6.黄金虫と真鍮虫

 14時40分。某所。
「ふふふふ、随分ほぐれてきたじゃないか」
「うぐぅ……もうやめてぇ」
 相変わらずここは燃えていた。
「祐一君、お願い……これ以上は……」
「これ以上は何かな? 何がして欲しいのだね? さあ、口で言ってみたまえ」
「……そ、そんなことボクの口からは言えないよ」
「まだ硬さが取れてないな。こいつか、こいつがそうさせるんだな」
「わわわわっ、何するの!?」
「消えてなくなれ! グッバイ、イチゴパーンツ!」
「そ、そんな柄入ってないよっ」
 恥ずかしさから口をモゴモゴさせていたあゆだったが、下着を抜き取られたらしい。
 いくらスカートの裾が短いからといって、その行為はどうかと思うぞ祐一。
 立ち姿勢からパンツを抜き取られてしまうあゆの無防備さも問題だが。
「んんんん、もうたまりませんなあ。このなだらかな肌触り。女性にこのような部位を用意した神様は偉い、実に偉い」
「ひゃうううう、どこ撫でてるの!?」
「布越しに弄るのもいい。だけど、やっぱり股間は生に限る」
「な、ななな、真顔で何言ってるの!?」
 律儀に祐一の発言一つ一つに恥ずかしがてみせるあゆ。
 それが楽しいから祐一はわざと口に出しているというのに、まだ気付かないのだろうか?
 実に天然の弄られ系である。
「あゆ」
「……なに?」
「俺、あゆが好きだ」
「……えっ?」
「俺、あゆのここが大好きだ」
 さすりさすり。
「うぐぅーーーっ! ボク自身を愛してよぉ!」
「安心しろ、ここだってあゆの女性自身だ」
「意味がちが……ひゃううう」
 念のために言っておくが、ここは学校である。
 こんな行為が教師にバレたら、停学を食らうのは言うまでもない。
「祐一君、これ以上はよくないよ。ここ学校……」
「そうは言うがな、あゆ。こんな密着した状態で、大人しくしていられるわけがないだろう。このまま7時間も我慢が出来るか? 出来るわけない。だったら、7時間かけてあゆをじっくり愛してやろうと」
「見つかるって心配もしてよぉ」
「大丈夫だ。まさかこんなところに隠れているなどと、誰も思うまい」
 どこからそんな自信が湧いてくるのか、不安がるあゆに祐一はきっぱりと言い切った。
 まあ、あながち嘘ではない。
 もうすぐ残り時間が1時間を切るのに、まだ鬼がここを見つけていないのが何よりの証拠だ。
「さぁて、お次は――」
「……何をやってるんだ相沢」
「うぐぅ!?」
 突然『外』からかかった声に、『中』の二人が悲鳴をハモらせる。
 が、相手は幸いにして教師でも鬼でもなかった。
「おお、その声は北川か。驚かせるな。見ての通り、こっちは取り込み中だ。邪魔しないでくれ」
「邪魔はしないが、まずくないか? それは」
「ええい、やかましいな。ほれ、これやるから消えなハニー。ここにいるのがバレる」
「わわわっ、それボクのパンツ!」
 『中』からにゅっと伸びた腕の先にあった白い布が、別のところから伸びた手によってひったくられる。
 手が伸びた瞬間、スカートがまくれてあゆの大事なところが一瞬見えたのだが、北川は黙ってることにした。
「大丈夫だ。今のところこのあたりには誰もいない」
「そうか。まあ、お前がいると目立つから早くどこかに行ってくれ。話がしたいなら数分間くらいなら付き合ってやる。見ての通り俺は忙しい」
「……これは忙しいって言わないよ」
 あゆが小声で抗議するが、北川には聞こえなかった。
 無理もない。『外』には見えないとはいえ、半裸状態にされててすぐ傍に、別の男性が立っているのだから。
 いくらあゆが精神的に未熟とはいえ、これは恥ずかしい。
 何だかんだで、祐一以外の男性には裸を見られたくはないのだ。
「随分、面白いところに隠れてたんだな。生き残りの中にお前らがいるとは思わなかったぞ」
「ふ。まさかこんなところに隠れていようとは誰も思うまい」
「だろうな。たまたまここ通らなきゃ、多分オレが鬼でも最後まで気付かなかった。いや、こりゃ凄いわ。一見丸見えと見せかけて、一番の盲点なんだからな」
「で、話はそれだけか?」
「いや……」
 祐一達の横に並んで、北川が腰を降ろす。
 降りしきる雨をしばらく眺めて……。
「言いたいことがあるなら早く言え!」
「うおぁ!? 相沢、オレを殺す気かっ!」
「やかましい! 俺はな、殺(や)るのと姦(や)るのを邪魔されるのが一番嫌いなんだ! 用がないならさっさと行け!」
「耳元で叫ばないでよっ」
 言葉を選んでいると、いきなり横から飛んできた足に北川は大いに焦った。
 ここで蹴り飛ばされようものなら、下手すると命に関わる。
 『中』から悲痛な叫び声を上げるあゆといい、今日の祐一の暴君ぶりは誰にも止められそうにない。
 やれやれと溜息をつきながら、北川は立ち上がった。
「なあ、相沢。お前さ、美坂のことどう思う?」
「は? 香里? あいつがどうした?」
「いや、お前から見てどう見える?」
「……まあ、いい友人なんじゃないか。この俺様のいかなる武器にも勝る○△×を切り落とそうとしたまん腐れスッチーにしては」
「本当にそう思うか?」
「何が言いたい」
「時々不安になるんだ。美坂自身はオレ達のことどう思ってるんだろうか、ってさ」
「何だ? お前香里が欲しいのか?」
 そう言われる事を予想していた、と言わんばかりに顔をゆがめて北川は頭を押さえる。
 もっとも、『中』の祐一達にそれは見えないが。
「好きか嫌いか、そのどちらかじゃないといけないのか? オレは友人としての話をしてるんだ」
「面倒臭い話だな……。お前が友人だと思ってるなら、あっちもそう思ってるだろ。だいたい、それ言い出したら名雪とか俺はどうなるんだ」
「ん、水瀬と相沢はちょっと違うな。どっか引っかかるのは美坂だけだ」
「ああもう、だったら『コ・イ・シ・テ・ル』でいいだろ。萎える話はヤメロ」
「だから、そうじゃなくて……。ああ、もう、分かりやすく言ってやるよ。お前、美坂から話しかけられたことはあるか?」
「ん……? んー、んー? そういや、あんまりないな」
「で、お前の方から話しかけたことは?」
「……数え切れん。ああいう便利キャラは貴重だからな」
 何か香里のアイデンティティーに関わる失礼極まりない発言があったような気がして、北川は顔をしかめたが、言い争うとまた蹴り飛ばされそうなので黙っておくことにした。
 本当言うと、さっきのまん腐れスッチーもどうかと思ったが、北川だって命が惜しい。
 命に関わるのだ、ここで蹴り飛ばされたりなんかすると。マジで。
「な。だから気になるんだ。3年間、ずっと席も近かったからよく話しかけたりしてたけど、本当はウザいとか思われてたら……やっぱショックじゃん。見た感じ水瀬にはそんなことないみたいだけど、オレらは痛い奴とか思われてるんじゃないかって、気にならないか?」
「俺はまったく気にしない」
 同意を求めて振った話は、けんもほろろに拒否された。
 だが、北川は怒るともなく、その言葉に苦笑する。分かっていた、とばかりに。
「俺はあゆさえいれば、後はどうだっていい」
「だろーね」
 『中』には見えないだろうが、北川は祐一達に背を向けて手を振った。
「下らない話して悪かったな。んじゃ、頑張れよ」
「おう、終了の鐘を俺達のハッピーベルにしてやるぜ。がはははは」
「……そっちはほどほどにしとけよー」
 誰がオッ立つほど頑張れと言ったのか。
 祐一はもはやかくれんぼ大会の事など、忘れてしまってるのではないだろうか?
「うぐぅ、北川君行かないでーーっ。これ以上祐一君にされたら、ボク壊れちゃう」
 後ろから聞こえる祐一の雄叫びと、あゆの悲鳴に、北川はやれやれと頭を振って歩きはじめる。
「まったく、開けっぴろげなお前らが羨ましいよ……」
 ぼそっと漏らされた北川の小さな呟きは、後ろの祐一達には聞こえることなく雨の音にかき消された。




 場所を移して、2F廊下。
 香里の用意した秘策に、その場にいたものは言葉を失った。
 茶色のボディカラー、あまり頑丈そうに見えない装甲、割と御馴染みの直方体。
 奴の名はまさしく『ダンボール箱』。またの名を『ミカン箱』。
「……香里、これのどこが最終手段なの?」
「お姉ちゃん、今まで一番ヤケクソな手に見えますよ」
 名雪と栞の発言に同意するかのように、周りも『説明求ム』の表情で香里を見つめている。
 だから嫌だったのよ、と言わんばかりに頭を抱えながら香里は口を開いた。
「もう随分前のことよ。たまたま帰り道、北川君と一緒になってね……」


 話していたのは下らない内容。期末のポイントはどうだとか、明日晴れるといいなとか、よくある話だったわ。
 そんな時、突然北川君が足を止めたの。
 その先にあったのは大きなダンボール箱。丁度そこに置いてあるような、ミカンの大箱だったわ。いえ、オレンジだったかしら?
 とにかく、それを見た瞬間、北川君がこんなことを言い出したのよ。
「なあ、美坂。……ああいうダンボール箱を見ると、無性に被りたくならないか?」
「……は?」
 まさに『は?』よ、『は?』。いきなり何言い出すのよって感じ。
 戸惑ってるあたしに、北川君は語り始めたわ。
「何かとてつもなく孤独や心細さ感じる状況、例えば戦場で敵の中独りぼっちになったとする。そんな時、目の前にダンボール箱があったらどうする?」
「戦場って……。まあいいけど、どうもしないんじゃない?」
「そうだろうか? オレはあの箱を見ていると無性に被りたくなったんだ。いや、被らなければならないという使命感を感じたと言う方が正しいかもしれない」
「し……使命感?」
「ああ。そして被ってみると、これが妙に落ち着くんだ。うまく言い表せないが、いるべきところにいる安心感というか、人間はこうあるべきだという確信に満ちた安らぎのようなものを感じる」
 どう反応すればいいのよ、これ。
「わからないか?」
「ええ」
 何で同意求めるのよ。分かるわけないでしょ、そんなの。
「ならお前も被ってみろ。そうすればわかる」
「わかりたくないわよ!」
 当然、全力で否定したわ。


「……と、いうわけよ。無理矢理その時出てきた『戦場』って単語に話題転換したけど、今度はあの珍妙な部隊名聞かされるわで散々だったわ」
 はぁ、と凄く嫌そうな顔で、香里は昔語りを締めくくった。
「えっと、つまり……ダンボール箱を置いといたら、北川君はこれを被りに来るってことなのかな?」
 おずおずと名雪が香里の意図を確認する。
 そんなの確認するまでもない。今の説明からして、それ以外にありえないだろう。
「……お姉ちゃん、本気でそんなことが起こると思ってるんですか? 相手は人間ですよ」
 続く栞の言葉も手厳しい。
「じゃあ訊くけど」
 不審の視線を周囲から受けた香里は、腕を組みながら尋ねた。
「残り時間、北川君を追い回して勝てると思う? あと、まだ北川君を追いかけたい?」
 そう、生き残りは北川だけではない。
 北川を残り時間で捕まえられる保証もなければ、捕まえたところで他の生き残りを探す時間がなくなる。
 そして何より……。

「流石です美坂先輩! 最高の妙案です!」
「是非やりましょう!」

 全員、何らかの酷い目に遭わされたためか、これ以上の追跡を露骨に嫌がっていた。
「じゃ、みんな教室に隠れて。この階の廊下だけ手薄にしてれば、必ず北川君はここに来るわ」
 おーっ、と気合が入ってるんだか、ヤケクソなんだかよく分からない返事をして、廊下の鬼が全部近くの教室に入っていく。
 廊下が空になるのを見届けた香里と、ぼけーっと立ちつくしていた名雪を除いて。
「何やってんのよ名雪。ほら、あたし達も教室で待機よ」
「あ……うん」
 背中をばんばん叩いて、名雪を教室へ促そうとするが、名雪は浮かない顔でぼーっとしたまま動かない。
 やれやれ、と溜息をつきながら香里は親友を相手にすることを決めた。
「どうかしたの? こんな作戦、信じられない?」
「あ、ううん、そんなことないけど。……うん」
 そのどぎまぎした態度は、露骨にそう思ってる証拠でしょう……と言いたいが、どうも名雪が気になってるのはそれだけではないようだ。
 いつもなら何だかんだで引っ張っていけるのに、動こうとする気配がない。
 というか、そわそわと何か別のことをしたがってるようにも見える。
 香里がそれを尋ねてみようとすると、名雪の方から口を開いた。
「ね、香里。ちょっとトイレ行ってきたいんだけど、いいかな?」
「トイレ? 別にかまわないけど、我慢できないの?」
「う、うん。その……」
 少しどもりつつ、今度は赤い顔を横に向けながらぼそっと呟く。
「……大きい方だから」
 一瞬、廊下の時間が止まる。
 いや、女子高生(名雪)だって人間だ。出るものは当然出る。
 しかし、共学ならもう少し遠まわしな言い方をするものだろう。今の台詞を男子生徒が聞いていたら、どれだけ引くことか。
 少なくとも名雪は『ちょっと、オレ糞してくらぁ』なんてのが似合うオレっ娘ではない。
 香里の頭には、今まさに地上へ顔を出そうとしているデカいモグラが連想された。
「……そ、それは一大事ね。うん、分かったから、頑張ってきて。キメ時を間違えると大変なのよね、気持ちは分かるわ」
「香里って便秘?」
「な、なななな、何言ってるのよ。早く行かないと、お尻蹴飛ばすわよ!」
「わっ、蹴飛ばしてから言わないでよ〜」
 名雪の発言に動揺したのか、言わないでいいことまで語ってしまった香里は、顔を真っ赤にしながら名雪の尻を蹴り飛ばしたのだった。
 名雪はうーと恨めしそうに、お尻を押さえながら何処かへと去っていった。
 ねこさんパンツ? ……めくれてないよ。




 香里が教室に入ると、出迎えた栞と他のメンバーが首をかしげる。
 傍にいたはずの一人がいなくなっているからだ。
「お姉ちゃん、名雪さんはどうしたんですか?」
「トイレ。まあ、邪魔にならないから気にしないであげて」
 遠まわしな発言に、意味がわかった者はあまりいなかったようだが、どうでもいいことなので香里は気にしないことにする。
 入り口の窓から廊下を観察し、香里は呟いた。
「さて、北川君は網にかかるかしら」
「あ、北川さんです」
「何言ってるのよ、そんなにすぐ来るわけ……」
 ないでしょ、と言おうとした香里の口が止まる。
 栞を始めとした数名が指差す先、そこに確かに北川はいた。というか、出現していた。
「伏せ! 伏せ! Sit down!」
 慌てて、窓に張り付いていた全員にしゃがむよう手振りを交えて号令し、自身も身を伏せる。
 窓から鬼の姿が見えていては、待ち伏せの意味がない。
「お早いお着きでしたねー」
「早すぎよっ」
 のんびりのほほんと感想を漏らす栞に、香里がツッコミを入れる。
 香里の言うとおり、全員が教室に待機してからわずか30秒。
 いくらなんでも早すぎる。
 それこそ心の準備をする間もないほどに。
 心音を聞かれるんじゃないかと、香里は胸を押さえて必死に呼吸を落ち着かせる。
 窓に背を向けているので、廊下の様子は伺えない。
 果たして、北川はダンボールを被るのか?
「美坂さん」
「しっ、静かに。気付かれるわ」
 何かを尋ねようとした仲間に、右手で制止をかける。
 おそらく、ダンボール以前に飛び出して飛びかかろうという話だろう。
 しかし、それをするのはまだ早い。
「いい? 被るかどうかは問題じゃないわ。こんな廊下のど真ん中にダンボールがあったら、あいつも不審に思うはず。『何の箱だ?』って近寄ってくる可能性も高い」
「警戒心が必要以上にダンボールを警戒してしまうんですね」
「そういうこと。飛び掛るのは動揺してからの方がいいわ」
 小声で、今にも飛び出しそうな面々を納得させる。
 扉に耳をつけると、リノリウムの床を弾く足音が確かに聞こえる。
「来てるわ、こっち」
 北川は間違いなくダンボールに近づいてきている。
 その報告に、全員がごくりと唾を飲んだ。
 足音が少しずつ大きくなる。もはや、北川がダンボールに接近していってるのは疑いようがない。
 あとは被るか否か。
 香里達の耳に聞こえていた足音が間近で止まる。
 まさか、気付かれたのか? 鬼達の間に緊張が走った。
 だが、次の瞬間聞こえてきたのは……。

「おおっ!」

 という、北川の雄叫びだった。

「ダンボール箱が落ちてるぅ!」

 さらに続く歓喜の声に、息を潜めていた鬼達はずっこけそうになった。
 何故かは言うまでもない、『何がそんなに嬉しいねん』だ。
 そして、あたりの様子をきょろきょろ伺っているのか、しばらくの無音のあと、ダダダッと猛ダッシュする音が聞こえたかと思うと、ばこんと間の抜けた音が響き、それっきり静かになった。
 それの意味することは一つである。
 あまりにありえない北川の行動に、鬼達は何を言っていいものかと沈黙した。
「入っちゃいました……ね」
 ただ一人、ぽかんと口を開けて呟いたスクール水着を除いて。


 幾重にも張り巡らされた人垣。
 あたかも、教祖ダンボール箱様を崇拝するかのように、その箱は包囲されていた。
 もはや、蟻の這い出す隙間もない。
 こうなっては、もう中の北川も逃れる術はないだろう。
 しかし、箱は微動だにせず静かに佇んでいた。
「どうしちゃったんでしょうか? まさか、もう中にはいないとか……」
「そんなわけないでしょ。床に細工でもしてなきゃそんなこと……」
 今までのことから考えて、ありえないとは言い切れないだけに、香里もあまり強い口調で否定できない。
 とはいえ、床に穴をあけるなど禁則なのは言うまでもなく、北川がIN THE BOXであるのは間違いないはずだ。
「香里ー、これってどうなってるの?」
 人垣を押し分けて、トイレを済ませたらしい名雪が香里達の下へと戻ってくる。
 30名近くでダンボール箱を取り囲んでいる姿は、あまりに異様だったらしく、名雪は当惑顔だ。
「あ、名雪さんお帰りなさい。えと、信じられないんですけど……北川さんがこの中に入ってるみたいなんです」
 香里に代わって、栞が状況を説明する。
 ところが、説明されたというのに名雪は更に当惑の色を強めた。
 いや、説明した側の栞もどう理解したものかと困っている様子だ。
「……ほんとにこれって効果あったの?」
 心理学・生態学的に、いかなる作用が働けば人は戦場でダンボール箱を被るのか?
 そのメカニズムが解明されていない以上、今は事実を事実として受け止めるよりほかない。
「こんな手段まで使って、こんな包囲網まで敷いて、これで逃げられたら馬鹿よ! 開けていい?」
「オッケーです」
 後ろと前の最奥から手が振られる。
 準備は整った。あとはダンボール箱を取り去り、北川に触れるのみ。
 それで、長かった沈黙の聖戦にも終止符が打たれる。
 全員が頷くのを見て、香里はダンボール箱と向かい合った。


 まずは恐る恐るダンボール箱を軽く蹴ってみる。
 箱は揺れたものの無反応。いや、本来なら横にずれるはずのダンボール箱があまり動いていない。
 つまり、中にいる何かに引っかかって止まった。
 今度は、しゃがんでダンボール箱の取っ手になってるスリットを覗き込んでみる。
 が、中は暗くてよく見えない。
 開けた瞬間に煙幕、という展開も考えられるだけに慎重になっているだけだが、どれも安全確認には至らなかった。
 何をしてきても、この人の壁である。逃げ出せるはずがない。
 やはり最初からこうすべきだったかと頭を振って、香里はダンボール箱に手をかける。
 そして、その大きな箱を一気に持ち上げ、横に投げ捨てた。
 中から現れたのは……。

「……よっ」
「何で体育座りなのよ!?」

 何故か体育座りで箱に収まっていた北川だった。
 いや、箱に収まるにはこれが一番効率のいい態勢なのかもしれないが、そのいかにもあるべき場所にいるとでもいうような充足感に満ちた顔が鬼の面々には理解不能だった。
 そんな鬼達の気持ちを知ってか知らないでか、北川は立ち上がって大きく伸びをする。
 呆然として鬼達がその様子を見守る中、はっと気付いた栞が叫んだ。
「お姉ちゃん、タッチです!」
「はっ! そうだったわ!」
 慌てて香里は伸びをしている北川の体に触れる。
 ファーストコンタクトで発見の呼び上げは終了済みだ。つまり、鬼の香里が触れた時点で北川の負けは確定した。
 が、当の北川はというと悔しがるどころか、肩に触れた香里の右手を掴んで嬉しそうに笑った。
 何故この場面で笑うの? と香里が自分でもよく分からない恐れを抱く。
 いや、嫌な予感がしたのだ。喧嘩には勝っても、勝負に負けたんじゃないかという類の予感が。
 案の定、香里の怯えを感じ取って、北川は更に嬉しそうに笑った。
「へへっ、美坂サマがオレのアホなこと覚えてやがった」
「……うっ!」
 北川の勝利宣言とも取れる発言に、香里は顔をしかめる。
 そんな香里を横目に、当の北川はのんびりと伸びをして、得意げに語り始めた。
「いやあ、人の気配が薄いからこの階に降りてきたら、廊下の真ん中にダンボールが置いてるだろ。美坂以外そんなことする奴いるわけないし、そんなくだらない事覚えてただなんて、馬鹿らしいというよりかわいいじゃないか。こりゃ、もう引っかかってやらないと友人失格だなと」
 北川の言葉を聞く香里の顔がだんだん紅潮していく。
 怒り半分、恥ずかしさ半分というところか。
 まんまと北川にハメられたのだ。何に? たぶん魂的に。
「ザ・ペガサスも知らないだろうが、オレが一人だけ生き残った緊張感に耐えかねて転がっていたダンボールをつい被ってしまって墓穴掘ったのは1回だけだ。あのときは、当時のBIG・BOSSに随分怒られたもんだ」
「読めなかった……まさか、こんな馬鹿馬鹿しいこと確認するためだけにこの大会利用するなんて!」
 むきぃー! と実に悔しそうに地面を殴りつける香里。
 もうね、アホかとバカかと。
 今日び、ダンボールごときにマジで引っかかる奴はいないんだよ。
 一瞬でもそんな冗談信じて猿芝居させられたなんて、恥ずかしくて人に言えません。
 でも、それを大勢の前でやらされました。
 しかも妹の前で!
「うううっ、こんな恥ずかしい目に遭わされたの生まれて初めてよ。もう、穴があったら入りたい」
 人目をはばからずに、香里は泣き崩れた。
 そんな香里の背中をちょんちょんとつつく者が一名。
 涙を拭いながら香里が顔を上げると、そこにはにこーと微笑む栞が立っていた。
 ダンボール箱を香里の頭上に掲げて……。

「これ被ります?」
「い・ら・な・い・わ・よ」

 ふんがーとばかりに立ち上がって、栞の手からダンボール箱をひったくると、香里は乱暴に横に投げ捨てた。
 この上、ダンボール箱を被るなどという醜態を望むわけがなかろう。
 たとえそこが究極のプライベートライアンだったとしても。
 ……もとい、プライベートルームだったとしても。

「ははは、楽しかったぁ」

 いまだ動揺の収まらない香里に、満足げな様子の北川がずいっと近づく。
 そして、北川は胸に付けていたサバイバルナイフを鞘ごと取り外し、無言で香里の手に握らせた。
 香里の健闘を称える賞品だろうか?
 手渡されたそれを呆然と見つめる香里の肩を、慰めなのか北川がぱんぱんと二度軽く叩く。
「また遊ぼう、美坂」
 『グレイト!』とでも言うように、両手を前に突き出して謎のポーズを取りながら、鬼達に連行されていく北川の顔は実に晴れやかだった。
 同レベルの遊びで通じ合う。それは友人の間にしか成立しない、特別な等号なのだ。
 それが香里に通じたことに北川は大いに満足していた。
 きっと彼女は、卒業してもいい友人でいてくれる。
 高校生活で培った人間関係に、一つの大きな確証を得たのだろう。


 ぬくもりを一つ胸に、北川は勇退する。
 北川の去った廊下には、野戦服姿の生徒6人が列を成して、いつまでも敬礼を捧げていた。
 勝利が目的ではなかった。友情の確認、それが北川の本当の願いだった。
 たとえ、利用されたのだとしても、この任務に己の全てを捧げたことを悔いる者はいるまい。
 隊の指揮官として、時には厳しく仲間に当たった、部隊の父親のような男が『沈黙の聖戦』作戦に秘めた真意。
 その親父の背中にひとかけらの人情を見た時、子らは涙を流すものなのだ。
 彼らは大切な何かを守り抜いた。人として当然の何かを。
 その日、ようやくBIG・BOSS北川の戦争は終わった。




 北川が去り、廊下は再び騒がしくなり始めた。
 皆それぞれに次にどうするかを話し合い、何組かは率先して他の階へと散っていった。
 まもなく大会開始から6時間。
 全員慣れてきたもので、既に香里がいなくても独自の判断が取れるようになっていたのだ。
 と、いうか……。
「……はうぅ」
 肝心の指揮官が、いまだに魂抜けたような状態でへたっていたからなのだが。
 残された時間はあとわずか。
 勝って商品券を手にしたいと思う面々は、何もしないでいるのが落ち着かなかったのだろう。
 一方で捨てられた子犬のような目で、どこか遠くを見たままぼーっとしている香里。
 どうしてそこまでと思うかもしれないが、本人にとっては一生モノの大恥だったらしい。
 しかもまあ、そんな下らないことを覚えていて、必死に行動させられた対象は異性である。
 ただの気恥ずかしさではないのは言うまでもないだろう。というか察せ。
 この場に残るのは名雪と栞をはじめとした、最初に体育館で集ったメンバーの一部。
 面々は呆けたままの香里をどうしたものかと困り顔で見つめていた。
 だけど、最大の障害である北川がいなくなった今、早く探索を再開したい気持ちが、残るメンバーの中にあるのは一目瞭然だ。
 仕方なく、おずおずと名雪が進み出る。
「……香里」
「……何?」
「なんとなくだけど、わたし北川君の気持ち分かるな」
 香里はその言葉に何も言わない。
 拒絶がないことを確認して、名雪は言葉を続ける。
「香里ってさ、いつもどこか無理してるようなところがあったんだよ。本当に一緒にいてていいのかなって」
「そんなこと……名雪とは……」
「例えば、栞ちゃんのこと」
 妹の名前を出された瞬間、香里が短く『うっ』とうめいた。
 香里には負い目がある。
 うまく説明出来る類のものではないが、妹の存在を誰にも語ったことがない。
 いや、ひた隠しにもしていた。
 一番親しくしていると思われていた名雪にさえも。
「北川君とはちょっと違うかもしれないけど、わたしも心配だったかな……無理して明るく振舞ってるようなところがあったの」
「そんなつもりは……無かったわよ。名雪のことは、その……親友だって……思ってる」
 自信がないのか、それともそんな言葉を今更ながらに使うのが恥ずかしいのか、香里は顔を伏せた。
 祐一がこの学校に転校してきて、一度栞のことを香里に訊いたことがある。
 その時、確かに香里は答えた。
 それは誰? と。
 しかし、その言葉が嘘だったことは思わぬところから露見する。
 入院先の病院で栞とあゆがばったり出会ってしまったのだ。
 あゆは祐一の恋人であり、そこから栞の存在が祐一経由で名雪達に伝わるのも時間の問題だった。
 そのうち、あゆの奇跡的な回復に勇気を持った栞は手術と治療に耐え抜き、あゆに遅れること1ヶ月、退院し、復学も果たした。
 今では、一緒に登校する姿や、食堂で姉達と同席するということも日常化している。
 だが、やはりそんな中で疑問に思われることがあった。
『何故嘘をついたのか?』『話しても楽にならない程度の間柄だったのか?』
 口にこそ出さなくとも、その疑念は元からあった壁のようなものを一層際立たせ、何か重苦しいものが香里の周りには漂っていた。
 だとすると、北川がああまでして友情の確認をしてみたく思ったのも理解できない話でもない。
 香里と特に親しい者では、祐一は現在あゆしか見えておらず、名雪はどっちかというと引っ込み思案、たまたま順番的に北川がそこにいたということである。
 気まずさから顔を伏せたままの香里に、名雪は穏やかな安堵の表情を浮かべて語りかけた。
 大きく踏み込まれ、えぐられてしまった香里の心を癒すかのように。
「でもね、よかった」
「え?」
「あんな風に必死になってる香里を見て安心したよ。やっぱり、わたし達のことだって見てくれてたんだなってわかったから」
 そう言って、にこっと笑った名雪に対して香里が顔を上げる。
 その目には涙がうっすらと光っていた。
「……馬鹿。どうしてこいつは、こういう恥ずかしいこと平気で言えるかな」
 照れているようだが、香里は嬉しそうに笑っていた。
「わ、わたしだって恥ずかしい時は恥ずかしいよ」
 何か馬鹿にされたような発言に、名雪が慌てて抗議する。
 が、すぐに先ほどの表情に戻って言った。
「でも、うれしい時はうれしいって言いたいもん」
 その言葉を聞いて、香里は何かおかしそうに「ふふっ」と呟きながら涙を拭った。
 彼女にどこか付きまとっていた陰のような印象は……もう、ない。

「さて、お姉ちゃんも立ち直ったことですし、私達もラストスパートいきましょう」

 栞の号令に、残ってた者たちからおーっという声が上がる。
 ひたすら元気な妹の姿に苦笑しながら、香里も腕を上げた。
「そうね、あと1時間。一番の厄ネタが片付いたし、運がよければ他の人が残りを捕まえてくれるかも」
「しかし、まだ終了の合図がないってことは、いったいどんな人がどんなところに隠れてるんでしょう? 北川さん追いかけ回して、もう校舎のほぼ全部探したと思うんですけど」
 栞の発言に、うんうんと頷く面々。
 前半の掃討作戦に加え、北川騒動であれだけ校舎中洗ったというのに、まだ大会は続いている。
 すなわち、これでもまだ見つかってない者がいるのだ。
「ここまでやってて見つからないってことは、よっぽど奇抜な場所に隠れてるわね。誰が隠れてるか確認できないかしら?」
 その者を知ってる人間なら、どういうところを好むか、またどの程度のことをやれるか見えてくるものがある。
 人数も絞られてきた現在、それはそこそこ有効な手がかりともなるだろう。
 しかし、そんな香里の思惑を一年生の女子生徒が否定する。
「あ、駄目なんです部長」
 香里と同じクラブの後輩だ。というか、現在この場に残っているのは名雪と香里が部長を務めるクラブ+栞の10数名である。
 それはともかく、何が駄目なのか? 一堂は首を傾げる。
「お昼前に捕まえた人連行していったら、体育館で名簿管理してる先生に訊いてた人がいるんです。生き残りの名簿見せてもらえないか? って」
「駄目なの? そんなの規定にないじゃない」
「ええ、訊いてた人たちもそう抗議してたんですよ。でも、プライバシー保護とか最近うるさいから、見つかってない人の名前は隠したほうがいいって見解らしいです」
「……ご立派な職業倫理だこと」
 はぁ、と後輩の説明に香里がため息をつく。
 ルールの裏を突こうにも、運営側の良識見解を持ち出されてはどうしようもない。
 それなりに納得のいく理屈でもある。
「まあいいわ。こうなったら最後は閃き勝負よ。まだ調べてない盲点、皆で考えながら調べていきましょ」
「さんせー」
 もう徒党を組んで練り歩いたところで、誰も見つかりはしないだろう。
 それで見つかるなら、これまでの6時間で見つかっているはずである。
 だから、もう大人数は必要なかった。
 逃亡を阻止できる最低限の数がいればいい。
 思うに、かくれんぼの本質は誰もが思いつかない盲点への侵入と、その探索である。
 開始からまもなく6時間。隠れ側も鬼も出せる全てをを使い尽くした。
 思うままに隠れ、思うままに探す。
 ここにきて、大会はかくれんぼの基本へと還ってきたのだ。


 キーンコーンカーンコーン……


 鳴り響くチャイムに、皆が顔を上げる。
 残り一時間を告げる鐘だ。
「さて、中野先生の放送の時間ね」
「残り何人になってるでしょうか?」
 もはや御馴染みとなった、生き残り人数の放送。
 その最後の放送が今始まる。

『準備いいですか?』
『あー、ちょっと待ってください。ネクタイ直します』
『これテレビじゃないですから格好は気になさらないでも。それにほら、私なんて蒸し暑くてこんな格好ですし』
『おお、それもそうでしたな。では、私もズボンなんぞ脱いでしまいますか』
『やはり、男の夏はシャツ一枚に縞パン一丁ですな』
『ははは、いやまったく。あ、うちわ使います?』
『ああ、こりゃどうもどうも』

 ……何この会話?
 小声ながらもスピーカーから聞こえてきたのは、中年男性二名が楽しげに談笑している様子だった。
 しかも、二人揃って放送室でパンツ一丁になっているらしい。
 放送を聞いてた生徒の目が、一様に点になる。
「い、今の声、石橋先生?」
「何やってるのよ、放送室で……」
 特に、同席しているらしき声の主に覚えがある者の驚きは大きかったようだ。

『じゃ、始めますか。3、2、1……スタート』

 小声とはいえ、放送開始前の準備が聞こえていていいのだろうか?
 そんな疑問の渦巻く中、スタートが告げられる。

『ども、解説の中野です。残り1時間。いやあ、途中何度も何度ももう終わりかって思いましたが、皆さんよく頑張りました。途中終了にならなかった記念に、素敵なゲストをお迎えしてます』
『どもども、ゲッチュ石橋です』
『いやあ、かくれんぼ……私達も参加したかったですなあ』
『ええ。なんと言いますか、童心に還って一緒に遊びたい気持ちが沸々と湧いてきます。まあ、我々もいい年した大人ですし、教師として裏方に徹するべきでしょう。裏方も裏方なりに楽しいものですよ』
『そうですね。とはいえ、やはりこういう競技で健闘しているのが自分のクラスの生徒だったりすると、担任としては嬉しいものです』
『まったくその通りですね』
『ゲッチュ石橋さんのクラスは大健闘ですね。生き残り5人のうち、2人が石橋学級なんですから』
『いや、ははは。お呼びいただき、ありがとうございます。やはり担任冥利につきるというかなんというか』
『I know.I know. 分かります、感無量というやつですな』

 ひたすらノリノリで話を進める、放送室の縞パン中年二名。
 ところで、ゲッチュ石橋って何さ?
 昼間から酔っ払ってるのか、怪しい芸名に、彼を知る生徒達は顔をしかめずにはいられない。
「な、何がしたいのよ、あの担任は……」
 そのうちの一人、美坂香里はただ唖然としてスピーカーを見つめていた。
 いや、あまりのハイテンションぶりに、スピーカーを眺める全生徒が放心状態である。
 しかし、そんな中、香里の袖をくいくいと引っ張るものがいた。
「香里、ちょっといい?」
「何よ、名雪?」
 振り返った香里の前にいたのは、深刻な表情をしている名雪だった。
 深刻というより、なんともいやーな顔をしている。
「どうしたのよ、そんな顔して」
「あのね、せっかく立ち直ったところ悪いけど、ごめん」
「は? 何? 何の話?」
「ひょっとしたら、このあと香里はもっとひどいショック受ける……かも」
 目をきゅっとつむって、香里の前にごめんねと手を合わせる名雪。
 だが香里には、いったい何のことかサッパリ分からない。
 そんな戸惑いをよそに、放送は続いていく。

『まあ、ここまでの健闘を称えて、クラスの生徒達には勝っても負けてもジュースくらい奢ってやらにゃなあと思いましたね』
『よっ、中野先生太っ腹。このゲッチュ石橋もそれに倣わせてもらいます』
『それとは別に、生き残ってる5人には中野特別賞を進呈しましょう』
『ほうほう。して何を?』
『私が愛用していた育毛剤が丁度5本ありますので、それを差し上げようかなと』

 いらねー。
 と何人の生徒が思ったか知らないが、そんなものを進呈されて喜ぶ高校生がどこにいるのか。

『愛用していた……とは?』
『ほら、この通り、今は貧乏毛が無しな状況でしてねえ。今じゃあ、生徒にアデランスの中野さんとか言われる始末ですよ』
『まったく、若い連中は髪の恐ろしさを知りませんからな』
『私だって、好きでハゲになったわけじゃありませんよ。便器に頭突っ込んで頭洗う、あんな学生生活さえなければ……』
『あー、それ私もやりましたよ。公衆トイレとかの水タンクに洗剤入れて流すんですよね。そこまでして水道代浮かさないと食っていけなかった』
『あれは髪に悪いですね。本当に……当時の学生生活は貧しかった』
『ええ。同年代の人なら、みんなやっていたでしょうなあ』

 お前らだけだ! と、同年代の同僚が心の中でどれだけ抗議したかはさておき。
 黙って放送を聞いていた香里は、首をかしげながら訝しみの視線を名雪に向ける。
「……たしかに、ショッキングな内容ね。酔っ払ってるとしか思えないけど」
「ち、ちがうよっ」
 慌ててぶんぶんと首を振る名雪。意味するところは、こんなの聞いてません、だ。
「あのね、さっき本当はトイレに行ったんじゃないの」
「へ? あの北川君を捕まえる前?」
「うん。うまく抜け出さないと気付かれると思ったから」
「……は? 気付かれるって、何に?」
 いったい、名雪は何のことを言ってるのか?
 香里には皆目見当がつかない。
 嫌でもすぐあとに香里は現実を知ることになる、そう思ったのか名雪は疑問に答えず言葉を続ける。
 いや、本人にすれば、明言するほどの勇気は持てなかっただけかもしれない。
「放送室に行って、中野先生にお願いしてみたの。残ってる人を紹介して褒めてあげたらどうですか? って」
「まあ、モノは言いようね。褒められて嫌がるのはひねくれ者だし、上手くやったじゃない。それで、中野先生は?」
「うん。『それはいい案だ、是非やろう』って張り切ってたよ」
 プライバシー保護の壁を打ち破る名雪のうまい言い回しに、香里はうんうんと頷く。
 だが、名雪はそんな満足げな香里の姿にますます渋い顔をする。
 はっきり言って、名雪自身、自分は頭が回るほうだとは思っていない。
 だからこそ、余計にかわいそうに思えることもある。
 ここまで言っても、香里は何も不思議に感じていないということだ。
 それだけ香里の目は曇らされている。
 いや、それだけ香里は信じきっているのだ。

 ある人物の嘘を。

 何の警戒もないところに襲いかかる突然の裏切り。
 いったい、それでどれだけ香里がショックを受けるのかと思うと、名雪は顔をしかめずにはいられなかった。
 嘘をついていると思しき人物に、さりげなく視線を送る。
 本当にこんなことしてよかったの? と。


 香里と名雪の会話の後ろでしばらく続いていた、中年二名のコントが静まる。
 数秒の間を置いて、スピーカーは再び音を発し始めた。
 絶好調で最高潮を迎えた、ハイテンショントークを。

『さーてさてさて、それじゃあ中野特別賞発表しますよ。ゲッチュ石橋さん、どうぞ!』
『ほいきた。まずは、なんとなんと、ゲスト参加の子が大健闘しております。生存者の1人目は、ゲスト月宮あゆさんです! ……あ、やらせじゃないからね、一応。出来すぎだとか思わないように』
『それでは私、中野めが2人目と3人目を一挙紹介。ゲッチュ石橋クラス、相沢祐一、斉藤……ん? 何だこの漢字、読めないぞ。まあいいや相沢君・斉藤君の両名です。おめでとう! おめでとう、ゲッチュ石橋先生』
『どうもどうも。相沢、斉藤、勝ったらいい店紹介してやるから焼肉奢れよーっ』
 お前、担任なら漢字難しくてフルネーム呼んでもらえなかった哀れな生徒を助けてやれよ。
 しかし、放送にそんなツッコミ入れられるわけもなく、紹介はずんずんと続いていく。
 それこそノンストップの勢いで。
『続いての4人目は、僕らの生徒会長さんです。おめでとう!』
『おめでとう! 久瀬カツオ君!』
 あのねえ、あんたら人の名前くらいちゃんと呼んであげなさいよ。
 いくらなんでもカツオはないだろ、カツオは。
『さて、現時点の生き残りは5人』
『最後の一人は……と、中野先生読みます?』
『ええ、この子ほんとによく頑張ったと思います。私のクラスの子ですし、私に紹介させてください』
『そうですねえ、病み上がりだっていうのに、ここまで粘ったのはそれだけでも賞賛ものですな。そんな最後の1人は!』
『1年B組、中野学級……美坂栞さん! ありがとう! 今センセーは、君の健闘ぶりに猛烈に感動しているぞ!』

 『おめでとう』だの『ありがとう』だの『さよなら、さよなら』だの放送締めの言葉が流れていく。
 が、そんな音など、ぽかんと口を開ける美坂香里の耳には遠い世界のざわめきだ。
「……は?」
 しばらくの放心状態のあと、やっと香里の口から出た言葉といえば、実にマヌケな一言だった。
 まさに、『は?』である。
 香里だけではない、今まで行動を共にしてきた面々も同じような顔をして一点を見つめている。
 すなわち、ぶすっと膨れた顔で、鳴り止んだスピーカーを恨めしそうに睨んでいるスクール水着姿の少女を。
 ただ一人、呆れた表情でため息をついた名雪を除いて。
 目を点にしたままの香里達を横目に、名雪は呟く。
「……やっぱりそうだったんだ」
 栞と名雪をきょろきょろと交互に見つめながら、香里は我に返った。
 そして、一人納得している名雪にたいそう混乱してる様子で問いかける。
「ど、どういうことよ名雪。やっぱりそうだったんだって!?」
「どうもこうもないよ。みんな栞ちゃんに騙されてたんだよ」
「えっ……? それって……?」
 まだ合点が行かないのか、香里は額を押さえて混乱している。
 いや、よっぽど事態が指し示す意味を信じたくなかったのか。
 だが、名雪の次の一言が否応にも真実を理解させる。
「だからね、栞ちゃんは隠れ役の人だったんだよ」
「なっ……」
 事態を飲み込み、言葉を失う香里。
 いや、他の面々もようやく事態が飲み込めたようだ。
 それほどまでに、全員が嘘を信じきっていた。

「なんだってーーーっ!?」

 驚愕の叫びが校舎を揺らす。
「ううっ、なんてことしてくれるんですか。中野先生のバカヤローです」
 スクール水着の少女が発した悪態を消し飛ばして。


 よろよろと頭を抱えながら廊下の壁に寄りかかる香里。
 まだ信じられないといった様子で、名雪に問いかける。
「名雪……どこで気付いたの?」
「偶然だよ。北川君が粉まいてくれたおかげ。あの時の栞ちゃんの態度、恥ずかしいのを無理矢理誤魔化してるように見えたんだもん。水着のあんなところに……と、とにかく、よく考えたらあの水着って名前入ってるから、隠れ役なんじゃないかなって」
 水着のあんなところに割れ目みたいな『すじ』と言おうとしたようだが、恥ずかしさのあまり名雪は顔を赤くしてぶんぶんと頭を振った。
 つまりまあ、口に出すのも恥ずかしい状態の水着を、栞が意地になって着ていたのに違和感があったということだ。
 常識的に考えれば、それくらいすぐに分かったはず。
 しかし、大会登場時の行動から、『変な趣味のある娘』という理解で、その違和感を誰もが片付けてしまったのである。姉さえも。
 それが本人にとってありがたい才能なのか、悩みの種なのかはともかく、思考のワンテンポ遅い名雪だけが、違和感を素通りさせなかった。
「全ては……巧妙に仕組まれた罠だったのね」
 沸々と、香里の頭の中に記憶が蘇る。
 事態を理解した今、回転の速い彼女の頭脳は次々とカラクリの点を浮かび上がらせていく。

『あ、お姉ちゃんも鬼だったんですか。私も鬼ですよ』
『お姉ちゃんお姉ちゃん、絶対勝ちましょうね』
『お姉ちゃんがクラブの人たちまとめて最強の鬼軍団作れば、勝ったも同然ですよ』
『かっこいいところ見せてくださいねー』

 大会前に交わした妹との会話。
 年甲斐(?)もなく張り切ろうと決めた。
 名雪に部隊を組織する計画まで持ちかけて……。

『何でって、パンフレットに『推奨』って書いてましたよ? まったく、誰も守ってないんですから『めっ』です』
『はいっ。お姉ちゃんの側が一番安全ですから』
『はい。後で追いかけますから先に行ってて下さいです』
『そうですよ、お姉ちゃん。まだ3時間以上あるんです。勝機の一つや二つ、またすぐに飛び込んで来ますよ』
『冗談じゃありません。スクール水着を脱ぐくらいなら死んだほうがマシです。見てくださいお姉ちゃん。いたいけな男の子たちの反応を。水着に浮かんだ一本線、これは最大のチラリズムであり悩殺奥義だったのです。感謝しますよ北川さん、よくぞこの悦びを私に教えてくれました』

 大会中に妹のした発言。
 ああ、なんということか……。
 全て、自分を含めた鬼達を欺くためのものではないか。
「栞!」
 わなわなと震えながら、怒りの形相の香里が栞を睨みつける。
 が、当の栞はというと落ち着いたもので、逃げも隠れもせずその場に座っていた。
「何ですかお姉ちゃん。こうなった以上、もう逃げも隠れもしませんよ。訊きたいことがあるなら何でもどうぞ!」
 訂正しよう。
 栞はぶすっと不満全開の表情で、どかっとその場であぐらをかいていた。
 しつこいようだが、スクール水着で。
 小さい体のくせに何か妙に威圧感のあるこの態度に、思わず香里も怯む。
 が、それも一瞬だった。
 きっ、と栞を上から睨みつけると、香里は詰問を開始する。
「あなた……、鬼部隊をあたしに組織させたのは隠れ蓑を作るためだったのね?」
「ええ、そうですよ。人は石垣、人は城と言うじゃないですか」
 一人で歩いていては、いくらエキセントリックな格好をしていたところで誰かに『鬼とは違うんじゃないか?』と疑いをかけられる。
 だからこそ、鬼の部隊と行動を共にしている必要があった。
 その中に混じっていれば、誰も栞が『鬼じゃない』などと疑わない。
 名前を身につけてるのも、スクール水着なんだから……と納得させられてしまったのだ。
「率先してあたし達を応援してたわ」
「名演技だったでしょう? 誰も私が鬼じゃないなんて思ってませんでした」
「開始直前にトイレで体育館の外に出たのも……」
「隠れ役が体育館にいるのは禁止事項ですからね。あのあとちゃんとトイレ行っておけばよかったと後悔しましたけど、幸いそこでは怪しまれませんでした」
 香里の頭の中で、どこまでも巧妙に、そして姑息に振舞っていた妹の行動の全貌が明らかになってくる。
 カラクリの点が線で結ばれていく。
「まさか、プライバシーがどうのとかって……あなたが進言したんじゃ?」
 そして、それは一番考えたくない想像へと辿り着いた。
 訊くまでもなく、香里はその答えを知っている。
 だから、震えが止まらなかった。
 なんという、なんという恐ろしいことをしでかしたのだ、血を分けた実の妹は。
 怯える姉に、せめてもの仕返しとでも言わんばかりに、にっこりと、それはもう楽しそうに栞は笑みを浮かべた。
 その姿、まさしくプチ・デビル。
「ええ、そうですよお姉ちゃん。全て私がやったことです」
 全てがご破算になった今、半ばヤケクソになった栞は完全に開き直っていた。
 水着のどこに隠し持っていたのか、お気に入りのストールをマントのようにまとい、ふぁさと翻して、香里達に背を向ける。
 プチ・デビルどころではない。
 もう、本人的には大魔王にでもなったようなノリである。
「みなさんはよくやってくれました。この7時間、私の一人勝ちのために貢献してくれて、本当にご苦労様です」
 ぷるぷると、幻のワイングラスを持つ手が震える。
 大魔王は怒りに任せて、ちょうど一杯空いたそれを地面に叩き付けた。
 がしゃああん、と架空のグラスが粉々に砕け散る。
「本当はこうなる予定だったんですよ! 何てことしてくれたんですか、名雪さん! それとここにはいないですけど、北川さん!」
 怒りの大魔王の背後に見えた紅蓮の炎に、名雪は慌てて香里の背中に避難した。
 逃げる必要などどこにもないのだが、怖かったらしい。かなり。
 だがしかし、大魔王には姉がいた。
 姉もまた、大魔王であった。
 栞の逆切れに、今度は香里が逆切れ……というか正当切れをする。
「こっちの台詞よ、馬鹿栞! あなた、やっていいことと悪いことの区別くらい付かないの!?」
 とんでもないにもほどがある。
 鬼を騙し、隠れ役を騙し、あまつさえ運営まで騙くらかして自分の道具と化していたのだ。
 名雪が偶然気付いていなかったら、栞の一人勝ちのために鬼達は頑張っていたことだろう。
「酷いことを言いますねお姉ちゃん。病み上がりの私に、これ以外の方法で勝つ手があったとでも?」
「うっ、それは……!」
 確かに正論だ。
 復学したとはいえ、栞は病み上がり。
 とてもではないが、まっとうに勝負してこの大会を勝ち抜ける体力はない。
 だからと言って、おいそれと許せるものだろうか?
「例えそうだとしても……! あなた、あたし達騙すのに良心の呵責とか感じなかったの!?」
 特に、姉を騙したあたりなんか。
 納得行かない。納得できるわけがない。
 誰のために張り切ってこの大会に参加したのだろうか?
 これだけ骨を折った姉に、この仕打ちはないだろう。
 だが、怒り狂う姉に栞はにこーっと明るく微笑んだ。
「それがどうしました? お姉ちゃん達が最後に歯軋りして悔しがる姿を、この目で見たかったですよ」
 もはや、ヒールに徹するのが楽しくて仕方ないのか、とんでもない暴言をさらりと言ってのける栞。
 そーいう悪ふざけなんだろうなあ、と表情と三流魔王クサいマントアクションから周りの人間は判断する。
 怒る気も起きない。というか、むしろ滑稽。
 ……が、そうでもない人も一名いた。

「あなたって子は……」

 もちろん、リアル姉。歯をぎりぎり、校舎の鉄骨をぎぃーぎぃー軋まさんばかりに体も震えている。
 来る、アーマゲドンだ、カタストロフィだ。ニゲロニゲロワレサキニ。
 ヤバい雰囲気を感じ取ったのか、数名が香里の周りから避難した。
「この、馬鹿栞っ! ええい、離しなさい名雪!」
「だ、ダメだよ香里っ。その消火器で何をするつもり!?」
 壁に吊るしてあった消火器をおもむろに引っぺがし、両手で抱え上げた香里を名雪が慌てて羽交い絞めにする。
 いくらなんでもそれはまずい。
 親友が公開殺人をするのを黙って見てられるものか。
「離して、名雪! あれには一度きついお灸を据える必要があるのよ! 大人のお灸ってやつを」
「は、離すわけにはいかないんだよ!」
 身を揺すって振りほどこうとする香里に、名雪は必死にしがみついていた。
 香里が完全に我を忘れてるのもあるが、解放すると周りにもとばっちり来そうな状況である。
 ゆえに、名雪は必死だった。必死だった、本当に。
 だが、狂騒シスターを前に当の栞はというと、一服でもするかのように大きく息を吐き出しながらのほほんとしていた。
 そして、ひとしきり暴れる姉を見つめた後、消火器を指差してにっこりと余裕の笑みを送る。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。消火器は安全ピンを抜かなきゃ使えませんよ」
 その言葉にはっとして、香里は頭上に掲げた消火器のグリップを確認する。
 ピンは付いていた。確かにこれでは消火器は使えない。
 抜こうと焦るも、名雪に羽交い絞めにされているのでうまく引き抜けない。
 が、一瞬の戸惑いの後に、香里はまたまたはっとする。
 そもそも自分は何のために、この赤い金属筒を手にした?
「って、殴るのに安全ピンなんて……わぷっ!?」
「わ、わわっ、何? 何なの!?」
 そう、消火器を『殴る』用途に使うなら、安全ピンなどあろうがなかろうが関係ない。
 むしろ、付いてる方が暴発を防げて安全だろう。
 それに気付いて、香里が栞を睨みつけようとした瞬間だった。
 何か大きなモノが上から降ってきて、香里と、彼女にしがみついている名雪に覆い被さる。
「ふっふっふ、その一瞬の隙が命取りです。ぐぅれいとな姦計は失敗しましたが、こうなったらこの身一つでとことんやってやろーじゃないですか! さらばですっ!」
 自分で姦計言うなよ、アンタ。
 周りで見ていた鬼達が呆れ果てるも束の間、栞はすたこらさっさと逃げ出してしまった。
 文字通り、スクール水着一枚の『この身一つ』で。
「ぷはっ! 何よこれ!?」
 もごもごと、覆い被さったものを投げ捨て、香里が悪態をつく。
 それは、見慣れた栞のチェック柄のストールだった。
 それを見て、何が起こったのか理解する。
 安全ピンに気を取られた一瞬の隙をついて、目くらましにストールを投げつけたのだ。
 それも、自分がプレゼントに送ってやったストールを。
 怒り心頭、『悪い子はいねーがー!?』なナマハゲもビックリの鬼の形相で、ふざけた真似をした張本人はどこかときょろきょろ辺りを見回す。

 ……いません。

 ストールで目隠しされている間に、栞はとっくにどこかへと消え去っていた。
 となると、香里の怒り矛先が後ろでぼけっとしてる鬼達に向くのは必定。
「ちょっと、あなた達! 栞はどうしたのよ!?」
「えっ? いや、あの……走って逃げちゃいましたけど」
「そんなことは分かってるわよ。何で追わないの!? あれ、あたし達のターゲットでしょうが! だいたい、何で道を開けてあげてるのよ!?」
 いやいや姐さん。アンタが暴れるから、みんな避難しちゃったんですよ。
 栞がそこまで狙って姉を挑発したのかは分からないが、香里が暴れたせいでいつの間にか全員後方避難してしまっている。
 つまり……栞の後ろは『逃げてください』とばかりにガラ空きだったのである。
 病み上がりだというのに、身一つで逃げようとするとは、何たる勝利への執念。
 死病を克服した少女の底力は、やはり伊達ではなかった。勝機が少しでもある以上、彼女に諦めの文字はない。
 アブない姉も原因だが、栞の見せた勇気とド根性に鬼達がしばし見惚れてしまったのも、栞をそのまま行かせてしまった原因だった。


 が、そうは問屋が降ろさない。
 香里に返事をしてしまった一年男子生徒は、自分の返事の早さを思い切り呪った。
「何をぼーっとしてるのよ! どこに行ったのか見てたなら、さっさと追いかけなさい!」
「は、はいいいっ!」
 もはや恫喝もいいところの香里の怒声に、哀れ男子生徒は半泣き状態で廊下を全力疾走していった。
 しかし、とばっちりをモロ受けた男子生徒も哀れだったが、もっと哀れだったのは大暴れした香里の方である。
 男子生徒が去った方角を、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら見つめていたが、しばらくして、ふらふらと力なくその場に崩れ落ちた。
 そして、何を思ったのか、傍に落ちていた北川専用ダンボール箱を……被ってしまった。
 名雪をはじめ、取り残された鬼達はただただ呆然とする。
 心理学・生態学的に、いかなる作用が働けば人は戦場でダンボール箱を被るのか?
 そのメカニズムが解明されたわけではないが、彼らは少し理解できた気がする。
 友人に恥をかかされ、妹には踊る阿呆を演じさせられ、そんな居たたまれない気持になった時……ダンボール箱はきっと我々に答えてくれる。
 そこには確かな安らぎ、そして癒しがあるのだ。

「水瀬先輩……どーしましょう、これ」
「うーん。しばらくそっとしておいてあげようよ。ね?」
「そう、ですね。じゃ、私達は残ってる人探しに行ってきます」
「うん。ふぁいとっ、だよ」

 まあ、だからと言って、愛情を込めて使おうとか、粗略な扱いはするまいとか、そんな感情をダンボール箱に持ったりはしないのだけども。
 少々困り顔のまま、鬼部隊は活動を再開した。
 全員いなくなった廊下に残されたのは、名雪と特大みかん箱のみ。
「香里、だいじょうぶ?」
「ううう、妹離れの通過儀礼と思って諦めるわよ……」
 箱から聞こえるすすり泣きは、全然諦め切れていない証だった。
 名雪は苦笑いしながら、箱の隣に腰を降ろす。
「栞ちゃん、あんなに元気になってよかったね。あんな妹いたら楽しかっただろうなって、わたしはちょっとうらやましいかな」
 天井を見上げる名雪の脳裏に浮かぶのは、同居している従兄弟とその大切な人の顔。
 それは名雪にとって兄弟姉妹みたいなものだけど、やっぱり血の繋がった姉妹とはちょっと違うのだ。
 香里のすすり泣きが止み、一瞬クスッという音が混じったのが聞こえて、名雪は安堵の表情を浮かべる。
 雨の音をBGMにした廊下で、ダンボール箱は静かにたたずんでいた。


 ちなみに獅子身中の虫こと栞は、先ほどの放送で鬼でないのがバレバレだったし、スクール水着の少女ということで少々有名になりすぎていた。
 逃走から数分も経たずに、あっという間に鬼に取り囲まれて御用となる。
 掟破りの頭脳戦で健闘し、大会を湧かせてくれた少女に鬼達が拍手を送ったのは言うまでもない。
 栞も捕まってからはじたばたせず、満足げに笑顔を浮かべて護送されていった。
 姉の個人感情はともかく、世の中まあそんなもんということだろう。
 一人勝ちしてから事実が発覚していたら、どう恨まれたか分からないけどさ。





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