控えめなノックに、彼の心はざわめいた。だが彼も集団を束ねる要職にある者である、動揺は一瞬の事であった。出来るならば避けたかった事態。こうなってしまった以上、避けられない運命。

「開いています、どうぞ」

 彼の決して大きくは無い声が届いたのだろう、生徒会会議室のドアが幾分控えめに開かれた。




善意の奥の地獄、悪意の奥の楽園

Me262Tan




「失礼します」

 鈴鳴る声で会議室のドアを開けたのは、倉田 佐祐裡と言う少女だった。絵に描いた様なお嬢様に極上の笑顔と人懐っこさを加えると、大体彼女のイメージが分かろう。それ故彼女は学内でかなり人気があり、また地元の名士の息女だけあって顔も広い。これだけ揃うと嫌味の一つでも出てきそうだが、彼女に限っては不思議とそう言う話は聞かれなかった。

「今会議室は僕とあなただけです。好きな所に掛けて下さい、佐祐裡さん」

 そう言う彼――久瀬は本当に好きな所に腰掛けている。テーブルの上と言うマナーに欠ける場所ではあるが、この場に彼の無礼を指摘する者はいない。いつも生徒会を切り盛りしている彼を知る生徒会執行部の者が見れば卒倒ものの行儀の悪さだが、佐祐裡はそんなものは端から気にしない。そんな些細な事を言い争う為にここに来た訳では無いのだから。

「そうですか、では佐祐裡はこの辺にしますね」

 佐祐裡も佐祐裡で遠慮などする人間ではない、彼女は出入り口に近い壁際に寄り掛かって軽く腕を組んだ。こちらも普段上品で無邪気、と言う一見矛盾する評価を得ている者らしからぬ態度である。その馴染み様と風格は無理をして態度を取っていない事を如実に表している。親しい者ならば彼女の差異に気付けただろう、いつもの無邪気な微笑みとは違う彼女の邪悪とすら言える雰囲気に。彼女の寄り掛かった場所は廊下側から見て死角になっている為に、彼女の豹変振りは広がらないのだ。

 久瀬の側に立っていない事をそれとなく示し、尚且つ自分が風評通りの人物ではない事を佐祐裡は彼にたったそれだけの行動で分からせたのだ。

 久瀬は佐祐裡のその周到さとしたたかさに目眩を覚えたが、ここで呑み込まれてはいけないと自分に言い聞かせて意識を新たにする。

「あなたにも案件は分かっているでしょう」

「ええ、舞の事ですね?」

 久瀬の厳しい口調をむしろ楽しむ様な佐祐裡の雰囲気に、彼は苛立ちを隠せなかった。また隠そうとした所で、笑顔の奥に無数の刃を持った彼女を相手にして隠し通せるとは到底考えられなかった。

 だから彼は苛立ちを追い出す様に前髪を右手で掻き分け、彼女の発言を肯定する。

「そうです、生徒会としては今回の川澄 舞の行動を看過出来無いと考えています」

 佐祐裡は口を挟まず、久瀬の発言を促す。その表情は、やはり依然として楽しそうであった。一見無邪気な彼女の態度は、酷薄さの裏返しなのだと彼は認識を強める。

「そして彼女の行動を抑制出来無い生徒会自体も槍玉に挙がっています。生徒の安全を護れない現行の生徒会に意味は無いと。だが僕はこう考えます、生徒一人を犠牲にして得られる安全など価値が無い、意味が無い。少数派の抹殺など生徒会のやって良い事では無いと思うのです」

 そこまで言い切った久瀬は自嘲気味に付け加える。

「ただ、生徒会長とは言え僕の考えは正に少数派でね。結局多数派の意見に押しつぶされて川澄 舞の放校が決まった訳なのですが」

「故に要求される策は現行の生徒会の体面を保ちつつ、反生徒会の意見を黙らせ、舞の行為を抑制させ生徒の安全確保を図らなければならないと言う訳ですね」

 大変ですねと言いたげに佐祐裡は目を細めた。彼女には他人に対する悪意が無い。だからこそ他者を動かそうと言う時、傷付けようと言う時、排除しようと言う時、微塵の躊躇いも容赦も無いのだ。害虫を殺す時、人は情けを掛けないだろう。それと同じ事を、彼女は同じ人間に対して出来る。自らは手を下さずに状況を整え周りをけしかける事によって、彼女は目的を達成する。

「全てお見通し、ですか」


「当然でしょう?」

「本当に嫌な人ですね、あなたは」

 久瀬は溜息を吐いて胸ポケットから取り出した箱から棒状の物を一本抜き取り、口に銜えた。

「煙草はいけませんよ」

「ココアシガレットですよ、いけませんか」

 銜えた物体を口の中に放り込む久瀬を見て、佐祐裡は肩を竦めた。確かに本物の煙草であれば、そんな真似は出来無い。もっとも彼が本物の煙草を銜えた所で、彼女は非難しなかっただろう。状況証拠や物的証拠、目撃証言が無ければそんな事象は無いも同然なのだ。校内で煙草に火を付けて部屋に臭いを残す程彼は愚かでは無いし、自分にまで被害の及ぶ行動を彼女が看過するとも思えない。

「今回の騒動の中心人物は川澄 舞です。だから癌細胞たる彼女を切り捨ててしまえ、と言うのが生徒会の総意です。ですから彼女が癌細胞でなくなってしまえば、問題は一挙に解決に向かう筈です」

「だから舞と一番親交の深い佐祐裡が生徒会の一員になってしまえば、生徒会が舞を制御出来る――そう考えているんですね」

「……本当に、あなたは腹立たしい程に物分かりが良いですね。そして地元の名士の息女であるあなたが生徒会に入れば、生徒会的にもプラスになる事は間違いありません。大きなカードとして使えるでしょう」

「佐祐裡が生徒会に入る事を条件に舞の放校取り消しを通せる、と言う事ですね」

「そう言う事です」

 久瀬の咥内にココアシガレットの控え目な甘さが広がる。腹の底に這いずる、佐祐裡に対する不快感とは対照的である。

 政治的な駆け引きの話をしていても、佐祐裡はいつもの笑顔を崩さない。同時に本来の姿であろう邪悪な雰囲気も隠そうとはしない。そんなアンバランスさがいかにも二律背反的で、彼女の恐ろしさを如実に示していた。その気になればその笑顔のまま、彼女は敵の急所に刃を突き立てるのだろう。

「あなたは佐祐裡を生徒会の一員に引き入れた功績で生徒会内での権力を強化して、佐祐裡は舞を庇う事が出来る。悪役も楽じゃありませんね?」

「悪は佐祐裡さん、あなたでしょう。表立って権力の側に付く事を嫌ったあなたは得意の婉曲的な扇動で反生徒会を育てていたんですから」

「何の事でしょう、元々生徒会が気に食わない人達がいた様ですから佐祐裡は少しだけ背中を押しただけですよ」

 佐祐裡は少しだけ頭の悪い普通の女の子ですから、と付け加える。ではその頭の悪い普通の女の子に手玉に取られ続けてきた自分は何なのだ、と言いたい気持ちを飲み込んで久瀬は二本目のココアシガレットを銜えた。彼我の能力による戦力差は、やはり埋めがたいものの様である。

「それに佐祐裡は偽善を力に舞を助けたい、久瀬さんは偽悪を力に舞を助けたい。何の違いがあるんですか、舞をずっと庇い続けてきた生徒会長の久瀬さん」

「やはり、気付いていましたか」

「当たり前ですよ。これだけ舞のものと目される騒動が起こっているのに、今の今まで放校処分が下らなかった事が何よりの証拠じゃないですか」

 佐祐裡の言う通り、最初にガラスが割られる事件で舞が被告になった時真っ先に彼女を庇ったのは久瀬である。だが当時の彼はただの一般生徒である、庇い続けるのにも限界があった。それ故に彼は生徒会長を目指そうと思ったのだ、先陣を切って舞を処罰する側に立つ事で彼女が受ける損害を最小限に留めようと。

 結果当の舞からは恨まれてしまった、そしてこれからも恨まれるだろう。何故そこまでして彼女を庇うのか、と言われても久瀬は応える事は出来無い。久瀬と舞は昔同じ剣術道場に通っていた事がある、ただそれだけの関係である。元恋人同士と言う訳でも無ければ、特別親しかった訳でも無い。それどころか碌に話し掛けた事も話し掛けられた事すら無い。

 それでも舞の危機を看過するのは久瀬の良心が許さなかった。同情からか、それとも昔の道場仲間と言う親近感からか、或いは自分が剣術で彼女に一度も勝った事が無いと言う劣等感からか。その正体を彼は知りたいとは思わなかった。

 助けたいと言うただその一心が有れば、久瀬にとっては十分な理由だったのだ。打算を抜きにして自発的に助けたいと思う心はどんなものよりも尊い、と彼は思っていたから。

「……まあ良いです、今日の生徒会であなたの生徒会入りを条件に川澄 舞の放校取り消しを掛け合ってみます」

「期待してますよ、生徒会長さん」

 わざとらしく頭を下げ終わった後、既に佐祐裡から邪悪さが消え失せていた。今まで彼と向き合っていた時間が嘘だとでも言う様に、彼女はいつもの無邪気で人の良い女生徒に戻ったのだ。

 佐祐裡が生徒会会議室を出た後、今一度久瀬は彼女の言葉を反芻する。

 ――それに佐祐裡は偽善を力に舞を助けたい、久瀬さんは偽悪を力に舞を助けたい。何の違いがあるんですか。

 地獄へ続く道は然で敷き詰められていると言う。善を振りまき敵が自滅するよう仕向ける佐祐裡は正にこれの体現者であろう。ならば悪で敷き詰められる道で楽園へと続く様には出来無いものだろうか。

「やはり僕は悪役が似合っている様だ」

 生徒会の中での悪役であり、舞の中での悪役、反生徒会の槍玉としての悪役、そして完全なる安全が確保されないと不満を持つ生徒の中の悪役。二本目のココアシガレットを噛み砕き、久瀬は人に恨まれる事が確定している己の未来に一人溜息を吐いた。