ、僕の名を呼びたまえ。『久瀬ちゃんみーつけた』と。切なさと悲しさの中に、とびきりの愛情を込めて。そんな響きを僕は求めている。さあ、僕の中に来い!」
 怪しい乳首ぱんぱんポーズで、シャシャカと前方カニ歩きで近寄ってくるオールグリーンの悪魔。
 フンドシに刺繍された『久瀬和王』の文字が、固まったままの美汐と少女の目の前で金色の輝きを放つ。

「いやああああああっ!」

 もう、お行儀もツッパリもあったもんじゃない。
 美汐もリーダー格の少女も、悲鳴そのものな絶叫を上げて一目散に逃げ出した。
 その後を、久瀬が怪しい前方カニ歩きで追いかける。シャカシャカ、シャカシャカと。
「もう、いったい何なんだよアイツは!? 生徒会長だろ!? 頭おかしいんじゃないか!? ミッシー、お前が名前呼んでやれ!」
「嫌ですよ! あれの名前を呼ぶくらいなら、舌噛んだほうがマシです!」
 完全に自分を見失ってる追跡者に、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら走る逃亡者。
 理解不能の追いかけっこが、また繰り返される。
 そんな中で、美汐は自分が笑っているのに気が付いた。
(……なんだ、笑うのってこんな簡単なことだったんだ)
 湧き上がるよく分からない笑いの感情を堪えながら、必死に逃げる。
 あんなアブない奴に追いつかれたらタイヘンだ。
 だから、逃げる。全力で。でも、それがおかしくてたまらない。
 鬼なのに。もう相手は正体不明の野人でもないのに。
 なのに、自分は逃げている。
 それも、今日までずっと険悪だった人間と並んで騒ぎながら。
 少女は解放の時を待っていた。


 数分後、久瀬は前方カニ歩きが祟って階段から転げ落ち、笑いながら悶えているところを鬼達に取り押さえられた。
 この男、本当に何をしたかったのだろうか?
 まったくもって、はた迷惑極まりない自分の解放である。
 10数年分のストレスを溜め込んだ男がキレるとここまでヤバい、ということを誰もが思い知ったことだろう。
 この後、校内に存在し続けていた反生徒会なる組織は同情からか自然解散の方向に向かう。
 クールランニング、誰が言ったか、後に久瀬の走りはそんな名前の学校伝説として語りつがれた。
 それが良いことなのか悪いことなのかは置いておくとして。





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