5.沈黙の聖戦

『ども、解説の中野です。さて、3時間が経過した現在、生き残りは12名。うーん、辛うじて3時間以内の決着は避けられたようですが、もう限界でしょうかねえ?』




 退屈は人を殺すという。
 その言葉はこの大会において、こと隠れ役によく当てはまった。
「もの凄い鬼の数だ。とても生きた心地がしない!」
「こっちだ! って、こっちからも!?」
「うわあああっ、逃走不能! 逃走不能!」
「救援はまだなのか!? もうもたない、誰か何とかしてくれ! 誰か、援護を援護を!」
 運動場のグラウンドから狩り出された2人は、追い詰められて校舎の中へと飛び込んだ。
 ところが、グランドで200人近くに追い掛け回されたというのに、校舎内には更に怒涛のごとくの鬼集団が待ち構えていたのだ。
 体力に自信のある2人は、少々鬼に追い掛け回されたところで、グランドや中庭を走り抜ければ振り切れる自信を持っていた。
 それでグランドの脇の茂みに隠れていた2人だったが、なんと鬼役が200人近く徒党を組んでグランドに出てきたからさあ大変。
 いくら足が早くても、200人に包囲されては逃げ場もない。
 肝を潰した2人は、慌てて茂みから飛び出して逃走を図ったが、結果はご覧のとおりである。
 校舎内を右に左にと走って逃れようとしたが、そのどこからも鬼が湧いて出てくる。
 まるで全校生全てが彼らの敵になったかのような恐ろしい数を相手に、2人は完全に混乱した。
 おまけに、撹乱するために組んでいた4人のうち、残り2人は2人が追われているのをいいことに別の場所に逃亡。
 まあ、ざっと見ても300人以上いる敵を相手にチンケな撹乱など通じるはずもないだろうから、合理的な判断ではある。
 だが、追いまわされた2人にしてみれば、鬼が大挙して押し寄せてくるわ、仲間が裏切るわ、踏んだり蹴ったりだったのは言うまでもない。
「もう逃げ場はないわよ。観念しなさい」
「廊下は走っちゃダメだよー」
 遂に、両側を鬼十数名に囲まれ、グランドから続いた逃亡劇は幕を閉じた。
 香里と名雪にタッチされた2人は、精魂尽き果てた様子で体育館へと引っ張られていく。


 しかし、一体どこにこれだけの鬼がいたというのだろうか?
 連れて行かれる二人の背中を見ながら、栞は感心して言った。
「凄いですね。賞品もらえないのに私達より頑張ってませんか?」
「それだけ体育館で終了まで待ってるのが暇ってことよ」
「でも、よかったのかな? 捕まえた人たちに鬼の手伝いをしてもらうなんて……」
「捕まえた人を鬼役として使ってはいけない、なんて規定はないでしょ?」
 悪戯っぽく微笑む香里に、正直者の名雪は「うー」とあまり納得いってない様子だったが、何はともかく香里の呼びかけで集まった元隠れ役の生徒達の威力は絶大だった。
 まあ、体育館で待機してるのが退屈ということもあるだろうが、生き残ってる者達だけで賞金が山分けされることへの逆恨みも原動力だったのだろう。
 実はこれこそ久瀬の言っていた時間の過ごし方の抜け道で、明らかに一部は鬼役以上に張り切って生き残りを追いかけていた。
 そんな隠れ役からの造反組で、香里の指揮下に入ったのが150人近く。
 さらに、序盤の掃討作戦を見た鬼達がその効率よさに賛同して、100人近く新たに香里の指揮下に加わっていた。
 これが隠れ役にとってどれだけの脅威かは言うまでもない。
 香里が指摘したと通り、このかくれんぼ大会において隠れ役はあくまで孤独である。
 考えてみて欲しい。
 隠れ役からすれば、たった1人を相手に300人が血眼でくびり殺しにやって来ているようなものだ。
 おまけに、香里の指揮下にないバラバラに行動してる者も合わせると、500人近くが敵に回ってることになる。
 1対500、学校という狭い範囲でこれを生き延びるなどあまりに分の悪すぎる賭けだろう。


 と、一息ついている香里達の下に、一年生の女生徒が駆け寄ってくる。
 香里のクラブの後輩だった。
「美坂先輩」
「あら、どうしたの?」
「さっき逃げ出した残り2人ですけど、うちのクラスの人たちが捕まえたって言ってました」
「そう。さっきの放送で残り12人だったから、これで残りは8人以下ね」
 香里達の部隊は、確実に一人ずつ追い詰める作戦を展開している。
 つまり、標的にされたほうは絶体絶命だが、標的を逃れた者はまだ逃げる余地はあるのだ。
 しかしながら、校内にいるのは香里の鬼部隊だけではない。
 そちらの動きに気を取られていると、ばらばらにうろついている鬼達と不意の遭遇をしてしまうことにもなるのだ。
 哀れ、せっかく難を逃れたグランド組残り2人も、そんな最悪のご対面をしてしまったらしい。
「それでですね、先輩。言われた通り、捕まえた人の名簿を訊いてきました」
「どうだった?」
「えーっと、3年B組の北川潤さんって人はいないそうです」
 名前合ってたかな、と少々不安げに女生徒は答えた。
 それを聞いて、香里の顔色が変わる。マジと書いて真剣という表情である。
「やっぱり、最大の障害は北川君ね……」
 ありがとう、と女生徒に一言言って香里は腕組みをして考え込んだ。
 その様子を見て、名雪が不思議そうに香里の横顔を伺う。
「ねえ、どうしたの香里。北川君って、そんなに凄いの?」
「今回の隠れ役で一番の厄ネタよ。あいつ、お金が絡むと人格変わるから」
「ふーん……詳しいんだね、香里」
「ふ、深い意味はないわよ。名雪が無関心すぎるだけよ。睨まないで」
「……睨んでなんかいないよ〜」
 ぽけーっと、いつもどおりにマイペースな返事を返す名雪。
 香里はそれで、焦ってるのは自分だと気づいた。
 気づくと同時に相変わらずな親友への怒りが涌き起こってくる。
 両の手に握りこぶしを作り、不思議そうな顔をしている名雪の後ろに回りこみ……こめかみにぐりぐりと押し当てる。
 俗に言うウメボシだ。
「このっ、なんでこいつはピンポイントに際どいことを言うかなっ」
「わ、いたいよ香里。わたしが何したの〜」
「お姉ちゃんたち、みんな見てますよ」
 栞の冷静な突っ込みもむなしく、香里のウメボシがとどまることはない。
 そもそも、みんなに見られてるのは、そこのスク水妹も同じだろう。
「同じ部長でもあたしは苦労してるのに、あんたは平気でクラブに遅刻したりしてっ」
「それ全然関係ないよ〜。わたしいつも遅れてないよ〜。そろそろやめてよ〜」
 きゃあきゃあ怒声と悲鳴が混ざりながらも、どこか楽しそうな二人。
 まあ、女子高生の友情とはこんなものなのかもしれない。
 完全にクラクラになってしまった名雪を解放し、香里が次の作戦を提案したのはそれから五分後のことだった。




 同時刻、某所。
「祐一君、もうやめてぇ……体が熱くてぼーっとするぅ」
「んまっ、あゆちゃんたら感じちゃったのかしら」
「変な声出さないでっ。だって、祐一君がずっと胸を揉むんだもん……」
「んー、まーなー。揉めば揉むほどやわらかくなるこの感じが」
 もみもみもみもみもみもみ(エンドレス)
「なあ、あゆ」
「な、なに?」
「俺の前戯スキルもアップしたと思わないか? こう、3時間もかけてゆっくりゆっくり解きほぐしてだな」
「ぜっ、前……!? バカーーッ! こ、ここ、学校っ!」
「馬鹿だなあ、あゆあゆは。オフィスラブ、スクールラブ、たまにはそういう趣向がいいんじゃないか」
「やだやだやだっ。ボクの登校記念日を汚さないでよーーっ」
「そうは言っても、ここは正直だぞ」
「ひうっ、パンツに手を入れ……うぐぅ、そんなところさすらないでぇ」
 すりすり。なでなで。
「さぁて、外も雨だし……俺達も濡れようぜ」
「ゆ、祐一君のヘンターーーイ!」
「ほらほら、暴れると危ないぞー」
 いや、ほんとこいつらどこで何やってんだ。




 ザザザ、ピー。
 雨の音に混じって、耳障りの悪い雑音が小さく響く。
 北川潤は、物陰に身を潜めて、無線機に耳を当てた。
「あいよ、こちらBIG・BOSS」
『こちらザ・グリズリー。すみません、BIG・BOSS。全員捕まってしまいました』
「なにぃっ!? 5時間は粘れって言っただろ、おい! ザ・バットとかザ・ローズはどうなったんだ」
『それが、真っ先に……。鬼の行動展開が恐ろしく迅速で』
「……期待の新人じゃなかったのかよ」
 はぁ、と溜息をつきながら、北川は空を見上げる。
 どうやら、BIG・BOSSというのが彼のコードネームのようだ。
「なんか美坂が不穏な気配見せてたけど、あいつが鬼まとめてるのか?」
『の、ようです。たぶん、ザ・ペガサスが美坂さんに入れ知恵してたんじゃないかと』
「あんにゃろ。だから、コードネームに空想動物使うのは嫌だったんだ」
『あとで軍法会議にでもかけます?』
「あー、今のはボヤきだ。気にしないでくれ。別にあいつも恨みがあってオレらに敵対行動取ってるわけじゃない。鬼って任務を忠実にこなしてるだけだ」
『センパー・ファイ。常に忠実であれ、ですか』
「しかしまあ、面倒なことになったなあ。あと4時間オレ一人か」
 香里は北川を、一人で戦い抜く人物として警戒していた。
 しかし、厳密に言うとそれは正しくない。
 北川は香里同様にこのかくれんぼ大会の恐ろしさを熟知していた。
 一人で戦い抜くということがどれだけ難しいかということも。
 そのため、予め戦友たちと連携を取ることを打ち合わせていたのだ。
 皆は一人のために、一人は皆のために。
 最初から北川は30万円独り占めなどということは考えていない。
 ただし、彼が一人勝ちすることは考えていたが。
 香里は、北川の戦友達が彼一人を生かすために動くのを知っていたのである。
 その意味で、北川は一人で戦い抜ける要注意人物とされた。
『BIG・BOSS。鎮コブラ部隊もこれで終わり。貴方だけは生き延びて下さい』
「……と、いうことは?」
『時間は稼げませんでしたが、仕掛けは予定通り全設置済みです』
 それを聞いた北川の口元が、にやりと緩む。
「よくやった。それならなんとかなるかもしれない」
『BIG・BOSS』
「おう」
『また貴方と戦えて、私達はうれしかったです』
「過去形にするなよ。パーティーはここからだ」
『すみません、つい。しかし、ザ・マッコウとザ・ホタルは残念でした』
「まあ別の学校だし、しゃーないわな。一校だけでこれだけ揃ってるのもオレらの代が初めてらしいし」
『確かに。6人中5人が鬼に回ったというのも驚きですね』
「ザ・グリズリー。オレはこれが終わったら受験に専念する。次はお前がBIG・BOSSを名乗る番だ。サラリーマンや商店街の親父どもに舐められるんじゃないぞ」
『はい、肝に銘じておきますBIG・BOSS。いずれ、戦場で見(まみ)えましょう』
「おう。楽しみにしてるぞ。……受験失敗したらそれどころじゃないけどな」
『BIG・BOSS。最後まで決して諦めない。いかなる窮地でも成功をイメージする。あなたの言葉です』
「ああ……そうだったな。すまん」
 足元から、鉄の扉を押し開ける音が響き、北川は急いでその死角に回り込んだ。
「誰か来た。これより、『沈黙の聖戦』作戦を開始する」
『了解。吉報をお待ちしています。通信終わり』


 通信機をポケットに収め、北川は身の回りを再確認した。
 落ち度はないことに安堵し、息を殺して気配を断つ。
 下からは聞き覚えのある声がしていた。
「栞、他の場所も全部固めた?」
「うん、あと残ってるのはここだけだって」
「地上からも見張ってるって聞いたよー」
 香里、栞、名雪の面々である。他にも何人かいるのか、ざわざわと騒がしい。
 ざっと10人くらいが、この場所……屋上へと足を踏み入れたようだ。
 まだ誰も、屋上扉の上の給水タンク裏にいる北川の存在には気付いていない。
「でも、香里。いくら北川君でも、ここから地面に飛び降りたりはしないんじゃないかなあ」
「甘いわね名雪。北川君ならここから飛び降りても無事かもしれないわ。完璧な受身さえ取れば、5階から飛び降りても無傷だって話もあるし」
「……北川君ってどういう人なの?」
 いぶかしげな顔をして、名雪は疑問を口にした。
 普通に考えれば、それはまともな高校生ではない。
 香里は、給水塔を視界に収めながら、ふうと溜息をついた。
「いいわ。教えてあげる。北川君はね、サバイバルゲームのチームリーダーらしいの」
「サバイバルゲーム……?」
 聞きなれない単語に首をかしげる名雪。そこに、栞が口を挟んだ。
「戦争ごっこですね。プラスチック弾のマシンガンとか使って、凄く本格的らしいですけど」
「ええ。その中でも北川君達のチームは別格。学生だけで構成されて、大人たちと賞金をかけて戦う最強の部隊で、信じられないけど自衛隊員ともやりあって勝ったことがあるらしいわよ」
「す、すごいですね……」
 どうやったら、プロの軍人を相手に素人の学生が戦争を仕掛けて勝てるのか?
 まったく想像もつかないが、聞いている栞達にもそのとてつもなさは理解できた。
「ベトコンや特殊工作員のスキルを元に訓練……まあ、早い話がゲリラと隠密行動ね。もっと分かりやすく言うと、かくれんぼのプロ」
 ぶっちゃけすぎだが、聴衆にとってはそれが良かったらしい。周りの面々は、一様にこくこくと頷いていた。
「北川君は、そのチーム内でチームリーダー『BIG・BOSS』の称号を受け継いだ五代目らしいわ」
「BIG・BOSS……。か、かっこいい響きです」
 何がツボにはまったのか、口をあけて目を輝かせる栞。
 それを横目に、香里は溜息をついた。
「リーダーって言えば聞こえはいいけど、暴走族かちびっこギャングが戦争ごっこやってるだけのようなものよ。感心するのはやめときなさい。だいたい……」
 一旦言葉を切って、はぁ、と大きく息を吐き出す。
「部隊名が最悪よ。『鎮コブラ部隊』って何なのよ、まったく」
 香里がその言葉を何の滞りもなく発した瞬間、全員の顔が蒼白になった。
 いや、あるものはにやにやと笑いを堪え、一方で(特に)女子は顔を赤くしている。
 中でも、金魚のように真っ赤になって、口をパクパクさせていたのは名雪だ。
「ち、ちん……こぶら……ぶら……」
「わーっ、わーーーっ! ダメです名雪さん! 麗しき乙女がその言葉を使うのは危険です! 錯乱禁止、連呼禁止! あと、そのモノ欲しそうな口の動きは絶対禁止ですっ!」
「だ、だって……○△×なんだよ! ○△×!」
 名雪は放送禁止用語を連発しながら、栞の肩を掴んでがくがくと揺すり続ける。
 もう何度目になるか分からない溜息をついて、香里は名雪の髪の毛をひっぱり『どうどう』と馬でも押さえつけるようになだめた。
「念のために言っておくけど、『文鎮』の『鎮』だから」
「なんでそんなキワモノの名前を……」
「何でも、この地域の大人のチームはみんな蛇の名前をチームにしてるかららしいわよ。タイワンコブラとかニシキヘビとかガラガランダとか」
「蛇……コブラを鎮める部隊。だから『鎮コブラ部隊』ですか」
 人差し指を口元に当て、さらさらと何の澱みもなく『鎮コブラ』と発音するスク水少女に、周りの純情な男子学生が少しくらくら来ていたのはここだけの秘密である。
 というか色々危険過ぎないだろうか、この本日唯一のスク水少女。

「さてと、解説は済んだわよ。出てきたら? 給水塔に隠れてる北川君」

 刺すような視線とともに、香里が大声で給水タンクの裏に呼びかける。
 香里の周囲の目がそこに集中するのと、北川が「げっ!?」と驚きの声を発するのは同時だった。


 頭の水を払いながら、野戦服姿の北川がタンクの裏より姿を現す。
 気配を断っていた意味がまるでなかったのが悔しかったのか、少々ばつの悪い顔をしている。
「とりあえず、挨拶は『潤ちゃん、み〜つけた』でいいかしら?」
「いいんじゃないか? それでチェックメイト、後はオレに触れるだけだ」
 給水塔から香里達を見下ろす北川に焦りはない。
 いずれこうなると予想はしていたということだろう。
「なあ美坂、ちょっと聞いてくれ」
「何かしら?」
「オレは魚が好きだ。見るのもいいし、食べるのもいい。だけどな一緒に寝るのだけはゴメンだ。なぜなら……」
 アゴに手を当て、何かを考え込む仕草をする北川。
 何故ここで魚の話なのか、話がまったく見えず、香里達は無言で続きを待つ。
 やがて一分後、そろそろ誰かに催促されそうなところで北川は口を開いた。

「すまん、何言おうとしたのか忘れた」

 ずででで、っと北川眼下の全員総ゴケ。屋上の床には雨で水溜りも出来ているというのに、芸人魂に溢れる生徒たちである。
「まあ、いいか。んで、美坂、なんでオレがここにいるって分かった? 地上までびっしり固めて、用意も万全ってところだが」
 あくまで焦らない北川に、香里は笑みを浮かべながら応じる。
「ザ・ペガサスだっけ。あなたの戦友が教えてくれたのよ。あなた暇を持て余すと、いつも高いところに登って『君が高いところが好きなのは分かったから、早く敵を全滅させてくれよ』って同僚に怒られてるらしいじゃない」
「なるほど……。これまでの3時間、まるでオレを相手にしてなかったのは、オレをここに隠れさせるためか。まんまとハメられたぜ」
「同僚に裏切られた気分はどうかしら? BIG・BOSSさん」
 ふふふ、っと悪戯っぽく笑う香里の顔は明らかに勝利を確信していた。
 屋上の出入り口を固め、地上へ飛び降りるという選択肢も封殺した。
 もう北川には逃れる術があるはずがない。
「裏切る? ザ・ペガサスは鬼という任務を忠実にこなしてるだけだ。任務に忠を尽くせ、そうオレ達のチームでは教えられている。裏切りじゃない。まあ、無粋な奴なのは認めるけどな」
 鬼という役割より、同じ部隊としての役割を重視する柔軟な対応が欲しかったというのが北川の本音だろう。
 無粋、という言葉を口にする時、確かに北川は苦々しい顔をしていた。
 しかし、それも一瞬である。
 次の瞬間、北川は微笑む香里に余裕の笑みを送った。
「それと、美坂。お前はもう一つ根本的な誤解をしている」
「えっ?」
 勝利の確信はある。逃げ道は全部ふさいだ。
 なのに何故だ? 何故敵はあんなふうに笑える?
 不安が止まないのは何故だ?
 香里の余裕が崩れる。こんな局面でハッタリなど恥ずかしいだけだ。
 だから、北川の発言には必ず意味がある。
 何か見落としはなかったか、あたりをうかがいながら必死に思考をめぐらした。
 だが、それを待っているような北川ではない。
 香里の集中を乱すためか、両手を「さあ来い」とばかりに広げて挑発を行った。
「お前に、オレは捕まえられない」
「戯言を!」
 挑発に対して、香里が怒号を発する。出来る限り、取り乱した様子で。
 考える時間が欲しい。そのためには、北川を少しでもこの場に留めておく必要がある。
 しかし、そんな餌で調子に乗るほどBIG・BOSSと呼ばれた男は愚かではなかった。
「まあ、ザ・ペガサスの入れ知恵あったんだろうけど、地上をふさいだのは悪くなかった。ロープで降りるのも、パラシュート落下も無理だ」
「まさか、ハンググライダー?」
「いや、それは下手すると学校外に出てしまう。同じ理由で気球もアウトだ。というより、気球じゃ降りた場所まで丸分かりだ」
「……鍵爪手甲」
「惜しいが、それも違う。そもそも、校舎を傷つけたら器物破損で失格だ」
 そう言って、北川はタンクの裏よりある物を取り出してみせる。
「答えはこいつだ」
「……ロープ?」
 香里も、その周りも唖然とする。
 北川が取り出したもの、それは給水タンクの支柱に結び付けられたロープだった。
 そう、さきほど北川自身が否定した手段であるところのロープだ。
「美坂、せっかくだから叡智の種を一つ増やしてやろう。こいつが、ラベリングだ!」
「なっ!?」
 言うが早いか、北川は屋上のもっとも高いところから飛び降りた。
 否、ロープを手に校舎の壁を駆け下りたのだ。
 慌ててフェンスに張り付き、その動向を観察する屋上組。
 いったい北川はどうする気なのか?
 このまま地面まで駆け下りたところで、地上にはたくさんの鬼が配置されている。
 だが――!

「はーっはっはっは! あばよー、とっつぁん!」

 校舎の中腹まで降りたところで北川の高笑いが響く。
 それと同時に、北川が壁面を大きく蹴ってジャンプした。
 ロープが大きく右に揺れる。地面と水平にジャンプする北川の着地地点は……3階バルコニー。
 北川はそこに飛び込むと、あっという間に校舎内に姿を消した。
 後に残るのは、ゆらゆらと振り子運動を続けるロープのみ。
 当然、さすがの香里もそこはマークしていない。
 そんな逃げ方をされるとは、予想だにしていなかったのだ。
 しばらく呆然とその様子を見送った後、香里は傘を放り投げ、両手を突き上げて叫んだ。

「むきぃぃぃぃっ!」

 というか奇声を発した。
 もう、何から悔しがればいいのやら、といったところだろう。
 とりあえず、普通あんな逃げ方する人はいないから。ご愁傷様。
 よっぽど悔しかったのか、香里は給水塔のコンクリにもたれかかり、その壁面にがつんと一発、拳をたたきつけたりしている。
 一緒に屋上に登った者たち、妹の栞ですら、そんな香里に何と言葉をかけたものか戸惑うばかりだった。
 が、雨に打たれ続ける香里の背中に、そっと陰がさす。
 香里が不思議に思って振り返ると、そこには投げ捨てたはずの傘を差し出している名雪の姿があった。
「……なゆき」
「大丈夫だよ、香里。わたし達はスタートで失敗しただけ。これは長距離走なんだから、遅れは取り戻せるよ」
 そう言って、名雪はにこっと微笑むと、香里の手に傘を握らせた。
 しばらく手渡された傘の握りをじっと見つめていた香里は、やがてゆっくりと顔を上げる。
 その眼は、自分を見つめる親友とよく似た穏やかさを取り戻していた。
 同時に、指揮官の様子に戸惑っていた屋上組の顔がいっせいに明るさを取り戻す。
「ふぁいとっ、だよ」
「そうですよ、お姉ちゃん。まだ3時間以上あるんです。勝機の一つや二つ、またすぐに飛び込んで来ますよ」
 親友と妹の励ましを受け、香里は大きく頷いた。
「ええ、そうね。みんな、あのふざけたルパンもどきをとっ捕まえるわよ」
 おおーっ! と、梅雨空に元気な合唱が響き渡った。




 数分後の、某所。
「ようやく二人っきりになれた。どうだ、気分は」
「もぉ、ダメ……。少し休ませて……」
 うつろな目で、祐一を見上げるあゆ。
 今にも何かが決壊しそうなその表情に祐一は……。
「あゆ、その表情……」
「……え?」
「悪くない。究極の表現法だ」
 うっとりしていた。
 というか、これでもかというほどに満足げだった。
「え、ええっ?」
 何を言い出すのかと、口をあんぐり開けて驚くあゆ。
 しかし、上で騒いでいる者達(主に香里と北川)のせいでお預けを食っていたのだ。
 祐一はとにかく、『性欲を持て余す』状態だったのである。
「そろそろ本気を出そうか。では行くぞう」
「うぐぅーーーっ!! 少しはボクの体に優しくしてー!!」
「だからこうやって可愛がってるんじゃないか。かわいいなあ、あゆあゆ」
 そう言って、祐一はあちこち火照ったあゆの体を再び撫で回し始める。
 あゆは今度こそ怒るかと思いきや……。
「かわいい……えへへ」
 まんざらでもないご様子だった。


 こんな雨の中でも、今日も今日とて三度の飯より好きな将棋を打ちに市民会館に出かけた雪村老人(78)はこう証言する。
 通りがかった学校は、校舎の一角が激しく『燃え上がっていた』と。
「ふふふ。待ってろい、ばーさん。今行くぞぉ」
 その日、市民会館に現れなかった雪村老人が家で何をしていたかは誰も知らない。
 おそらくは、老いらくの恋。





『ども、解説の中野です。開始から5時間が経過しました。現在の生き残りは6名。もうゲームセットかなと思ってますたが、なかなか粘りますね。しかし、さっきから校舎が騒がしいですなあ』


 一方、場面を戻して鬼の香里・名雪・栞組。
「北川君は!?」
「それが、その……窓の外に手を出したと思ったら、上から縄梯子が降りてきて……」
「くっ、姑息な仕掛けを」
 どうやら上階の壁に、凧糸を引いたら降りてくる縄梯子の仕掛けが設置されていたらしい。
 北川発見の報を受けて走ってきた香里は、息を切らしながら爪を噛んだ。
 明らかにイラついている。だが、それも無理はない。
 何しろ、さっきから追い詰めては設置していた仕掛けで逃げられてを、かれこれ1時間近く続けている。
 しかも、水をぶっかけられる、煙幕に巻かれるなど散々なありさまだ。
 香里の後ろでは、さきほどもろに水を浴びせられた名雪が「うー」と不満げに髪の水をしぼり落としていた。
 しかし、まだマシである。栞をかばって胡椒爆弾(簡易催涙弾)の直撃を食らった香里に比べれば。
 一応、攻撃的なトラップは全て掃除すれば済む範囲で、怪我を招くような位置にも設置されていない。
 つまり、北川もとい鎮コブラ部隊が設置した仕掛けやトラップはギリギリルールの範疇なのだ。
 もともと、安全第一で戦争ごっこやってるのだから、当たり前といえば当たり前である。
「美坂先輩、どうしましょう?」
「切断よ切断! ロープとか怪しい仕掛けがあったら、見つけ次第破壊して!」
 ぷらんぷらん、と雨の中所在なさげに揺れる縄梯子を掴んだ女子生徒に、香里はまだ止まらない涙を拭いながら怒声を飛ばした。
 やや冷静さを欠いた姉の姿に、栞が慌てて止めに入る。
「駄目ですよお姉ちゃん。間違って学校の備品破壊したら、私達全員が失格ですよ」
 そうなのだ。器物損壊の禁止事項は隠れ役だけのものではない。
 集団で学校の備品を破壊しようものなら、鬼全員にどんな制裁が下るか分かったものではないだろう。
「……そうね。明らかに仕掛けだと分かるのを取り外しておいて。ほとんど巧妙にカモフラージュされてるでしょうけど、トラップが使えない状況にハメれば勝ち目が出てくるわ」
「はいっ!」
 女子生徒が何人かを連れて去っていくのを見て、香里は溜息をつきながら壁にもたれかかった。
 もう滅茶苦茶だ、何もかも。
 敵はまた、そろそろ何か仕掛けてくるだろう。
 罠だと分かっていても乗るしかない。ひたすら追いかけ続けて、手を使い尽くさせるしかないのだ。
 最初の屋上で逃したことを、香里は今更ながらに悔いていた。
 名雪にああは言われたが、この勝負、北川だけを相手にしていればいいものではない。
 不幸な2人が北川追跡中にいぶりだされて捕まったらしいが、まだ北川以外に5人も生き残りがいる。
 これ以上北川に時間を割いていては、残る5人を捕らえるのが厳しくなってくる。
 だが……。
「ターゲット発見! 増援をよこせっ!」
 上階から伝令役の叫び声が響く。予想通り、また奴のお出ましだ。
 壁にもたれかかり、疲れた様子の香里を名雪が不安げに見つめる。
「……香里」
「ええ、行くわよ。って、あら? 何この音……」
「えっ?」
 立ち上がった香里は、何かおかしな音が聞こえるのに気付いた。
 周りの面々も、それにしたがって聞き耳を立てる。
 聞こえる。確かに『しゅーっ』という妙な音が。
 音の聞こえる先は……天井。そこに見えた光に、香里は危うく目玉が飛び出そうになった。
「ど、導火線!?」
「えええええっ!?」
「冗談じゃないわよ、あの馬鹿何をやらかす気!?」
 燃える導火線に気付いた者から、蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
 やばい、どう考えたってやばい。
 導火線の先に繋がってる筒状のもの、あれはどう見てもダイナマイトではないか。
 相手は何でもありのクレイジー野郎だ。そろそろホンモノしかけててもおかしくない。ていうか、外見はどう見てもリアル・ザ・ダイナマイト。
 トドメとばかりに、壁にかけられていたラジオから北川の声が響き渡った。

『ダイナマイト爆発までまだ30秒だ。死ぬ気で校舎から逃げれば間に合うかも知れないぞ。はっはっは』

 もう後は話にならなかった。
 ハッタリだと全員を落ち着かせようとする香里だったが、誰も聞く者はいない。
 我先にと校舎外へ逃げ出そうとしている。
 しかも、全ての階に同じ細工がしてあったのか、全校舎ひっくり返したような騒ぎだ。
「くっ、栞、ハサミか何か持ってない!?」
「無理ですよ。カッターじゃあんな天井の導火線なんて切れません」
「名雪の脚力なら……って、名雪!?」
 親友の姿を求めて香里があたりを見回すも、そこには自分と妹の姿しかなかった。
 指差そうとして、目標を見失った手はおかしな形で空中静止。
 そんな香里の横で、栞が他人事のように呟いた。
「……逃げましたね」
「あ、あの人でなしーーーっ」
 むっきーと香里が拳を振り上げる合間にも、秒読みは進んでいく。
 そして、導火線の音が止んだ。爆発は……ない。
 30秒はとっくに経過している。校舎のざわめきも収まった。
 不発弾? いや、そもそもからしてハッタリか?
「爆発は……」
 イラつきマックスの形相で香里は壁に吊るされたラジオを睨みつけた。
「爆発はどうしたのよ!?」
 どこまで馬鹿にすれば気が済むのか。
 爆発がハッタリだったことへの怒りではない。
 さっきから完全に統制が乱れていることについてだ。
 北川が姿を現すたびに東へ西へ陣形を乱され、トラップやデコイ(囮)に引っかかり足並みを乱され、今回の爆弾騒ぎでここまで築き上げてきた指揮系統は完全に破壊された。
 これをまとめ直すのには、どれだけの時間がかかることか。
 いや、それだけではない。こうもいいように操られた自分の元に戻ってきてくれるのは何人いることか。
 などと香里が悔しがっていると、それに答えるかのように北川の声が再度鳴り響いた。

『ああ、そろそろ爆発すると思うけど、その場でしゃがんでれば助かると思うぞ。それじゃ、グッドラック』

 へ? と拍子抜けする間もない。
 拍子抜けする間もなく、それは全生徒たちの頭上に降り注いだ。

 ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱーーんっ!
「きゃああああああっ!?」

 けたたましいまでの爆竹音が。
 その音、もはや『しゃがめ』などというものではない。
 全員が反射的に身をすくめて耳を覆った。

『ぶははははは。爆竹だ』

 音が止み、ただ呆然とする生徒たちの耳に北川の大爆笑が響き渡る。
 そりゃ、笑いもするだろう。ここまでの大掛かりな悪戯を、安全第一でやってのけたのだから。
 おそらく、誰一人として階段から転げ落ちた者もいるまい。
 これがもし、最初に北川が宣告した30秒後なら大惨事にもなっていたかもしれないが、北川は当然それも計算ずくだった。
 『ありもしない爆発物に翻弄された馬鹿者』の汚名こそ被らずに済んだが、徹底的に翻弄されたことには違いない。
 何より屈辱だったのは、尻餅ついて『きゃああああああっ!?』などという悲鳴をあげさせられたことだ。それも妹の前で。
 わなわなと肩を震わせ、香里は拳が砕けんばかりの勢いで壁を殴打した。何度も何度も。
 やがて、本当に壊れてしまうんじゃないかと思われた瞬間、誰かの手が香里の腕に差し伸ばされた。
「……名雪」
「香里、落ち着いて。こういう時こそ冷静にならないと。相手は悪魔の頭脳の持ち主なんだから」
 赤くなった香里の手を名雪の手が優しく包みこむ。
 ああ、麗しきかな女の友情……。
「いいこと言えば、敵前逃亡が許されると思ってるの?」
「あいたっ!」
 ……で済むわけなかった。香里が放った脳天直撃の左チョップに頭を押さえてうずくまる名雪。
 そんな二人の背景でへたりこんだままの栞が、既に物言わぬ、壁にかけられたラジオを恨めしげに睨んでいた。
「……ううっ、少しちびっちゃったじゃないですか。恨みますよ、北川さん」
 スクール水着の内股にほんのりとシミが出来た、そんな日のこと。





 フンドシとマワシがある風景。
「……なにか、今凄い音しなかった?」
 上下、とりわけ隔壁の薄い下から響いてきた炸裂音に、斉藤はおそるおそるあたりを伺った。
「ダイナマイトという単語が聞こえた気がするが……まさかな」
「そ、そうだよね。まさかかくれんぼで爆弾使う人がいるわけないよね……あはははは」
 しかし、そんなかくれんぼごときで天井裏に隠れ、しかも化粧マワシを身に付けている自分は何なのか?
 自分でもツッコミどころ満載だったが、あれは爆弾ではなかったと必死に言い聞かせる斉藤。
 だって、そんなもので事故が起こってたら生徒会の責任になるのだから、考えたくないのは当たり前だ。
「まあ、ダイナマイトが爆発したのなら僕らもただでは済まんだろう。……ん? 何だ?」
「どうしたんだい、久瀬?」
「いや、こんなところに金属のケースが……」
 久瀬は拾い上げたそれを斉藤にも見えるよう、二人の真ん中に置いた。
 確かに金属のケースだ。拳大の円形、上蓋がついていて上下に引っ張れば開くタイプの何の変哲もないケースである。
「ドロップ飴入れかな?」
「いや、そんな音はしなかった。そもそも、なんでこんなところにドロップを隠す必要があるんだ?」
「終戦の貧困時代に仲のいい兄妹が隠したとか」
「そんなどこかの三文作家が作りそうな設定は止めてくれ。そもそもこの新校舎は建てられて10年も経ってないんだぞ」
「じゃあ、誰かが後で食べるために……」
「そこまでドロップ飴ぐらいで必死になるだろうか? それと、もう一度言うが、これは音からしてドロップ飴ではない。飴から離れたまえ」
 溶けて容器にくっついてるのかもしれないよ、と反論を思いついた斉藤だが、その言葉をすぐに飲み込む。
 そんなのは不毛だ。
「じゃあさ久瀬、開けてみようよ」
「……妙なものが出てきたりはしないだろうか?」
「大丈夫だよ。この光沢、そんなに古いものじゃないみたいだし」
「いや、しかしだな、毒ガスでも詰められていたら」
「久瀬……それこそ理解できないよ。こんな密閉とは程遠い容器に毒ガスとかつめるなんてありえないし、なによりこんな天井裏に置く理由がわからない」
「ふむ。確かにそうだな。よし、開けてみよう」
 意を決して久瀬はケースの上蓋に手をかける。そして、一気にそれを引き抜いた。
 中にあったのは……緑色のクリーム?
「何だろう、これ……」
「緑色のクリーム。これは北川君が顔にしていた緑のフェイスペイントではないのか?」
「あっ、そうか。言われてみればそうだね。北川、さっきここ通っていったとき落としたのかな?」
「おそらくそうだろう」
 とりあえず、危険物ではないのが分かり斉藤は胸をなでおろした。
 開けてみればいいとは言ったものの、本当はちょっぴり怖くて、久瀬が開けた瞬間一歩分ばかり避難していたのはここだけの秘密である。
 とりあえず、久瀬はそれに気付いてなかったようなので責められる心配も……ないようだが、久瀬の様子がおかしことに気付いた。
 北川の落としていったフェイスペイントをじっと眺め、一向に蓋を閉じようとしない。
「あのー、久瀬。どうしたんだい? ここ埃っぽいし、乾燥させちゃいけないから蓋は閉めたほうがいいと思うんだけど」
 反応なし。
 どうしたのだろうかと、斉藤は体を揺すろうと久瀬の肩に手を置いた。
 すると何かおかしい。まだ揺すってないはずなのに、体が揺れている。
「どうしたんだい、斉藤……」
「いや、久瀬ひょっとして震えてる?」
「ば、馬鹿を言うな。僕は冷静だ。ああ、冷静だとも。薄暗くて狭いところが苦手などと、そんな子供時代はとっくに通過している」
 歯をガタガタ言わせながら冷静も何もないだろう。
 暗所恐怖症なのか、閉所恐怖症なのか、あるいはその両方なのか、とにかく久瀬はこれでもかというくらいに動揺していた。
「久瀬、無理はよくないよ。ここから出よう」
「ひ、独りで降りたまえ。僕は何があってもここを動かん!」
 思えば、天井裏に入り込んだあたりから久瀬の様子がおかしかった。
 妙にハイになってたり、おかしなモノ(フンドシ&マワシ)を用意してきたり、それは全て恐怖心を隠すための強がりだったのではないだろうか?
 しかしまあ、だったら何でこんなところに隠れようとしたのか、まったくもって理解できないものがある。
 久瀬の融通が利かない性格は今に始まったことではないが、相変わらず難儀なお人やなあと、斉藤は思わずにはいられなかった。
「斉藤……」
「なんだい?」
 やれやれと溜息をつきながら、同僚に付き合う覚悟を決めた斉藤が顔を上げる。
 だが、久瀬と顔が合った瞬間、斉藤は剥き出しの肌に鳥肌が立つのを感じた。
 それもそのはず。久瀬の様子と言ったら、血走った目を見開き、荒い息で全身を小刻みに震わせているのだから。
 誰がどう見ても、もう決壊寸前だ。何かが。
「ちょ、ちょっと、久瀬!?」
「や、闇と友達にならなきゃいけないんだ。僕達は……」
「な、何言ってるの!? 君おかしいよ、絶対!」
 既に錯乱した久瀬に斉藤の叫びなど聞こえてはいない。
 ぬめり、と久瀬の指がフェイスペイントの容器をすくった。
 両手を緑に染め、久瀬が斉藤に迫る。
「悦ぶんだ斉藤。君も彩色してやる。これで僕達はここで永遠に……」
「い、嫌だよ、こんなとこで永遠なんて! う、うわわわっ、やめてくれ!」
「もったいぶるな!」
 ねちょっ、という両生類っぽい音と同時に、斉藤の絶叫が天井裏にこだました。


 新校舎3階、廊下。
 爆弾騒ぎで人がいなくなったこの場所に、一人の女子生徒が何をするともなく立っていた。
 逃げなかったのだろうか?
 いいや、違う。少女にとってはどうでもよかったのだ。
 失ってから気付いた、大切な者の存在。それを悟った時から始まった、生きる実感のない無意味な生。
 あの日から何も感じなくなった。いや、そのことにしか興味を持てなくなったと言うべきか。
 記憶し、いつまでも想い続ける事が、いなくなった者への供養と信じて少女は現実に背を向ける。
 本当は分かっているのだ。
 その生き方が失った者への誠にならないことなど。
 失った者は無邪気に何も悪びれもなく少女に文句を言うだろう。『つまらない』と。
「そう……つまらないですよね。こんなの」
 誰もいない廊下に、一人取り残された廊下に、一人何も感じなかった自分に、少女は俯きながらそう呟いた。
 ただひたすら蒸し暑いはずの廊下が、何故か薄ら寒い。
 学校に仕掛けられたダイナマイトで一生を終える、そんなのも楽しいと思っていたのかもしれない。
 あの世があって、失った者がそこにいるのなら、きっと失った者は腹を抱えて彼女の間抜けな死因を笑うだろう。
 でも、当然そんなのはただの悪い冗談で、無感動の中に爆竹がけたたましく鳴いただけだった。
 つまらない。本当につまらない。
 少女は溜息をつきながら歩き始めた。
 現実に目を向けられない彼女は、当然クラスメートと折り合いが悪い。
 一人だけ浮いている。というより、いつもクラスの足並みを乱しているからだ。
 本人は乱そうというつもりはない。ただ、放っておいて欲しいだけである。
 誰だってそんなプライベートゾーンを持っているものだが、少女はそれが人並み以上に大きかったのだ。
 一方は他と付き合う気がなくて、一方は付き合い方が分からない。
 そんな状況だから、クラスメートとの折り合いが悪くなる。
 とはいえ、必要以上に関係を悪化させたところで何の益にもならないことくらい少女だって分かっている。
 そんなわけで、少女は今日も波風立たぬよう地味に仕事をこなしていた。
 具体的には鬼の役を。
 こんなことでも「下らない」と突っぱねるよりは、クラスメートとのいらぬ衝突を避けられるものなのだ。
 かくれんぼ大会開始から既に5時間。少女が捕まえた隠れ役の数は0。
 でも、それでいい。目立つ必要はないのだ。探すという行動を取っていれば、一応それでいいのである。
「はぁ」
 見つける気のない5時間の探索。自然とまた溜息が出た。
 つまらない。見つけたからって、それが変わるとも思えないが、さすがに5時間変化なしの状況はつまらなかった。
 じゃあいっそ変わってみれば? 少女の耳にそんな囁きが聞こえる。
 それは少女の心の声なのか、思い出の中の失った者からの助言なのかは分からない。
 こんなつまらない状況でいつもそれは聞こえてきた。
 それだけで変われるなら、どれだけ楽なこと……。

「い、嫌だよ、こんなとこで永遠なんて! う、うわわわっ、やめてくれ!」
「もったいぶるな!」

 びくっ、っと少女は背中を震わせた。
 突然聞こえた叫び声が失った者の声に少し似ていたからか? それとも、何か心に突き刺さる一言だったからだろうか?
 少女は、恐る恐る声の聞こえた方向を振り向く。
 そこは天井だった。上の階からなのか? いや、そんな遠い声ではない。
 耳を澄ますと、かすかながら悲鳴と雄叫び、そして何かが取っ組み合いをやってるらしき妙な音が天井から聞こえてくるではないか。
「いったい、何が……?」
 忘れていた感情が蘇る。
 心に刺さった氷の欠片が溶けて落ちる。
 今、少女の心を支配していくこの温もりは、人が好奇心と呼ぶもの。
 何がどうなったら、学校の天井裏からこのような音が聞こえてくるのか? 気にならずにはいられない。
 周りには誰もいない。つまり、いつものように他の誰かが勝手に調べてくれるということもありえなかった。
 少女、天野美汐はあたりを見回し、上にのぼる手段を考え始める。

 大会終了まであと1時間45分弱。最後のうねりが今、静かに起こりつつあった。




 あの爆弾騒ぎから三十分後。香里は再び徒党を組んで北川を追跡していた。
 と言っても、以前のような統率の取れた大部隊ではない。
 残された時間は1時間45分。爆弾騒ぎであちこちに散ってしまった仲間を、全員かき集めているような時間はもうなかったのだ。
 名雪を走らせ手早く集めた100人、それが彼女に残された最後の軍勢。
 もっとも、30分も取ればもっと大人数をまとめることは出来た。
 それをしなかったのには理由がある。いや、出来なかったと言うべきか。
 逃げているのは北川だけではない。北川以外にも5人の生き残りが存在している。
 あれだけ北川を追いまわしても捕まっていない5人だ。そうそう簡単に見つかるとも思えない。
 ゆえに、香里は北川追跡に最低限の人員として100人を集め、後は残りの5人を捕まえてくれることを期待して各自の判断に任せることにしたのである。
 運がよければ、北川もランダムに動き回っている鬼と元隠れ役合わせて400名前後の網に引っかかるかもしれない。
 ほとんど他人任せのいい加減な作戦だが、残された時間ではそのような苦肉の策も仕方がなかった。
 勝率は50%、もしくはそれ以下。
 だが、諦めるわけにはいかない。
「みんな、ふぁいとっ、だよ」
 隣で励ましを送ってくれる親友がいる。
「ふふふふ、こうなったら全部の罠にかかってやりますよ。手詰まりになった時が最期です、北川さん!」
 50%なんて生ぬるい、小数点以下の勝率で生き抜いた妹も傍にいる。
 だから、香里はまだ走れるのだ。二人のためにも、ここで膝を折るわけにはいかない。

「美坂先輩、こっちです!」

 一年生の男子生徒が、息をついて駆け込んでくる。
 よほど急いで走ってきたようだ。
「どうしたの?」
「北川先輩を発見しました。今、食堂にいます」
「それで?」
「俺達で出入り口は固めました。応援を……応援をお願いします!」
 それだけ伝えると、男子生徒は壁にもたれかかって崩れ落ちた。
 今香里達がいるところは食堂からかなり遠くにある。
 おそらく、ここまで香里指揮下のメンバーに応援を要請しながら、指揮官の姿を求めて走ってきたのだろう。
「お姉ちゃん!」
「ええ、行くわよ食堂!」
 疲れ果てた男子生徒の姿が状況を物語っている。
 今、まさに北川は袋のネズミなのだ。
 香里は栞達と相槌を打つと、いざ鎌倉とばかりに駆け出した。


 食堂。
 いつも昼休みに賑わうそこも、かくれんぼ大会のこの日は休業で静かだった。
 しかし、そこがにわかに騒がしくなる。
 香里達約30名の鬼が一気に雪崩れ込んできたからだ。
「隠れる場所は限られてるわ。机の下とか、物陰に注意して。あと、多分ないと思うけど、床下に貯蔵庫とかあるかもしれないからそれも探してちょうだい」
 てきぱきと、周りのメンバーに指示を出して、自らも机の下を覗き込んでいく。
 午前中ここに隠れていた者を見つけ出した者もいるので、鬼の行動はすばやかった。
「香里ー、換気扇は誰も入ってないみたいだよー」
「冷蔵庫も誰もいませんー」
 厨房の中から、名雪と栞が手を振る。
 それに応じて、香里をはじめとした食堂側を調べていたメンバーが手を振り返そうとした時だった。

「全員伏せろーーーっ!!」

 突然、ここでも壁に吊るされていたラジオから北川の叫び声が響き渡った。
 全員唖然として顔を見合わせる。
 が、すぐさま、香里が手を振り払ってどこかに潜む北川を怒鳴りつけた。
「二度も同じ手が通用するものですか! いい加減、観念しな……」

 ボムッ!

 『さい!』と続くはずの香里の怒声は、横から飛び込んできた閃光と爆発音に消し飛ばされた。
「な、何なの!?」
 啖呵を切っていた香里はおろか、食堂周辺にいた者まで思わず尻餅をつきかけた。
 爆竹などとは違う、今度こそ本物の爆発音だ。
 そう、まるで手榴弾でも炸裂したかのような……。
「何なんだ!?」
「大丈夫ですか!?」
 あたりから、音に驚いたものが駆けつけてくる。
 どきどきと鳴り止まない胸を押さえながら、香里は入ってきた数名に手を挙げて無事をアピールする。
「大丈夫よ。まったく、またこんなブラフを……」
 呼吸を落ち着け、爆発の大元を探る。
 だが、思いのほかすぐにそれは判明した。
「お姉ちゃん、火事です。電子レンジがー!」
 ひび割れたガラスの隙間から、もくもくと黒い煙を上げる電子レンジ。
 まさしくそれが爆発の元凶だった。
 黒い煙をこれでもかと噴き上げるそれの周囲に、食堂の面々はもとより、飛び込んできた野次馬達も驚愕の表情で集まり始める。
 いったい、何をしたら電子レンジがこんなことになるのか?
 誰もが驚きを隠せずに、あらゆる穴から煙を噴き上げ、表面のガラスが蜘蛛の巣のようにひび割れたそれを見つめていた。
「……勝った!」
 ただ一人、にやりとほくそ笑んだ香里を除いて。
「え? どういうことですか、お姉ちゃん?」
 突然の勝利宣言に、集まった面々は首をかしげる。
 また爆発に騙されたというのに、どうしてそれが勝利なのだろうか?
 だが、不思議がる皆を前に、香里は換気扇を回すとさもおかしそうに電子レンジの蓋を開けた。
 もわっと溜まっていた煙が放出され、ゲル状の何かがべとりと床に落ちる。
 白と黄色のそれは、まさしく卵だった。
「爆発の正体はこれ、爆発卵ね。電子レンジに卵をかけると爆発するあれよ」
「で、でも美坂先輩、あの音はそんなものじゃなかったですよ」
「多分、卵を何かでコーティングして爆発しにくくしたのよ。派手な音を立てて破裂させるためにね。電子レンジの蓋がこんな風になったのは、そのせいでしょう。表面にテープ張ってガラスが飛ばないようにしてるあたり、安全対策も万全だわ」
 卵をコーティングしていた何かの破片のせいか、電子レンジの蓋の内側は悲惨な状況になっている。
 もし、北川が外側をテープで覆ってなかったら、電子レンジが破片で人を殺傷する手榴弾代わりになっていたことだろう。
「じゃあ、あのさっきの光は?」
「マグネシウムか何かね。そして煙の正体は煙球。火事の心配はまずないし上手い仕掛けだったけど、決定的なミスを犯したわね」
 こうやって見事に全員騙されたのに、どこにミスがあるというのか?
 半分は見当がつかないようだったが、何人かは合点がいったようだ。
 ぽんっと手を叩く者、こくこくと頷く者が数名。
 香里は分かった者に頷き返して、電子レンジをこつんと叩いた。満足げに笑みを浮かべながら。
「そう、器物損壊。禁止事項違反で北川君は失格よ」
 合点のいってなかった者も、その一言で「ああ」と頷く。
 そうなのだ。学校の備品をこんな滅茶苦茶にしていいわけがない。
 ついに、数時間に渡って彼らを苦しめたインチキルパンは引導を渡されることになった。それも自分の仕掛けた罠にはまるという間抜けなオチで。
 一気に湧いてきた勝利の実感に、食堂が沸き立ち始める。
 この数時間で誰もが思っていたのだ。北川こそが最大の障害であると。
 それがなくなった今、鬼の勝利は目前である。

「うーん……」

 だが、勝利の確信に沸く面々に一石を投じるものが一名。
 目を細めながら、じーっと電子レンジを訝しげに見ているのは水瀬名雪その人だった。
「どうしたのよ名雪。こんな時に暗い顔なんて、ノリが悪いぞ」
 名雪の首に手を回して、このこのっとその頭をぐりぐりする香里。緊張から解放された彼女は、もうこれでもかというほどに上機嫌だった。
「わ、わわ、やめてよ香里〜」
 対する親友は、いつものようにのんびり手足をばたつかせて振りほどこうとする。
 いや、今は結構本気でやめて欲しかったのか、力ずくで強引に香里を振り払った。
 その顔には勝利の愉悦など微塵も浮かんでいない。
 名雪の表情はむしろその逆。良くない真実を確信してしまった者の表情だった。
 さすがの香里も、名雪の様子に浮かれるのをやめる。
「どうしたのよ、名雪? そんな顔して」
「うん。もしかしたら間違ってるかもしれないけど……あ、うん、多分合ってると思うんだよ。でも、わたしちょっと自信がないから……」
「……いいから続きを言って」
 大方、勝利に水をさすのが悪いと思って躊躇っているのだろう
 妙なところで引っ込み思案な名雪に溜息を付きながら、香里が先を促す。
 それで名雪は、電子レンジを指差しながらおずおずと先を告げた。
「ねえ、こんなところに電子レンジってあったかな?」
「は……?」
「ほら、よく見てよこれ。おかしいよ」
 名雪の思いがけない発言に、香里達の目が点になる。
 いや、中にはそれで「あっ」と小さく叫ぶ者もいた。
 まだ合点がいってない香里達のために、名雪は厨房奥の大きな箱状の物を指差す。
「食堂の電子レンジって、あっちにある大きいのだよね。電子レンジかオーブンかは分からないけど、どうしてこんなところに家庭用の電子レンジが置いてるのかな?」
 その発言を聞いた瞬間、香里の口からも「あっ」という声が漏れた。
 みるみるうちに、香里の顔が青ざめていく。
 そうだ、おかしいではないか。どうしてこんなところに家庭用電子レンジが置いてある? しかも、何だかよく分からないキャラクター物のミニレンジだ。
 名雪の指差す先には、見慣れた業務用電子レンジが置いてある。
 そして、記憶が正しければ、こんなところにミニレンジなど……置いていなかった。
「しまった、騙された! どこかの粗大ゴミから拾ってきたものよ、これ!」
「ええっ!? じゃあ、北川さんは……!?」
 栞の声に、はっとしてあたりを見回す香里。
 人、人、人、厨房の中に所狭しと音を聞きつけてやってきた鬼達(元隠れ役含む)が入り込んでいた。
 その中には、入り口を固めていたはずの一年生の姿もある。
「ちょっと、あなた見張りは!?」
「え? あの、音が気になってついこっちに」
 訊くまでもなくそんなことは分かっていた。
 この人数、音が聞こえた範囲の全ての人間が集まってきてるだろう。
 つまり、音が聞こえた範囲は今現在限りなく無人ということになる。
 その隙を北川が見逃すはずがない。

「えっほ、えっほ……」

 しんと静まり返った食堂に響く、謎の声。
 厨房から遠く離れたどこか、おそらく机や空調機等の下から、ホフクで這い出してきたのは、まさに北川であった。
 どっこいせと立ち上がって軽く装備の点検をする北川と、厨房からその様子を眺めていた香里の目が合う。
 しばし、双方ともに沈黙。
 そして、香里が叫ぶと同時に北川も駆け出した。
「何やってるのよ、みんな。あいつを捕まえなさい!」
「わはははは、シーユーアゲイン!」
 あっという間に、堂々と食堂の入り口から脱走を果たす北川。
 対する鬼の方はというと、厨房付近ににすし詰め状態で50人前後が入っていたのだからたまったものではない。
 俺が先だ、私が先よ、の大混乱に陥った。


 ようやく厨房の大混乱から抜け出した香里達を待っていたのは、入り口でつっかえている鬼達だった。
 扉の前の数人を残して、全員がその様子を遠巻きに見守っている。
 さすがに厨房の混乱で懲りたのか、入り口に殺到するというのは避けたようだ。
「何やってるのよ?」
「そ、それが、扉が開かないんです」
 どうやら、北川が脱出する前に扉を閉めていったらしい。
 数人が必死に扉を押しているが、外から押さえられているのか、なかなか開こうとしない。
「どうなってんだよ、これ? ビクともしないぞ」
「鍵は?」
「鍵は開いてる。ていうか、こっち側だし」
「いや、開いた。少しだけど。でも、どうなってるんだこの扉の重さ」
 どうやら、扉は凄まじく重いらしい。
 こんなところで時間を食っている暇などないのに、鬼達の間に焦りが広がる。
 こうしている間にも北川は遠ざかってしまうのだ。
「わたしに任せて」
 戸惑う扉の前の生徒たちに、後ろからそんな声がかかった。
 振り返るとクラウチング・スタートの構えを取る名雪がいるではないか。
 状況を理解して、扉の前の生徒たちが一気に道を開ける。
 そんな中に紛れて、扉の前に立った栞は取っ手を回しながら手を上げた。
「いいですよ、名雪さん。どかーんと当たってください、どかーんと」
「うん、行くよっ!」
 名雪がスタートを切る。
 体重こそ50キロもなくても、加速を加えれば瞬間的な威力は倍以上にもなる。
 陸上部部長は、間違いなくその扉を突貫することだろう。
 問題の解決に一息つく香里。だが、一瞬の間を置いて、香里はその息を飲みこんだ。


 北川が扉を開けにくくするなんて、せこい妨害をするだろうか?
 そもそも、それは禁止事項の扉に鍵をかける行為に近い。
 では、扉が重いのは何故か?
 開けること妨害するための物ではない。そうなってしまうのは、副次的なもの。
 そうだとすれば、一応北川の行動はルールに反しない。
 おそらくは何かのミスか都合上で、扉が開閉妨害とも取れる重さになってしまっているのだ。
 それはつまり……。

「名雪、駄目っ!」

 急いで手を伸ばすも既に遅し。
 名雪は扉の目前に迫っている。
「え?」
 香里の制止に振り返ろうとする名雪。だが、体は既に止まらない。
 扉が開くと同時に外に飛び出そうとしていた一団が、名雪の後を追うように入り口を取り囲む。
 北川が遠のく焦りで、既に先ほどの教訓は忘れられていた。
 そして、弾丸と化した名雪の体が扉を貫いた。

 ばふっ。
 ざざー……。

 何か塊が落下する音。そして、粉状の何かが降り注ぐ音。
 視界があっという間に真っ白に染まった。
「な、何これ!?」
「前が見えな……痛っ! 足踏まないで!」
 よほど軽い粉末だったのか、白い何かは煙幕のように広がっていく。
 瞬き数回の間に、鬼達全てがその白煙に飲まれた。
 視界が利かないのと、突然のことに大混乱に陥る扉周辺の鬼達。
 あちこちで錯乱した悲鳴が上がる。
 一番扉から離れた位置にいた香里は、迫る白煙を右腕で振り払いながら怒りの形相で叫んだ。
「あいつはセガールか!」
 とある無敵の映画俳優の名が香里の脳裏に浮かぶ。
 電子レンジ爆弾、扉を開ける追跡者をハメる罠。まんま彼が出ていたアクション映画のネタである。
 引っかかってからそれに気付く自分が情けなかった。
「けほっ、けほっ。何なんですかこれ」
「うー、もう無茶苦茶だよ北川君」
 口元を押さえてむせ返っている栞と、全身真っ白にされた名雪が恨みがましそうに香里の下へと戻ってくる。
 どうやら栞は煙幕の直撃を受け、名雪に至っては扉が開いた拍子に粉の直撃弾を頭から被ったらしい。
 二人の姿はまさに、とんだシンデレラ(灰まみれ)に白雪姫だった。
「小麦粉か何かでしょう。入り口の上に張ってあったビニール、ペンキ補修のものかと思ったら、天井に吊ってた小麦粉の袋を隠してたものだったのね」
 扉の上に約数キロの小麦粉を吊り、扉を開くとそれが逆さまになって降りかかる仕掛けだったのだ。
 それだけのものと連動した仕掛けなのだから、当然扉も重くなる。
 量の加減を間違えたのか、仕掛けの側につっかかりがあったのか、どちらかは分からないが、扉が開かなかったのはそれでだろう。
「もう、さんざんです……」
「うん……」
 ぱんぱんと、体中についた白い粉を払う栞と名雪。
 周りの鬼達も、げんなりした様子で髪や服の小麦粉を払い落としていた。
「はぁー、もうこうなったら最後のカードを切るわ。これだけは使いたくなかったけど……」


 やれやれと、大きく息を吐き出しながら香里は手近なイスに座る。
 なんとか小麦粉の被害を免れはしたが、周りはまだ落ち着かない状況である。
 ぱんぱんと小麦粉を払う音が止むまで、指揮官は待つより他なかった。
「まったくあいつは……」
 イスに深く腰掛けて、北川への愚痴をもらそうとした時だった。
 目線の先にあるものに香里の目が点になる。
「ぶふぅっ!」
 ていうか、次の瞬間噴いた。
「……どうかしました? お姉ちゃん」
 見つめられた当人は、体を払う手を止めて姉の奇行に首をかしげた。
 だが、この場合気にすべきは栞の方だったのである。
 香里は、栞の一点を指して、あわあわと大慌てでまくし立てた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと栞! それはまずいわよ。そこ、そこぉっ!」
 香里の指差した先は、栞の足の付け根にあるデルタ地帯。もとい、お股。
「もー、お姉ちゃんたら、人前でどこを指差してるんですか。そんなことしてたら、そのうち痴女って言われますよ。めっ」
「めっ、じゃないわよ! いいからよく見なさい」
「何なんですか、こんな人前で……」
 ぐーっと身をかがめて、股間を眺める栞の言葉が途中で止まる。
 次の瞬間、栞は顔を真っ赤にして股間を両手で覆った。
「わーっ、わーっ、何なんですかこれ!? って、見ないで下さいっ!」
 必死にぱんぱんと、股間をはたくスクール水着の少女。
 その紺のデルタ地帯には、女の子の秘密とでも言うべき『たてすじ』をなぞるかのように、白い線が浮き上がっていたのだ。
 というか、小麦粉が水気を含んだそこに張り付いていたのである。
 何の水気か? そう、先ほど栞が爆竹で少しちびってしまった時のものだった。
「ううっ、落ちません。もう諦めます。中身が見えてるわけじゃないですから」
 頑張ってはみたが、少し薄れただけで、近くで見ればあぶり出された『たてすじ』はくっきりと見える。
 栞は観念して、覆っていた両手をのけた。
 その瞬間、純情な男子生徒たちが少し前かがみになって目を逸らしたのはここだけの秘密である。
 いや、まあ、香里には丸分かりだったが。
 溜息をつきながら香里は
「着替えたら? それ」
 ああしかし、言っても無駄なことくらい香里は分かっていた。
 その気があるなら、すぐに更衣室に走っていただろう。
 恥ずかしがっていたはずの妹は、真剣な顔をして、握りこぶしを震わせながら訴えるのだった。
「冗談じゃありません。スクール水着を脱ぐくらいなら死んだほうがマシです。見てくださいお姉ちゃん。いたいけな男の子たちの反応を。水着に浮かんだ一本線、これは最大のチラリズムであり悩殺奥義だったのです。感謝しますよ北川さん、よくぞこの悦びを私に教えてくれました」
 栞は隠すどころか、片足をイスに乗せておおっぴらに『すじ』を見せ付ける。
 男子生徒はおろか、女子生徒までが気まずい顔をして顔をそむける。
 だが、誰も軽蔑の目を向けていない。むしろ、ちらちらと横目に栞を観察している始末である。
 中には、堂々と腕組みをして見つめている剛の者もいたが、それはさておき。
 頭痛がしてきた香里は、救いを求めて近くの名雪に目をやる。
 だがしかし……こともあろうか最後の頼みの名雪は、真剣な表情で食い入るように栞の三角コーナーを見つめていたのだった。
 香里の中で、何かのゲージが一気にMAXに到達する。というか、何かが壊れた。
 感情の爆発が、叫びとなって校舎を揺るがす。

「ここはアホの巣窟かぁっ!」

 ……いやはや、ごもっとも。





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