1.思い出に還る物語
「うげぇ……だっる」
窓の外はどんより曇った空、延々と降り続く雨。まさしく梅雨だった。
「おーい、相沢生きてるか?」
「死んでる」
「オレもー」
加えて高温多湿となれば、教室で死んだようにへばってる生徒が続出しても仕方あるまい。
ただでさえ暑くて息苦しいのに、湿気を含んだ空気は皮膚呼吸を封殺するかのように肌にこびりついてくる。
「みんなだらしないよ?」
「うるさい……何でこんな時だけそんなに元気そうなんだ、お前は」
「……まったくだわ」
名雪を残して、祐一・北川・香里と全滅の窓際。
ここをクラスの縮図とすると、クラス全体の実に75%が死んでいることになる。
事実、教室はまさに死屍累々。汗やら化粧やら、ワケのわからない匂いが空気中で調合され、もの凄い異臭となって充満していた。
むしろこの状況でピンピンしてる名雪の方が異常。
「とにかくあれだ。この雨をどうにかすべきだ。もう三日目だぞ」
「どうやったらどうにかなるのよ……」
「そうだな……ロケットで……」
「……チキュウ突貫」
「おおー、ツユに栓をするという作戦か」
「……入り口しか塞げてないんじゃない?」
「一つ?」
「入り口と出口。チキュウは入り口と出口は別々でしょ」
「出口って何だー?」
「出口は入り口の反対で入り口の前。そんなことも分からないの?」
発言順は、『祐一→香里→祐一→北川→祐一→香里→北川→香里→祐一→香里』である。
しかし、もうそんなことどうでもいいくらいに支離滅裂。
どうやら、全員脳までふやけてしまってるらしい。
かと思ったら、突如祐一が蘇生してガターンと立ち上がった。
「だーっ! 一体何なんだよここは! 冬はクソ寒いわ雪積もるわ、雪が溶けたと思ったらこの雨! 雨! 雨! ろくに外で体を動かせないじゃないか!」
「そういう場所なのよ」
「そうそう、住めば天国だぞー」
「今俺の言った内容のどこにHEAVENな要素があるんだよ!?」
今度は『祐一→香里→北川→祐一』の順である。
一人いきり立ったところで、頭がふやけてる二名からまともな返答が来るわけなどない。
「ええい、名雪。少しは知恵があるなら、この状況を打開する妙案を言ってみろ!」
ずびしと名雪を指差す祐一。かっこつけるつもりで、机の上に乗せた片足はへばった北川の頭を踏みつけていた。
踏まれた北川は激昂するかと思いきや、面倒くさそうに乗っかった足を掴み、窓枠に乗せただけでへばり体勢を続行する。
どうやらこのスタイルを維持する方が、プライド以上の優先事項らしい。というか、早い話が怒る気力すら起きないのだろう。
かくして、机より高い窓枠に足を乗っけられた祐一は、より大きく股を開いたセクシーポーズを取るに至った。
その姿を正面から見せ付けられた名雪は、顔を真っ赤にして横に背ける。その実、チラチラと横目で祐一を視界に納めながら。
「ちょ、ちょっと祐一」
「何を奇異な目で見ておる! さっさと出すものを出せ」
「出すもの出してるのは祐一だよっ」
「ああん?」
注意して名雪の意味深な視線を辿る祐一。そして、あることに気づいた。
「おおう、チャック全開ではないか。そしてコンニチワのマイサン(英語で私のムスコ)」
なんと祐一のチャックは開いていた。そして、北川に大きく股を開かれた拍子に内包物がぴょっこりトランクスから飛び出していたのである。
「な、何でそんなに元気なの!? 昨日あゆちゃんで何度も……わわっ、今の何でもない」
「名雪、これはな疲れマラと言ってだな、昨日何度出したとかは関係……」
「どうでもいいからそんなモノ仕舞って!」
「そんなモノだと!? 名雪、お前だってここから生まれてきたんだ。目を背けるんじゃない!」
「生まれてきたのはそこじゃないよ!」
スコーン!
突然、教室の天井にそんな音が響いた。
祐一が上を見上げると、何か黄色いものが刺さってる。
よく見るとカッターではないか。
そして、今度は足元の方に目を向ける。
「の、のおおおおおおっ!?」
そこに走る赤いスジを見た瞬間、祐一の絶叫が校舎全体を突き抜けた。
「俺の○△×が! いかなる武器にも勝る俺の○△×が!」
「五月蝿い! 今度は皮一枚と言わずに、根元から削ぎ落とすわよ!」
カッターを投げたのはへばっていたはずの香里だった。
どこに持っていたのか、二投目とばかりに今度は剃刀を構えている。
蒸し暑くてイライラしてたところで、ギャアギャア騒がれたらムカつくのは当然だ。
ましてや、人の頭の上で汚いモノおっ立てられてたと知ったら、不快感は二倍増しだろう。
「ま、マイサン(英語で私のムスコ)はどうするか決めた」
「おとなしくすっこんでることにしたのね?」
「ウイー、サー! イエッサー!」
祐一が急激にしぼんでいくのを横目に、香里は再び机にへばりこんだ。もちろん、剃刀をグーで握ったまま。
その剃刀が期せずして前の席の名雪の背中に当たる。
「か、香里。剃刀あたってるよ〜」
「あててんのよ。動くのメンドいんだからほっといて」
はぅぅ、とばかりに椅子の前に腰掛けなおす名雪。
大きなお尻なのに椅子の半分面積しか使えないのは辛いところだが、背に腹は変えられない。
いや、この場合、背を腹にした方が危険だが。
そうかと思いきや、彼女の置かれた状況は前門の虎・肛門の狼だったりする。
おっと誤字。でも、この場合肛門の方がまだありがたかったかもしれない。
後門の狼は、前門の虎の咆哮に大人しくなったとはいえ、まだ健在だった。
「さあ、名雪。俺に妙案をくれ!」
「だから、チャックを閉じてよっ!」
狼は舌を引っ込めただけで、口はまだ開きっぱなしだったのだ。
祐一は今一度足元、というか下半身を見つめて答えた。
「んあー、だるいしまた今度な」
「今度とか、そういう問題じゃなくて……」
「いいから、今日一日限り明晰なお前の頭脳を使って天のお告げを受信してくれ。さあ、俺は何をすべきだ!? カムヒア、HEAVEN!」
もはや何を言ってるのか滅茶苦茶である。
普段は天然ボケで他人をひっかきまわす名雪も、いざ自分が逆の状況に置かれてみるとその大変さが身に染みて分かった。
無理解な人間を相手にしてると泣きたくなってくるなんて、彼女にとってはじめての経験だろう。
おまけに、相手に悪意がないのだから怒るに怒れない。
「さあ、名雪! カムヒアHEAVEN!」
「てるてる坊主作ればいいんじゃないかな」
もうどうにでもして、と言わんばかりに投げ槍に答える名雪。
だが、何か琴線に触れたのか、祐一はダンっと北川の机に足を踏み下ろした。
耳元での激しい音に、北川が驚いて顔を起こす。
「そうだ! それだ! 困った時の神頼み。北川、キーワードはてるてる坊主だ!」
「な、なんだって!? こうしちゃおれん、行くぞ相沢!」
「応よ!」
一体、今のやりとりのどこに合意が成立したというのか。
呆然とする名雪を傍目に、祐一と北川は教室を飛び出していった。
キーンコーンカーンコーン……
直後に鳴ったチャイムに、へばっていた香里が体を起こす。
「ふう、昼休みまであと一つね。ほんと嫌になるわ……梅雨って」
背筋をぴんと立て、しっかりとした口調で話す香里に、先ほどまでのへばっていた雰囲気は微塵も感じられない。
「あら? 何であたし、剃刀なんか握ってるのかしら?」
不思議そうに右手の剃刀を眺める香里に、ようやく危険から解放された名雪がおどおどしながら答える。
「何でって、ほら香里さっき……」
「ああ……なんかカッター投げたかも。生理でお腹痛いし、ナプキンつけてるから余計に蒸すし。イライラしてて休み時間のことよく覚えてないのよ」
「そうだったんだ。そんなに辛かったら保健室行った方がいいんじゃ」
「これから大事な時期でしょ? それでも授業はちゃんと受けなきゃ。ほら、石橋来たわよ」
学年一位の努力家は授業に臨む集中力が違う。
休み時間にどれだけへばっていても、それは次の授業への気力を蓄えるためなのだ。
たとえどんな状況でも、勉強ができないことに泣き言一つ言わない。
多分、世の中に出て勉強が仕事に置き換わったとしても、香里は仕事中に泣き言を言ったりはしないだろう。
そんな親友の姿に、名雪は素直に感心した。
「ねえ、香里」
「何? 授業始まるわよ?」
「うん。わたし、もっとしっかり者になれるように頑張るね」
名雪の言葉にきょとんとする香里。
そして、お約束のように手を名雪の額に伸ばす。ついでに自分の額にも。
「熱はないわね」
「うー。香里、わたしを何だと思ってるの?」
「ん、なんだかさっきの休み時間の間に精神年齢10歳くらい成長したかなって。何かあった?」
「うん……いろいろ、ね」
どこか目を泳がす名雪の素振りに香里は首をかしげる。
そこに、石橋のだるそうな声が聞こえてきた。当たり前だが、この蒸し風呂状況では教師だって参る。
「あー、水瀬、美坂。相沢と北川がいないようだが、何か知ってるか?」
二人で顔を見合わせて、名雪と香里は同時に首を横に振った。
出て行ったのは知ってるが、何をしに出て行ったのかは分からない。というか、理解できないのだから妥当な反応だろう。
「放っておけば戻ってくるか。さて、授業始めるぞ。みんなも辛いだろうが、先生だって辛いんだ。先生がみんなと同じくらいの時なんかは……」
くどくどと中年の長話が始まったので、精神衛生上の配慮から授業風景は割愛するとしよう。
というか、ほぼ全滅だし。
さて、石橋が人生何たるかを授業そっちのけで語り始めて15分くらい経過したころ。
舞台はその上。こんな雨の中、誰もいるはずがない屋上に移る。
そもそも、馬鹿となんとやらは高いところが好きと格言(?)にもあるように、好き好んで屋上に出たがるのは小学生くらいのものだろう。
そんな小学生でも雨の中屋上に出たいとは思うまい。
しかしまあ、馬鹿は死ななきゃ直らないとこれまた格言(?)にあるように、馬鹿が悪化するケースもあるようだ。
あまたの雨が降った。
気の早い夏が雪国に到来した。
熱気と湿気が織り成す、最強にして最悪の梅雨模様。
そして今。最後の希望が屋上に降り立った。
ついに発狂して、先ほど教室を飛び出していった祐一&北川である。
二人がかりで大きな白い布のようなものを運び、布から伸びたロープを屋上の落下防止フェンスにくくりつける。
「風よし!」
「天候よし!」
「方向よし!」
「位置よし!」
「お前によし! あがっ!?」
「オレによし! あがっ!?」
指差し確認で互いに五つの事項にOKサインを出す。
最後の指差しで、お互いに目突きをかまして悶えるあたり、何をしたいのかよく分からないが、とにかく準備は整った。
さあ、行くでける。
「鳥になって来ーーーいっ!」
祐一と北川は、手に抱えた白い布をどっせいとばかりに景気よくフェンスの向こうに放り投げた。
しゅるるると落下していったソレは、3階付近で止まる。
ソレは巨大な首吊りオバケ……もとい、巨大なてるてる坊主だった。
うまくソレが固定したのを屋上から確認し、祐一と北川は額の汗と髪から滴る雨水を振り払う。
「ふう、やったな北川」
「ああ、オレ達はこの学校を救ったんだ」
「見ろよ、雲の切れ間から光がさして見えるぜ」
「ああ、この国の夜明けも近いな」
その姿は、まるで一仕事終えた偉大な男達のように眩しい。
ついでに、どこに光が見えてるのか知らないが、空はこれでもかというくらいに曇天である。
しかしまあ、この行為が偉大かどうかなど健常人には尋ねるまでもない。
どどどどど、と何者かが屋上へ駆け上がってくる。
そして、ばたーんと鉄扉を開け放った。
「何をやってるのだ、この馬鹿者ども!」
凄い剣幕で怒鳴りつけた眼鏡面の男子生徒に、祐一と北川は顔を見合わせた。
彼らの取るべき行動は一つ。
当然とばかりに自分達の後ろに目を向けた。
「誰もいないぞ北川」
「ああ、ヤツには何が見えてるんだろうな?」
「お前らのことだよ! この大馬鹿者!」
本気で自分達のことだと思ってなかったらしい。
ここまで無神経なのもいっそ清々しいが、実際に対面してる人間はたまったものじゃないだろう。
階段を駆け上り、息を切らしていた眼鏡面の男子生徒が即キレたのも当たり前だった。
「なるほど。つまり、晴天祈願にてるてる坊主を吊るしたというわけだね」
「その通りだ」
ここは生徒会室。
祐一と北川は、先の眼鏡面の男子生徒に引っ張られてそこに連れて来られた。
「話はよく分かったよ」
「なら、オレらもう帰っていいか?」
「いいわけあるか、たわけ!」
温厚そうな外見とは裏腹に、ヤクザ顔負けの怒鳴り声が生徒会室に響き渡る。
「だいたい、君達があの首吊り人形作るのに使った布、あれは何だ?」
「見て分からないのか?」
「確認させてやろうと言ってるんだよ」
ぴくぴくとこめかみに青筋立てながら声を押し殺す眼鏡面。
そろそろ眼鏡面とかメガネザルとか伊達メガ男とか、いい加減な呼称はかわいそうなので、仮に久瀬和王(かずお)としておこう。
「弟者、あれはどこから取ってきたんだ?」
「何を言ってるんだ兄者。取ってきたのは兄者だったはずだぞ」
「あんなもの一人で持ってこられるわけがないだろう。この場で罪のなすり付け合いは見苦しいぞ!」
だんっ、と久瀬は机を叩いて祐一・北川の会話を叩き折る。
巨大てるてる坊主に使われた白い布の正体は、あろうことか体育館の白カーテンだった。
分かりやすく言うと、校長とかが立つ壇上の巨大な白カーテンである。
祐一と北川は、それをひっぺがして来たのだ。
「別にいいじゃないか、あんなもん。陰毛と並ぶくらい、無くても困らないものだ。うん、俺は困らない」
「君が困る困らないはどうでもいい。いくらすると思ってるんだ! それに、体育館のカーテンは学校秩序の象徴だ。シワやほつれもあってはならない、ましてや引き剥がされるなんてもっての他なんだよ!」
怒鳴られて少しは堪えるかと思った久瀬だが、当の二人はきょとんとした顔で久瀬を見つめている。
どころか、祐一は欠伸をし、北川は後ろに手を伸ばして背中を掻いていた。
そして、欠伸を終えた祐一が、久瀬を指差しながら北川に話しかける。
「なあ弟者。こいつアタマ正常か?」
「ん、まあ受験が近いしな。そろそろおかしくなる奴がいても仕方ないだろう」
「仕方ない。刺激しないようにもうしばらく付き合ってやるか」
「触らぬ神に祟りなしってやつか。流石だよな、オレら」
ちなみにこの陰口、本人に丸聞こえである。そもそも何が流石なのか。
久瀬の脳内で、ぷちんと何かが切れる音がした。
「お前ら……ふざけるのもいい加減にしろ! 僕を生徒会長と知ってて喧嘩を売ってるんだろうな!?」
凄い剣幕でまくし立てる久瀬。
しかし、祐一と北川の両名は全く動じていなかった。
むしろ、哀れみを持った目で久瀬を見つめている。
「なんか、いよいよもってコイツ意味不明だぞ」
「こういうのなんて言うんだっけ? メガロマニアとか言ったか?」
「メガロマニア? なんだそりゃ?」
「えーっと、確か誇大妄想狂ってヤツ。こないだ聴いてたBGMのタイトルでさ、美坂が訳教えてくれた」
「ふぅん。生徒会サイキョーとか信じちゃって、なんか可哀想な奴だなあいつ」
「変な漫画や同人誌でも読みすぎたんだろう。あとは……いるんだよな、ネットでそういう小説書いてておかしくなる奴」
「あー、なるほど。これが最近問題のダメヲタヒッキーか……」
言うまでもないが、この会話も垂れ流しである。
それを余すところなく聞かされた久瀬は、フフフフと不気味に乾いた声で笑い始めた。
そして、どん、と力任せに両の拳を机に叩きつける。
「貴様ら退学だ! 二度とこの学校の敷居をまたぐな! 今すぐ出てけ!」
大人しい外見からはとても想像できない汚い言葉使いと大きな怒声に、さすがの祐一と北川もしんとなった。
え? マジ退学? なんて感じに二人して顔を見合わせる。
さっきまで馬鹿にしてたとはいえ、相手が冗談抜きで本気臭いので少し心配になってきたらしい。
そこでビビるなら初めからおちょくらなければいいのに、後先考えない二人である。
と、そんな沈黙を破るかのように、生徒会室の扉が開いた。
「落ち着きなよ、久瀬」
入ってきたのは、少々しょぼくれた感じのおとなしそうな男子生徒だった。
彼の顔を見て、名前を呼ばれた久瀬だけでなく、祐一北川も「あっ」といった様子で口を開ける。
どうやら、お互いに認識のある人物だったようだ。
「斉藤、どうしてここに?」
「君の声、うちのクラスにも丸聞こえだよ。気になって抜け出してきてみたら、退学とか騒いでるし」
「だが、それはここの二人が……」
「彼らの漫才を久瀬が真面目に相手してたら、どうなるのかくらい想像はつくけどね。久瀬は人の話を真面目に聞き過ぎるから。でも、こんなの見たら鳥居さん怒ると思うよ。会長職譲られる時に、正義感や体面重視で突っ走るとこ注意されたんだろ?」
「ぬ、うっ……面目ない。僕としたことが、少々冷静さを欠いていたようだ」
「謝るなら僕じゃなくて、あっちの二人に。だいたい学生が羽目外すのは当然なんだから、久瀬が生徒会長として寛大になるべきだよ」
斉藤という少年に注意されて、しゅんとなる生徒会長久瀬。
どうやら、彼は前生徒会長から現生徒会長のお目付け役を頼まれていたらしい。
あれほど猛っていた久瀬を、一分足らずでなだめてしまった。
「君達……その、すまなかった」
頭を下げて詫びる久瀬に、祐一と北川はどう反応したものかと顔を見合わせる。
さすがに、彼らにもさんざん悪口を目の前で言った自覚くらいはあるからだ。
「二人とも。元気なのはいいけど、時と場所は考えて……ね。ホントに」
やれやれとばかりに溜息をついた斉藤の視線に、祐一と北川は赤面して頭を下げた。
「わ、悪い。やりすぎた」
「すまん。ちょっと口が過ぎた気がする」
斉藤のおかげで、どうにか互いに遺恨を残す結末は回避できたようだ。
「ところで斉藤、彼らとは知り合いなのか?」
お互いに詫びるのもほどほどに、顔を上げた久瀬はそう尋ねた。
「知り合いっていうか、クラスメートだよ」
「ふむ、そうだったのか」
「斉藤、お前生徒会役員だっけ?」
と、今度はクラスで挨拶くらいは交わす仲の北川が尋ねる。
「ん、まあ一応ね。書記やってる」
「……なんか似合ってるな、それ」
「相沢、今何か言ったかい?」
「いや、何も」
やれやれと、祐一の余計な茶々に溜息をつく斉藤。
それだけで流すあたり、人間が出来ているというか処世術に長けてると言うべきか。
おそらく、普段から人様と衝突するような生き方と無縁の人間だろう。
よく言えば平和主義、悪く言えば事なかれ主義というやつだ。
「でもさ、久瀬。なんかまずいよ。君、あのてるてる坊主見て飛び出していったみたいだけど、今、全クラス自習になってるのは知ってる?」
「何だって? 一体何故?」
「緊急職員会議。ちょっと状況が状況だから放送は入ってないけど」
「何かあったのか?」
「なんかね、一年生のクラスで、宿題忘れの注意が原因で口論になってさ、先生が生徒に殴られたみたい」
「それは……」
生徒が教師に暴力を振るう。
学校の秩序という意味では、体育館の白カーテンなどとは比較にならない問題行為だろう。
あまりの事態に、久瀬も絶句する。
「最近ちょっと雰囲気悪いよ。昨日も二年で喧嘩騒ぎがあったし、どこもかしこもギスギスしてきてる。もちろん、君も含めてね」
「梅雨に入ってから、ろくに晴れた日がないからな。おまけにこの蒸し暑さだ」
「それだけじゃないぞ」
と、そこまで黙って生徒会役員二人の会話を黙って聞いていた祐一が口を挟んだ。
むぅ? とばかりに久瀬がそちらに振り返る。
「それだけじゃない、とは?」
「ほら、今六月だろ? で、こんな学校来るのがクソダルい状況なのに、祝日が一つもない」
「それもそうだな……単調な日々はよりストレスを溜めかねん」
「むしろ、相沢や北川のてるてる坊主なんて、ストレス解消としては平和で健全な方じゃないかな。……まあ、体育館のカーテンの損害は安くないけどね」
「ストレス解消、か。何か手を打つのが生徒会の仕事なんだろうが、どうしたらいいものか」
うーむ、と頭を抱え込んで机に肘をつく久瀬。
斉藤と祐一がそれぞれ、天井を見上げたり腕を組みながらそれに続く。
ふと、祐一が閃いたとばかりに顔を上げた。
「そうだ、ゴールデン……」
「相沢、そんなことしたら夏休みが三日飛ぶよ?」
ゴールデンウイークカムバック、と言おうとした祐一の機先を制して斉藤が突っ込みを入れる。
「むぅ、せっかく学校休めても今度はクソ暑い夏に授業が三日分回るとなると考えものだな」
「それ以前に、三連休なんかやったらみんなだらけてしまうだろうから僕は反対だ。それに、家庭問題抱えてる生徒はかえってストレスを溜めるだけだろう」
「家庭問題って……あんたか?」
「例えばの話だ。勝手に人の家庭を崩壊させないでくれ」
と、今度は斉藤が小さく手を挙げる。
ちゃんと挙手して発言しようとするあたり、彼の几帳面な性格が伺える。
ついでに、何かと損をしてそうな性格だということも。
「やっぱり、ぱーっとした行事がいいんじゃないかな? みんな教室でジメジメしてるしかないからストレス溜めてるわけだし」
「よし。じゃあ景気よく旧校舎あたりに火をつけてリアル防災訓練を」
「相沢君とか言ったな……君」
「おう」
「少し黙っていたまえ」
「な、何ぃ!?」
「はいはい、相沢。美味しいお菓子でもあげるからこっちにおいでよ」
ぐっと右拳を握り締めた祐一の髪を、後ろから伸ばされた斉藤の手が掴む。
そのまま有無を言わせず、生徒会室脇の棚へと引っ張っていった。
それを横目に、久瀬は溜息をつく。
「はぁ。この雨じゃ来客者も嫌がるだろうし、体育祭や文化祭をするわけにもいかない。雨でグランドが使えない状況で、全校生がストレス解消できるイベント……」
「禁オナニーマラソン!」
「君はもう黙ってろ! そもそも意味分かってるのか!?」
逆にストレスが溜まるだけだ、と心の中で毒づき、久瀬はこめかみを人差し指でとんとん叩きながら考え続ける。
傍から見ればおかしな思考ポーズだが、彼にとってはそれが一番閃きを促す……らしい。
「そもそも、運動会や文化祭もストレス解消になってるかは疑問だ。運動会は身体能力の低い生徒はのけ者だし、文化祭も何だかんだでのけ者は出る。みんなが主役になれるようなイベントなんて……」
一瞬、伝統の舞踏会を思い浮かべた久瀬だったが、全校生徒が踊れるほどのスペースは体育館にはないし、かといってグランドが使えない状況ではキャンプファイヤーDEフォークダンスなんてのも、もっての他。
それ以前に、踊る技術は必要無しという前提でも、踊るのが楽しいなんて生徒はごく一部だろう。
「駄目だな、生徒会長」
「む?」
突然、今まで沈黙を守っていた北川が言葉を発した。
そして、おもむろに生徒会室脇の掃除用具入れに近寄る。
「会長さん、あんたこれが何に見える?」
「掃除道具入れのロッカーだろう?」
「たしかに、これは掃除道具入れのロッカーだ。だけど、あんたこれの使い方を知ってるか?」
「……どういうことだ? ロッカーはロッカーだろう? 物を入れたり出したりするものじゃないか」
「分かってないな」
やれやれとばかりに北川が両手を広げてみせる。
そして、北川はロッカーの扉を開けた。
「ロッカーには物の出し入れ以外にも、自分が隠れる、何かを隠す、扉を盾にする等、様々な使い方がある。諜報活動の必需品と言っても過言ではない」
「おいおい、それは本当か?」
「勿論だ。ロッカーによって任務を成功に導いたスパイは古来より数知れない」
「なるほど……」
「そして、次はこれだ」
そう言って、北川は感心している久瀬の前に、どこから出したか缶詰を一つ置いた。
ツナの缶詰、すなわちお馴染みツナ缶である。
「ツナほど、色々な国とうまくやってる食べ物はない。日本の寿司、インドのカレー、イタリアのスパゲティ、イギリスのサンドイッチ、それらの国々の料理と何の違和感もなく協調している」
「……た、確かに」
「しかし、だからといってツナに個性がないわけではない。カレーに入ろうが、マヨネーズであえようが、ツナの味ははっきりと確認できる。そう、ツナの個性は保たれているのだ」
「……ふむふむ」
と、メモまで取り始めたところで久瀬は何かおかしいことに気づいた。
雰囲気に飲まれて、つい突っ込み入れるのを忘れてしまったのである。
むしろ、突っ込みどころしかない演説だったのだが。
「ところで、結局君は何が言いたかったんだ?」
「つまり、オレが言いたいのは」
「うむ」
「ツナに出来てオレ達にできないことはないだろ、と!」
チーン……
仏壇の鐘が生徒会室に鳴り響いた気がした。
北川を除く全員の心の声は、「お前それ、ロッカーの話関係ないやんけ」である。
それ以前に、根本的に意味不明。
説明を求めたところで「言ってみたかったんだ」と開き直られるのがオチなことくらい誰にでも想像できる。
「……まあ、お天道様が顔を出してくれることを祈って待つしかないようだね」
複雑な表情で久瀬がそう締めくくろうとした時、祐一が突如吠えた。
「閃いた!」
「なっ!?」
先ほどまでとは違い、妙に気合の入った声だったので、久瀬も少々驚く。
「何かいいプランでも思いついたのかい?」
「ああ、さっきの北川のロッカーの話で思いついた。ロッカーにあれだけの使い道があるということは目からウロコだったが、俺達は忘れていただけなんだ」
「へぇ。何か説得力のありそうだな。聞かせてくれ」
「ああ、こいつをやれない奴はまずいない。やったことない奴だっていないはずだ。そして! 規模が大きくなればなるほど面白くなるし、原則外に出る必要もない」
「そんな夢のようなプランが本当にあるのか?」
「もちろんだ。多分、形は違うだろうが同じ趣旨のことを皆やったことがあるだろう。もしやってなかったとしても、心躍ることは間違いない。大人も子供もおねーさんも、だ」
最後のフレーズが微妙に意味不明だったが、信じられない、といった面持ちで久瀬が祐一を見つめる。
聞けば聞くほどに、今の状況を打開する理想的な話ではないか。
しかも、祐一は誰もが経験したことがあるとも言っている。
「是非教えてくれ。君のプランは何なんだ?」
「思い出に還る物語。またの名を――」
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